第三章 資格確認
「死人が起き上がったなら、まず神殿で鑑定じゃ」
朝いちばんに私の寝床へ来た老人は、そう言って荷車の手綱を握った。
白い髭が胸まで伸びている。背は曲がっているのに、目だけが鋭かった。角を削って作った丸眼鏡を鼻にのせ、右手の指は三本とも黒く染まっていた。墨だ。洗っても落ちないほど長いあいだ墨に触ってきた指だった。
「書記のじいちゃんだよ。ハルヴァンじいちゃん」
トマが耳打ちする。
ハルヴァンさんは私をじろりと見て、荷台の藁を顎で示した。
「乗れ。ハルトまで半日かかる。司祭さまが蘇った娘を連れてこいとのお達しじゃ。悪いものが憑いておらんか、水晶で見るんじゃと」
「悪いもの」
「戻り人が死体を乗っ取ることがある、と教会は言うておる。わしは見たことがないがの」
私は返事をしなかった。乗っ取った、という言い方はある意味で正しい気がした。
ポケットに手を入れる。ゆうべの赤い札がまだ入っていた。
◇
ロバの引く荷車は思っていたよりずっと揺れた。
轍の深い土の道をごとごとと進む。左手には麦の刈り跡が続き、右手には灰色の岩肌の山が迫っていた。山の頂には雪が残っている。トマが言うには、あれが灰嶺山脈で向こう側が王様の国なのだそうだ。
途中の村で道端に人が並んでいるのを見た。
十人ほどが粗末な戸口の前で咳き込んでいる。みな頬がこけて、目が落ちくぼんでいた。家の中に寝かされたままの人もいるのだろう。開いた戸の奥からくぐもった咳が漏れてくる。
「ここらはどこもこうじゃ」
ハルヴァンさんが前を向いたまま言った。
「二十年前から、オルドには加護の通りが悪うなった。癒し手の光が細る。病が治らん。治らんから広がる」
「二十年前に何があったんですか」
「この土地が、王国のものになった」
それきりハルヴァンさんは黙った。ロバの尻尾が左右に揺れて、蠅を払っていた。
ハルトは石壁に囲まれた町だった。門をくぐると通りに露店が並び、焼いた肉と酸っぱい酒の匂いがした。人の声がうるさい。けれどその中にも咳の音が混じっていた。
神殿は町の真ん中にあった。白い石の建物で、屋根の上に大きな天秤の飾りが掲げられている。扉の両脇には白い外套に剣を佩いた男が二人立っていた。
「聖騎士さまだ」
トマが私の手を強く握った。
中は薄暗く、蜜蝋の甘い匂いがした。祭壇の奥に施療院で見たものよりずっと大きな石の台があった。天秤の彫り物。受領台、とハルヴァンさんが小声で教えてくれた。
祭壇の前で待っていたのは太った中年の男だった。白と金の衣を着て、指に指輪を三つはめている。
「司祭オズワルさまじゃ」
司祭は私を上から下まで眺め、鼻を鳴らした。
「ニーナ・セラフだな。灰咳で死んだと届けがあった。昨夜のうちに起き上がったと」
「はい」
「名乗れ」
私は口を開き、閉じた。
「……ニナ、です」
司祭の眉がわずかに動いた。
「ニーナ・セラフ、と言え。教会の名簿に載った名で」
「ニーナ・セラフ、です」
言いながら胸の奥がざらついた。私の名前ではない。たぶん、この体の持ち主の名前でもない。トマはこの子をニナと呼んでいた。
司祭が手を上げると、若い修道士が布に包んだものを運んできた。台の上で布をほどく。握りこぶしほどの、透明な水晶の玉だった。
「手を置け。洗礼のときと同じだ」
私は水晶に手のひらを当てた。冷たい。
水晶の中にゆっくりと光がにじんだ。白い光が渦を巻き、文字の形に固まっていく。
司祭が身を乗り出した。修道士も扉の脇の聖騎士も、こちらを見ている。
文字は一つだった。
【受付】
「……受付?」
司祭が読み上げた。
しばらく誰も何も言わなかった。それから修道士の一人がこらえきれずに吹き出した。
「受付、ですか。門番か何かでしょうか」
「宿屋の帳場かもしれんな」
司祭が言うと、聖騎士たちも肩を揺らして笑った。笑い声が丸天井に反響して何倍にもなって降ってきた。
「戦えず、癒せず、ただ人を迎えて名を書くだけの力か。女神さまも気まぐれなことをなさる」
トマが顔を真っ赤にして司祭をにらんでいた。私はその肩に手を置いた。
笑われるのは、慣れている。
受付は病院の顔だと研修で教わった。けれど実際に顔として扱われたことは、ほとんどない。「受付の人」はたいてい名札も見られずに呼ばれる。
「まあよい。悪いものが憑いているなら、水晶は黒く濁る。濁ってはおらん」
司祭は手を振った。
「次だ。資格を見る」
水晶の光が消え、また別の光が灯った。今度は文字の列が浮かぶ。トマの頭の上に見えたのと同じ形の枠だった。
けれど、その中は空だった。
名簿の名も、台帳の名も、資格の欄も。何もない。ゆうべ水盥に映ったのと同じ、白い空欄だけが並んでいる。
司祭の顔から笑みが消えた。
「名簿にない」
「そんなはずありません」
トマが叫んだ。
「姉ちゃんは洗礼を受けたよ。おれ、覚えてる。母ちゃんが連れてった」
「ニーナ・セラフは死んだのだ」
司祭はトマを見ずに言った。
「死んだ者の名は、名簿から消える。この娘の魂は名簿のどこにも書かれておらん。どこから来たのか知らんが、これは空札だ」
「空札……」
「資格を持たぬ者のことだ。女神さまの帳簿に名のない者。施しを受ける資格も、資格証を得る資格もない。病に倒れても、癒し手の光はこの娘には届かん」
空札。
白い札。何も書かれていない札。私の名札の裏側と同じだった。
「戻り人のなりそこないかもしれんな」
司祭は聖騎士のほうへ目をやった。
「念のため、本部に報せて……」
「司祭さま」
ハルヴァンさんが一歩前に出た。曲がった背を、少しだけ伸ばしていた。
「この娘は、わしが預かります」
「書記が何を言う」
「施療院は人手が足りません。癒し手はヤルナ一人。わしは目が悪い。毎月の明細を、もう一人では書ききれませんのじゃ」
司祭は顔をしかめた。
「空札を教会の施療院に置けと」
「下働きでございます。水を汲み、床を掃き、帳面を運ぶ。それだけのこと」
ハルヴァンさんは深く頭を下げた。墨で黒い指が膝の上で小さく震えていた。
「四十年、明細を納めてまいりました。そのよしみで、どうか」
長い沈黙のあと、司祭は鼻から息を吐いた。
「勝手にしろ。ただし、何かあればお前の責任だ。資格証は出さんぞ」
「ありがとうございます」
神殿を出ると、昼の光が目に痛かった。トマが私の腰にしがみついて声を殺して泣いていた。
ハルヴァンさんは荷車の手綱を取りながら、ぼそりと言った。
「お前さんの字は、きれいかの」
「……え」
「書記の手伝いをするなら、字が読めて書けんと困る。どうじゃ」
「読めます。たぶん、書けます」
「たぶん、か」
ハルヴァンさんは鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。
◇
帰りに市場に寄った。施療院の薬草と灯り用の獣脂を買うためだ。
ハルヴァンさんが店主と値段の掛け合いをしているあいだ、私はトマと荷車の番をしていた。
そこで、気づいた。
野菜を売る女の人が通りすがりの客に名乗った。
「あたしはエルダだよ。また来とくれ」
女の人の頭の上に枠が浮かんだ。
『氏名(名簿):エリザベタ・ドール
氏名(台帳):エルダ
資格:不一致――返戻中』
私は目をこすった。
隣の店の男が配達の若者に呼びかけられて答えた。
「おう、ベルンはおれだ」
また枠。名簿の名はベルナルド・グラン。台帳の名はベルン。不一致。
窓は本人が自分の声で名乗ったときにだけ現れるらしい。人に呼ばれたときではなく、自分で口にしたとき。そして浮かぶ窓の中身はどれもよく似ていた。名簿には長くて立派な名前。台帳には短い名前。資格は、不一致。
ときどき、違う窓もあった。
毛皮の帽子をかぶった商人が荷を運ぶ人足に自分の名を告げた。商人の窓は二つの名が同じだった。資格は、有効。
「トマ、あの人はどこの人?」
「王都から来た商人だよ。訛りでわかる」
王都の人は、有効。オルドの人は、不一致。
頭の中で勝手に表が組み上がっていく。属性別に分けて件数を数えて、偏りを見る。毎月、査定と返戻の傾向を分析するときと同じ手つきだった。
市場で名乗る声を、私は二十二人分聞いた。王都や王国の人らしい三人は、有効。残りの十九人は全員が不一致だった。
二つの名が食い違えば、資格は止まる。資格が止まれば、加護は届かない。加護が届かなければ、病は治らない。
まさか、と思う。
まさか、この土地の病が広がっている理由は。
「姉ちゃん、顔、こわいよ」
トマが私の袖を引いた。私は慌てて口元をゆるめた。
◇
帰りの荷車でハルヴァンさんが前を向いたまま聞いた。
「受付とは、何をする力なんじゃ」
「来た人の名前を確かめて、どこへ行けばいいかを案内する力……だと思います」
「名前を確かめる、か」
「はい。間違えないように。同じ名前の人を取り違えないように」
ハルヴァンさんはしばらく黙っていた。ロバの蹄が乾いた土をこつこつと打つ。夕日が山の稜線を赤く縁取っていた。
「それなら、施療院にいちばん足りんものじゃな」
ぽつりと、それだけ言った。
私は膝の上で手を組んだ。荷台の藁が日向の匂いをさせていた。
セグの施療院に戻ったのは、日が落ちてからだった。
ハルヴァンさんの書記室は廊下の突き当たり、あの祈りの部屋の隣にあった。狭い部屋に棚と机が一つずつ。棚には巻いた羊皮紙と紐で綴じた帳面がぎっしり詰まっていた。机の上には黒く汚れたインク壺と、羽根の擦り切れたペンが三本。部屋じゅうに墨と黴と古い紙の匂いが満ちていた。
懐かしい匂いだった。医事課の書庫と同じ匂いがした。棚の帳面の背には年ごとの数字らしい文字が並んでいる。いちばん古いものは、紐が茶色く変色していた。
「今夜はここで帳面の綴じ紐を直してもらう。明日から受付……いや、下働きじゃ」
ハルヴァンさんが言い直したのを、私は聞き逃さなかった。
部屋の隅に大きな箱が置いてあった。
黒ずんだ木の箱で、鉄の帯が三本巻かれている。蓋には錆びた錠前。ちょうど子ども一人が入れそうな大きさだった。
「ハルヴァンさん、それ」
言いかけたとき、ポケットの中の札に指が触れた。私はそれを取り出した。
「ゆうべ、隣の部屋で拾いました。台の上に落ちてきて。この字は、何ですか」
ハルヴァンさんの手が止まった。
眼鏡の奥の目が赤い札を見た。それから私の顔を見た。
次の瞬間、札は私の指から消えていた。ハルヴァンさんがひったくったのだ。老人とは思えない速さだった。
「拾うたものは返せ」
声が低かった。
「これは、お前さんの触るものではない」
ハルヴァンさんは札を懐にしまい、私に背を向けた。棚の帳面を一冊引き出して、乱暴に机に置く。紙の束から埃が舞った。
トマが私の耳元でささやいた。
「あれ、じいちゃんの開かずの箱なんだ。夜中にね、ときどき紙がこすれるみたいな音がするんだよ。泣いてるみたいな音」
私は箱を見た。
錆びた錠前の鍵穴が小さな黒い目のように、こちらを見返していた。




