第二章 新患登録
私の隣には、死体が三つ並んでいた。
石の台の上に麻の布をかけられた人の形が三つ。足の先だけが布からはみ出している。一つは大人の大きな足で、二つは子どもの足だった。
私はその列の四つ目に寝かされていた。
起き上がると胸の上から布が滑り落ちた。冷たい。石の冷たさが背中から骨に染みている。鼻をついたのは酢と乾いた草、それに獣の脂の焦げる匂いだった。壁際の小さな棚で黄ばんだ蝋燭が一本、煤を上げて燃えている。
駐車場ではない。病院でもない。
喉に手を当てる。息が吸える。咳は出るけれど、さっきまでの焼けるような痛みはない。
その手が、私の手ではなかった。
指が細い。爪は短く割れていて関節に赤いあかぎれがある。二十九年見てきた自分の手より、ふた回りは小さかった。手の甲を返す。袖は粗い灰色の毛織物で、肌に触れるところがちくちくする。
髪が肩にかかっていた。長い。胸のあたりまである。私はずっとショートだった。一房つまんで目の前に持ってくると、蝋燭の光で栗色に透けた。毛先は青い紐で編まれている。
夢、だろうか。
そう考えたとき、扉が開いた。
「ニナ姉ちゃん」
飛び込んできたのは十歳くらいの男の子だった。灰色の上着に、膝に穴の空いたズボン。頬が煤で黒い。男の子は台の端で足を止め、目を丸くして私を見た。
それから、泣いた。
声を上げて泣いて、私の膝に顔を押しつけた。小さな肩が震えている。木屑の匂いがした。
「姉ちゃん、起きた。起きた。癒し手さまの光も効かなかったのに。神父さまも、もう戻らないって言ったのに」
私は何も言えなかった。
この子は誰で、ニナとは誰か。答えは一つしかなかった。私が今入っているこの体の名前がニナなのだ。
男の子が顔を上げた。鼻水を袖で拭いて、言った。
「おれだよ。トマだよ。姉ちゃん、わかる?」
その瞬間、男の子の頭の上に四角い枠が浮かんだ。
薄い光でできた枠だった。中に文字が並んでいる。読めない形の文字なのに、意味だけがすっと頭に入ってきた。
『氏名(名簿):トマス・セラフ
氏名(台帳):トマ
資格:不一致――返戻中
負担:一割』
私は瞬きをした。枠は消えない。
見覚えがあった。文字の形は違う。けれど、並びに見覚えがある。氏名、資格、負担の割合。受付のカウンターで患者さんがカードをかざすと画面に出る、あの資格確認の画面とそっくりだった。
負担一割。子どもだからだ。
資格、不一致。
職業病だと思う。こんなときにまで私の目は真っ先にその四文字で止まった。名簿の名前と台帳の名前が違う。トマスとトマ。たった一文字の違いで、この子の資格は止まっている。
「姉ちゃん?」
「……うん。トマ、ね」
声が出た。高くて細い、少女の声だった。
トマはもう一度泣き出しそうな顔をしてから、私の手を握った。
「立てる? 施療院のみんな、姉ちゃんが死んだと思ってここに運んだんだ。母ちゃんのときと同じ部屋」
母ちゃん。この子の母親も、ここに寝かされたのだ。
私はトマの肩を借りて台から降りた。足の裏に石の床。藁の草履が台の下にそろえて置いてあった。
隣の三つの布は、動かなかった。
扉の前で一度だけ振り返った。布からはみ出した二組の小さな足が蝋燭の明かりで黄色く見えた。私の足も、ついさっきまであの列にあったのだ。トマはそちらを見ないようにして、私の袖を引いた。
霊安所の外は暗い廊下だった。壁は漆喰で、ところどころ剥がれて石が見える。廊下の先から咳の音が聞こえる。一つではない。何十もの咳が重なり、途切れてはまた始まる。
「流行ってるの?」
「灰咳だよ。姉ちゃんもそれで倒れたじゃないか。灰色の痰が出て、熱が下がらなくて」
「みんな、治らないの?」
「治らない。前は癒し手さまが手をかざせば、すぐ熱が引いたんだ。でもこのごろ、光が弱いんだって。女神さまの加護がオルドには届かないんだって」
オルド。知らない地名だった。
廊下の角を曲がると、広い部屋に出た。床に藁の寝床が並び、人が横たわっている。三十人はいる。灯りは壁の燭台に三つきり。その間を灰色の前掛けをした女の人が一人で動き回っていた。
寝床の並びには順番がなかった。入ってきた順に空いたところへ寝かせているのだろう。咳一つで済んでいる若い男の隣に、唇の紫になった老婆が寝ている。入口のすぐ脇では、赤ん坊を抱いた母親が壁にもたれたまま眠っていた。
病院ならまず重い人から診る。受付で顔色を見て、看護師さんを呼ぶ。そういう仕組みがここにはないように見えた。
女の人が振り向いた。二十代の半ばくらい。黒い髪を後ろで乱暴に束ね、頬がこけている。目の下が青い。手に持った木の椀から湯気が立っていた。
女の人は私を見て、椀を落としかけた。
「……なんで?」
それだけ言って、私の前に来た。乾いた指が私の手首に触れる。脈をとっているのだとわかった。指先が冷たい。
「息が戻ってる。脈もある。死んでたのに。あたしが確かめたのに」
「ヤルナさん、姉ちゃん起きたんだ」
「見ればわかる」
ヤルナと呼ばれた人は私の目を下からのぞき込んだ。瞳の色を確かめるように、長いこと見ていた。
「熱は」
「……ないと思います」
「咳は」
「少し」
ヤルナさんは私の額に手のひらを当て、黙って首を振った。それから寝床の一つを指さした。
「今夜はそこで寝な。朝になったらもう一回診る。なんで生き返ったのか知らないけど、ぶり返すかもしれない」
ヤルナさんはそのまま奥の寝床で咳き込む老人のほうへ戻っていった。両手を老人の胸の上にかざす。手のひらがぼんやり光った。ろうそくより弱い、ほとんど消えかけた蛍のような光だった。
老人の咳は、止まらなかった。
トマが私の袖を引いて、壁際の寝床まで連れていった。藁を手で均し、毛布を広げてくれる。小さな手の動きが、慣れていた。
「トマ、ここはどこの施療院?」
「セグの施療院だよ。姉ちゃん、頭打った?」
「……ちょっとね。いろいろ、思い出せないの」
トマは心配そうに眉を寄せ、それから一つずつ数えるように教えてくれた。ここはオルド辺境領のセグ村。山の向こうの王様の国に入ってもう二十年になる。施療院は天秤教会のもので、癒し手さまはヤルナさん一人。書記のじいちゃんが一人。それから、ときどき町の司祭さまが見回りに来る。
「父ちゃんは、おれが小さいときに山で死んだ。母ちゃんは去年の冬。灰咳で」
淡々とした口ぶりだった。十歳の子が自分の家族の死を指折り数えている。
「だから姉ちゃんまでいなくなったら、おれ、親方の家の納屋で寝るしかなかったんだ。冬は寒いんだよ、あそこ。鼠も出るし」
トマは笑った。笑いながら、目の縁が赤かった。
私は何と言えばいいかわからず、その頭に手を置いた。髪は埃っぽく、少し湿っていた。
◇
寝床に横になっても、眠れなかった。
藁が背中に刺さる。毛布は湿っていて羊の匂いがした。隣でトマが丸くなって寝息を立てている。私の袖の端を、寝ていても握ったままだった。
天井を見ながら、整理した。
私は死んだ。たぶん、煙を吸いすぎて。
死んで、別の世界の別の人の体に入った。この体の持ち主はニナという少女で、灰咳という病気で死んだ。トマはニナの弟で、母親もすでにいない。
ここは施療院で、癒し手と呼ばれる人が手をかざして病気を治す。けれどその力は今、弱っている。女神の加護が届かないから。
受付のカウンターで新患の方にいつもお願いすることがある。お名前、生年月日、保険証。それから、どうなさいましたか。
もし誰かに今の私の新患登録を頼まれたら、何と書けばいいのだろう。お名前の欄にニナと書くのか、水無瀬詩織と書くのか。
私は起き上がった。
枕元に水を張った木の盥があった。ヤルナさんが置いていったのだろう。蝋燭の明かりで水面に顔が映る。そばかすの散った、まだ子どもっぽい丸い顔。栗色の髪。知らない少女の顔だった。
自分の窓も、見えるのだろうか。
目を凝らした。水面の顔の上に枠が浮かんだ。トマのときと同じ、薄い光の四角。
中には何も書いていなかった。
『氏名(名簿):
氏名(台帳):
資格:
負担:』
空欄だった。項目の名前だけが並んで、その横はぜんぶ白い。
私は唇を開いた。水無瀬、と言いかけた。
「……姉ちゃん?」
トマが寝返りを打ち、目をこすった。
「どうしたの。苦しい?」
「ううん。ちょっと、喉が渇いただけ」
トマはうなずいてまた目を閉じた。
私は言いかけた名前を、そのまま飲み込んだ。
部屋の隅に、誰かが立っていた。
灯りの届かない角に人の形をした灰色のものがあった。背丈は私と同じくらい。輪郭がぼやけていて、顔の場所だけが霧のようにかすんでいる。足音も息づかいもない。ただ、こちらを向いて立っていた。
喉が鳴った。トマの肩を揺する。
「トマ、あれ」
トマは薄目を開けて隅を見た。そして毛布を頭までかぶった。
「戻り人だよ。見ちゃだめ。目を合わせると、ついてくるんだって」
「戻り人?」
「死んだのに、天に上がれなかった人。オルドにはいっぱいいる。聖騎士さまが来て、聖火で焼いてくれるんだ。焼くと静かになるって」
トマの声は毛布の中でくぐもっていた。
「あれね、姉ちゃんが倒れてから、ずっとおれのそばにいるんだ。怖いけど、何もしないよ」
私は灰色の人影を見つめた。人影は動かなかった。
どれくらいそうしていたかわからない。
遠くで鐘が一つ鳴った。低く長く、建物の石を震わせる音だった。
人影が、ふっと向きを変えた。廊下のほうへ滑るように出ていく。足は床についていないように見えた。
私は毛布を抜け出した。
追いかけようと思ったわけではない。鐘の音がどこから聞こえたのか知りたかった。廊下は冷たく、草履が石の上でぺたぺたと鳴った。
突き当たりに小さな部屋があった。扉は開いている。
中には窓が一つと石の台が一つあった。腰の高さの、四角い台。表面に天秤の模様が彫られている。左右の皿が釣り合った、大きな天秤。台の上には何も置かれていない。窓から入る月の光が彫り込みの溝に青く溜まっていた。
祈りの部屋だろうか。
灰色の人影は、もういなかった。
台に近づいたとき、頭の上で紙の擦れる音がした。
見上げる。何もない天井の暗がりから紙片が一枚、ひらひらと落ちてきた。風もないのに木の葉のように揺れながら、石の台の上に音もなく着いた。
手のひらほどの、細長い札だった。赤い。血のような、朱のような、濃い赤だった。
手に取る。羊皮紙のように硬く、ほんのり温かい。誰かの手からたった今渡されたばかりのような温かさだった。
表に文字が書かれていた。
やはり知らない形の文字だった。けれど意味はトマの窓と同じように、何の抵抗もなく頭に入ってきた。
二つの文字だった。
返戻。
手が震えた。札の端が指の中でかさりと鳴った。
毎月何十枚、何百枚と見てきた言葉だ。差し戻し。書類の不備により、請求を返す。直して出し直せ。あの乾いた声が死ぬ間際に私に告げた言葉でもある。
「……なんで」
声が石の壁に跳ね返った。
「なんで、この字が、ここに」




