第一章 レセプト期間
十月九日、午後十時。私の名札は今日も裏を向いていた。
クリップがゆるんでいるのだ。首から下げた紐の先で白いプラスチックがくるりと回り、「医事課 水無瀬」の文字は胸のほうを向いてしまう。直す暇があれば一件でも多くレセプトを見る。それが私の七年間の答えだった。
汐見総合病院の一階、医事課の島。蛍光灯は半分だけ点いている。残りは節電で落とされた。窓のない部屋には空調の低い唸りと私のマウスの音だけがある。
毎月一日から十日までを、私たちはレセプト期間と呼ぶ。
病院は患者さんから医療費の一割から三割しかいただかない。残りは診療報酬明細書、つまりレセプトという請求書にまとめて審査支払機関に送る。その締め切りが毎月十日だ。一秒でも遅れればその月の請求はできない。病院への入金がまるまる一か月遅れる。
だから私たちは、月初の十日間を、ほとんど病院に住んで過ごす。
画面には外科の入院患者さんの明細が並んでいた。手術料、麻酔料、薬剤料。点数の列を指でなぞる。指は勝手に止まる場所を知っている。
また、だ。
時任先生の症例だった。特定の材料を使った手術には、医学的な理由をレセプトの摘要欄に書く決まりがある。摘要というのは、言ってみれば請求書の余白に添える但し書きだ。なぜこの処置が必要だったのか。それを医師の言葉で書いてもらわなければ審査で削られる。
削られることを、査定という。
査定された点数は戻ってこない。病院は手術をして、薬を使って、そのぶんのお金を受け取れない。純粋な損失だ。
本当なら、ここで先生に疑義照会をする。カルテの記載と請求が合わないとき、記録の持ち主である医師に確かめる。それが私の仕事の手順だった。
私は黄色い付箋を一枚はがした。
「摘要のご記載をお願いします 医事課」
それだけ書いて、カルテの印刷に貼る。先生の机の書類箱に入れておけば、明日の朝には目に入る。目に入っても書いてくれないことは知っていた。先月も先々月も私の付箋は丸められて屑籠にあった。
それでも直接は言わない。言えない。
「水無瀬さん、それ、また時任先生ですか」
隣の島から小森ひなたさんが顔を出した。派遣で来て二年目の二十三歳。今月は残業を申し出てくれて、今夜も十時まで残っている。
「うん。摘要が空なの」
「直接聞いちゃえばいいじゃないですか。わかんないなら聞く。先生だって人間ですよ」
「付箋で十分。先生、忙しいから」
「水無瀬さんのほうが忙しいじゃないですか」
彼女は何でも聞く。保険証の有効期限の読み方も、公費の上限額も、私が「自分で調べて」と言うまで聞いてくる。悪い癖だと思っていた。思っていたはずだった。
私は返事をしなかった。ひなたさんは笑って、また画面に戻った。
私は次の患者さんの明細を開いた。抗生剤が五日分。けれどレセプトの病名欄に細菌感染症の病名がない。
このまま出せば調剤薬局から届く請求と機械で突き合わされる。突合点検と呼ばれる仕組みだ。病院は薬を出したのに病名がない、と審査で光る。光れば査定か返戻になる。
返戻というのは、書類の不備を理由に請求ごと差し戻されることだ。査定と違って、直して出し直せばお金は戻ってくる。ただし一か月遅れる。
私はカルテを開き、三日前の診察記録を読んだ。術後の創部に発赤、膿性の滲出液。先生の字でちゃんと書いてある。書いてあるのに、病名として登録されていないだけだ。
病名の追加は医師の仕事だ。私は付箋をもう一枚はがし、同じ文面を書いた。
黄色い四角が先生の書類箱の中に二枚並ぶ。
ドアが乱暴に開いた。
白衣の裾が翻る。時任先生は医事課の島の端に立ち、一枚の紙を振った。
「おい、事務」
部屋に残っていた三人のうち、誰に向けた言葉なのかはわかっていた。外科の担当は私だ。
「先月の査定、三十二万。お前らの入力ミスだろう。俺の手術は全部、必要だから切ってる」
「申し訳ありません」
私は立ち上がり、頭を下げた。
査定の理由は、摘要の不足だった。私は知っている。先生も、たぶん知っている。けれど私はそれを口にしなかった。
「次はちゃんとやれ」
紙が机に落ちる。先生の背中がドアの向こうに消える。消毒液の匂いだけが残った。
ひなたさんが、何か言いたそうにこちらを見ていた。
「今の、水無瀬さんのせいじゃないですよね」
「誰のせいでもいいの。直せば同じだから」
「同じじゃないですよ」
ひなたさんの声は小さかった。私は首を振り、画面に目を戻した。指先が少しだけ冷えていた。
間違いは、黙って直せばいい。
誰かが責められるくらいなら、私が謝ればいい。
七年前、入職したばかりの私は外来の受付にいた。ヤマザキ様とヤマサキ様。同じ日に来院した似た苗字の二人の患者さんだった。私は登録のときにカナ氏名の濁点を一つ取り違えた。院内放送で呼ばれたのは別の人で、その人は検査室の前まで案内されかけた。看護師さんが気づいてくれて何も起きなかった。何も起きなかったのに、私は待合室の真ん中で叱られた。
呼ばれなかったほうのヤマサキ様は、八十を過ぎたおじいさんだった。長椅子に座ったまま、私の顔を見上げて言った。
「名前を間違えられるのはな、いないことにされるのと同じだ」
それ以来、私は間違えない。間違えたら、誰にも見つかる前に直す。
午後十一時を回ると、ひなたさんが帰り支度を始めた。
「水無瀬さんは」
「送信まで見る。あと四十分くらい」
「無理しないでくださいよ。先に帰ります。お疲れさまでした」
足音が遠ざかる。部屋には私と夜間当直の事務員さんが一人。私は最後の総括表を確かめ、件数と点数の合計を三度見直した。外来二千八百十二件、入院四百六件。
送信ボタンにカーソルを合わせる。
二十三時四十分。
受付完了の画面が出た。肩から力が抜けて、私は椅子の背にもたれた。今月も、間に合った。
冷めた缶コーヒーを一口飲む。甘さが歯に沁みた。机の端には、時任先生の査定通知が置かれたままだ。三十二万。来月はせめてその半分にしたい。付箋の文面をもう少し強くしてみようか。たとえば「至急」と赤で。そこまで考えて、やめた。赤い字を書く自分が想像できなかった。
その画面の文字が、ふっと揺れた。
蛍光灯が一度瞬いて、消えた。空調の唸りが止まる。非常灯の緑だけが天井に残った。
次に聞こえたのは、ベルだった。耳の奥を引っかくような、火災報知器の音。
「本館地下、電気室より出火。職員は避難誘導を開始してください」
自動の放送が繰り返す。廊下の奥から煙の匂いが流れてきた。焦げたゴムとプラスチックの匂い。鼻の奥がつんと痛む。
当直の事務員さんが懐中電灯をつかんで走っていく。私も立ち上がった。手順は訓練で何度もやっている。外来の患者さんはいない。病棟の避難は看護師さんが主導し、事務は誘導と点呼の補助に回る。
点呼。
その言葉で、足が止まった。
病棟の看護師さんたちが使うのは、電子カルテから印刷した入院患者一覧だ。夕方の申し送りで刷り直した紙。停電の今、新しい一覧は出せない。
夜八時の緊急入院。
田辺キヨ様、八十四歳。救急外来から五階の個室に上がった。時任先生の患者さんだ。ちょうど夜間受付のシステムが保守で止まっていた時間で、私が紙の入院受付票に書いた。先生は「オーダーは後で入れる」と言って病棟へ上がっていった。
入れていない。きっと、入れていない。
つまり夕方の一覧に田辺様の名前はない。
部屋番号は覚えている。五一二。いや、五二一だったか。どちらだ。数字が頭の中でくるくる回る。間違えたら、誰かが誤った部屋を探す。正しい部屋には誰も来ない。
受付票は医事課の入力待ちのトレーに入っている。
私は廊下へ出かけた足を、部屋へ戻した。
ちょうどそのとき、廊下を白衣が駆け抜けた。時任先生だった。救急外来から病棟へ上がる途中なのだろう。懐中電灯の光が戸口の私の顔をかすめた。
「おい、事務。何してる」
先生は足を止めずに怒鳴った。
「紙なんか置いて逃げろ」
白衣の背中はすぐに煙の向こうへ消えた。
煙はさっきより濃い。床に近いほうが空気がましだと、訓練で教わった。腰をかがめて机の間を進む。非常灯の緑が煙に溶けてぼやける。喉の奥がざらつき、咳が出た。
トレーは自分の机の右端にあった。指先で紙をめくる。湿布の処方箋、領収書の控え、入院受付票。
懐中電灯がないことに気づいた。スマートフォンの明かりをかざす。
五一二号室。田辺キヨ。特記事項の欄には私の字。酸素投与中・自力歩行不可。
合っていた。
息を吐いた拍子に、また煙を吸った。机の角に額を打った。痛みより先に、紙を濡らさないことだけを考えていた。汗ばんだ指で角を持たないように、二本の指で端をつまむ。こんなときにまで私は書類の扱いを気にしている。
紙を胸に抱えて、私は四つん這いで廊下へ出た。目が痛い。涙で何も見えない。手のひらの下の床だけが冷たかった。非常口の緑の人がずっと遠くで走っていた。
非常階段の扉を肩で押すと、冷たい風が顔にぶつかった。
外の空気は夜の匂いがした。
職員駐車場には患者さんを乗せた車椅子とストレッチャーが並んでいた。サイレンが重なって近づいてくる。看護師長が一覧を手に名前を読み上げている。その横に、時任先生がいた。
「先生」
声がかすれた。私は先生の白衣の袖をつかみ、紙を突き出した。
「五一二号室、田辺キヨ様。電子カルテに、載っていません。酸素中、自力歩行できません」
先生の目が紙の上を走った。一瞬だけ、私の顔を見た。それから振り向いて、消防隊員に向かって叫んだ。
「五階、五一二。酸素の患者が一人残ってる。歩けない」
隊員が駆けていく。それを見届けたところで、膝が抜けた。
アスファルトが頬に当たった。昼の熱がまだ残っていて、少し温かかった。
咳が止まらない。息を吸っても、胸の底まで空気が届かない。誰かが私の顔に酸素マスクを当てる。プラスチックの匂い。誰かが私の肩を叩いている。
横倒しの視界に、病院の建物が見えた。五階の窓のいくつかが、内側から懐中電灯に照らされて白く光る。光は窓から窓へゆっくり動いていく。五一一、五一二。数えようとして、指が動かないことに気づいた。
手のひらにはまだ紙の感触があった。もう渡したのに。指の腹に、受付票の端の少しけば立った手触りだけが残っている。
月末の監査であの票の入力漏れを指摘されるだろうか。そう考えて、可笑しくなった。笑ったつもりの息が、マスクの内側を白く曇らせた。
「誰だ、この事務」
時任先生の声だった。
「名前は。おい、名札」
手が私の胸元を探る。名札はきっと、また裏を向いている。白い裏側には何も書いていない。
「医事課の子です、外科担当の」
「名前を聞いてるんだ」
誰も答えなかった。答えられる人がその場にいなかったのだと思う。ひなたさんは、もう帰った。
水無瀬です、と言おうとした。
唇は動いた。けれど声の代わりに、乾いた咳が出ただけだった。
水無瀬詩織です。医事課の。
言えばよかった。七年間、一度くらい、自分から。
サイレンの音が遠くなる。人の声が水の底のようにくぐもる。最後に、すぐ耳元で、聞いたことのない声がした。
男とも女ともつかない、乾いた紙をめくるような声だった。
「本件、返戻とする。事由――」
その先は、聞こえなかった。




