第十章 月遅れ請求
「生まれたときのお名前を、ご自分の声で教えてください」
霧の月の二十日。私はセグ村の広場に受付の机を出していた。
施療院の門の前ではない。村の真ん中、古い井戸と麦打ち場のあいだの石畳の広場だ。施しを受けに来る人を待つのではない。村じゅうの人に名前を聞きに来た。
机の前には朝から人が並んでいた。
病人ばかりではない。畑から鍬を担いだまま来た男。洗濯物の籠を抱えた女。腰の曲がった老人。母親に手を引かれた子ども。代官さまが村役に触れを出してくれたのだ。施療院の受付に名を告げよ。赤い札を減らすために。
「名前なら、教会の名でいいだろう。グスタフだ」
最初の男が言った。窓が浮かぶ。名簿の名はグスタフ・グラン。台帳の名は空欄ではなく、別の名前が光っていた。
「グスタフさん。お母さんには何と呼ばれていましたか」
「……は?」
「生まれたときの名前です。教会の名ではなく、家で呼ばれていた名前」
男はしばらく口ごもった。それから、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「グスタだよ。おふくろはグスタって呼んでた。そんなの、何十年ぶりに口にしたかね」
窓の台帳の名がグスタと読めた。
「ありがとうございます。ご自分の声で、もう一度だけ」
「グスタ」
私は受付簿に書いた。グスタフ・グラン。その横に、グスタ。
隣でトマが木の札にその二つを彫った。札の裏には番号。七百十二。
札は二つで一つだ、と私はトマに言ってあった。木の札は本人が持つ。名前と番号を書いた控えは施療院の受付簿に残す。片方をなくしても、もう片方が残る。二つを突き合わせれば、誰がいつ来て何という名だったかがわかる。
「なんで自分の声で言わなきゃいけないんだ」
グスタさんが札を受け取りながら聞いた。
「名前は本人の口から聞くのがいちばん確かなので」
本当はもう一つ理由があった。窓は本人が自分の声で名乗ったときにしか浮かばない。誰かに代わりに言ってもらった名前では、女神の台帳に何と書かれているか私には見えない。
見えなければ、確かめられない。
◇
赤い札を直して出し直すことを、前の病院では月遅れ請求と呼んでいた。
返戻されたレセプトは不備を直してから、翌月以降の請求といっしょに送り直す。本来の月より遅れて請求するから、月遅れ。地味な仕事だった。返戻の束を一枚ずつめくって患者さんに電話をかける。新しい保険証の番号を聞いて入力を直す。何十件も、何百件も。
ここには電話がない。保険証もない。
あるのは、人の声だけだった。
書記室ではハルヴァンさんが二十年分の施療明細の控えを広げていた。古い控えには教会の名と年と村の名と、施しの日が書いてある。そこに赤い札の番号を重ねていく。誰の、いつの施しが返されたのか。その人は今、生きているのか。どこに住んでいるのか。
私は昼は広場で名前を聞き、夜は書記室で控えをめくった。
受付簿の新しい名前と二十年前の控えの名前を並べる。教会の名は驚くほど同じものが多かった。マルガレタ・セラフがセグ村だけで十一人いた。年と村と施しの日で絞り込むしかない。
三日目の夜、指先がふっと熱くなった。
二冊の帳面を左右に広げて行を目で追っていたときだった。右の受付簿の一行と左の古い控えの一行が、同時に淡く光った。同じ人だ、と頭の奥で何かが告げた。名前と年と村が二つの紙の上で一本の糸に結ばれたように見えた。
【スキル『受付』の派生――『突合』を習得しました】
頭の中に乾いた声が響いた。
死ぬ間際に聞いた、あの紙をめくるような声に似ていた。
「どうした」
ハルヴァンさんが顔を上げた。
「……いえ。少し、目が疲れて」
私は帳面に目を戻した。光る行と光る行を指でなぞる。光らない行は別の人だ。一行ずつ見比べていたのが嘘のように手が進んだ。
突合点検。前の病院では、医療機関と薬局の請求を審査の機械が突き合わせて矛盾を光らせた。それと同じことが今は私の目の中で起きていた。
◇
広場の受付には、毎日人が来た。
腰の曲がった老人が、名前を告げた途端に泣き出したことがあった。
「ベッカ。母ちゃんはベッカって呼んだ。五十年ぶりだ。教会の名で呼ばれ続けて、自分でも忘れかけてた」
若い母親が生まれたばかりの赤ん坊を抱いて来た。
「この子の名前。教会でつけてもらう前に、あたしがつけた名前を書いてほしいの。ミルカ。洗礼まで待ってたら、聖名しか残らないから」
ミルカちゃんはまだ自分の声で名乗れない。窓は浮かばない。私は受付簿に、母親が告げた名前と母親自身の名前を並べて書いた。いつかこの子が名乗れるようになったら、もう一度聞けるように。
自分の教会の名を忘れた男もいた。
「えーと、ほら、なんだっけ。長ったらしいやつ。ヘル……ヘルマ……」
後ろに並んでいた女房が男の背中を叩いた。
「ヘルマヌス。何年言われてんだい」
「そうだ、それだ。でも誰もそう呼ばねえんだよ。おれはヘルだ」
広場に笑い声が上がった。
ヤルナさんが施しの合間に広場をのぞきに来た。机の前の列と笑っている人たちと私の墨だらけの手とを、腕を組んで眺めていた。
「あんた、ほんとに全員に聞くつもりなんだ」
「はい」
「何人いると思ってるの」
「セグ村だけで四百十二人です。近くの三つの村を合わせて、千三百人くらい」
「数えたの?」
「代官さまに村役の人別帳を見せていただきました」
ヤルナさんは呆れた顔をした。それから黙って机の横に座り、列の後ろのほうで咳き込んでいた子どもの喉を診始めた。
◇
五日目の昼過ぎに、ウルラさんが来た。
杖をついてゆっくりと広場を横切ってくる。そのすぐ後ろにあの灰色の人影が寄り添っていた。背が高く、輪郭のぼやけた人の形。ウルラさんが一歩進むと人影も一歩進む。
「この前は施療院で会ったね、お嬢ちゃん」
「はい。ウルラさん」
「名前を聞いて回ってるんだって? あたしの名前なら、もう知ってるだろう」
「もう一度だけ、ご自分の声でお願いします」
ウルラさんは杖に両手をのせて少し背を伸ばした。皺だらけの唇が、ゆっくりと動いた。
「ウルラ」
窓が浮かぶ。台帳の名、ウルラ。
「ありがとうございます」
「変な子だね。同じこと二回聞いて」
ウルラさんは笑った。それからふと後ろを振り返った。灰色の人影を、まるでそこにいるのが当たり前のように見上げた。
「そっちのは、うちの人だよ。ヨル。十五年前に死んだ」
私はペンを止めた。
「旦那さん、ですか」
「そう。死んでからずっとあたしについてくる。教会の人は、戻り人は不浄だから離れろって言うけどね。四十年いっしょにいた人が、死んだくらいで離れるもんかね」
ウルラさんは人影の腕のあたりに手を伸ばした。手は灰色の霧を素通りした。それでもウルラさんは、袖を整えてやるような手つきでそこを撫でた。
「教会の名は何だったかね。ヨハネス何とか。誰もそう呼ばなかった。あたしはヨルって呼んでた。あの人は、あたしをウルラって呼んでた」
ウルラさんがそう言ったとき、灰色の人影が動いた。
ほんのわずかに、首を傾けるように。霧のような顔の部分が、初めてウルラさんのほうを向いた。
ウルラさんは気づかなかった。杖の先で石畳をこつこつと叩きながら、遠い目をしていた。
「誰かに生まれた名で書いてもらうのは、何十年ぶりだろうね」
私は受付簿に、ウルラ、と書いた。
それから少し迷って、その下にもう一行書いた。ヨル。故人。妻ウルラの申し出による。
トマが二枚の札を彫った。ウルラさんの札とヨルさんの札。ウルラさんは二枚とも受け取って、ヨルさんの札を自分の帯に結びつけた。
「お守りにするよ」
灰色の人影は、まだウルラさんのほうを向いていた。
私はその顔のない顔を、しばらく見つめていた。
戻り人は言葉を持たない。名前を呼ばれても答えない。そう聞いていた。けれど今、ウルラさんが「ヨル」と呼んだとき、確かにこの人は振り向いた。
答えないのではなく、答えられないだけなのかもしれない。
◇
その夜、ハルヴァンさんが書記室の机で手を止めていた。
古い控えの一行を指で押さえたまま動かない。眼鏡の奥の目がじっとその行を見つめていた。
「ハルヴァンさん?」
「……わしじゃ」
ハルヴァンさんは控えを私のほうへ向けた。十九年前の霜の月。施しは目の熱。癒し手の署名はヤルナさんのお母さんの名前。そして患者の名の欄に、ハルヴァヌス・グラン。
「わしの教会の名じゃ。改名令の次の年に目を悪うしてな。施しを受けた。それも返されとった。わしはそれを、自分の手で箱にしもうたんじゃ」
ハルヴァンさんは自分の書いた字を、自分で見下ろしていた。
「四十年、明細を書いてきた。その間ずっと、自分の名も間違うて書いとったわけじゃ」
「ハルヴァンさん」
私は机の前に立った。
「お名前を、ご自分の声で教えてください」
ハルヴァンさんは顔を上げた。眼鏡を外して墨だらけの指で目元を拭いた。
「ハルヴァン。わしは、ハルヴァンじゃ。グラン家の三男坊で、書記の家の出じゃ」
窓が浮かんだ。名簿の名、ハルヴァヌス・グラン。台帳の名、ハルヴァン。
私は受付簿のまだ白いページを開いた。そして、四十年この施療院の明細を書いてきた人の名前を二つ並べて書いた。
◇
霜の月の九日。締めの前夜。
書記室の机の上に明細が二束あった。
一束は今月の施療明細。もう一束は月遅れの束。二十年分の赤い札のうち、本人に会えて自分の声で名乗ってもらえた人の行を一つずつ書き直したものだった。千百四十行。
家族の申し出しかない行と、もう誰の名かわからない行は別の束にして箱に戻した。死んだ人の行だった。五百行近くあった。
ヤルナさんが摘要を書き、ハルヴァンさんが名前の欄を書いた。私は一行ずつ受付簿と突き合わせた。トマは隅の藁の上で最後の診察券を彫っていた。もう千枚を超えていた。
夜半を過ぎたころ、燭台の蝋燭がぱちりと音を立てて消えた。
獣脂が尽きたのだ。
部屋が真っ暗になった。予備の蝋燭は昨日の夜に使い切っていた。月は雲に隠れていて、窓から入る光もない。
「どうしよう」
トマの声がした。
「明日の朝まで待つ?」
「待てない。まだ三百行、突き合わせが残ってる」
闇の中で椅子の軋む音がした。ハルヴァンさんが立ち上がったらしい。足音が棚のほうへ行き、何かを引き出す音がした。
しばらくして、小さな火がともった。
火打ち石の火から、蝋燭の芯へ。炎がまっすぐに伸びた。煤の出ない明るい炎。甘い匂いがした。
蜜蝋だった。
ハルヴァンさんが手のひらほどの包みを開いていた。中には黄金色の太い蜜蝋が三本、並んでいた。
「ハルヴァンさん、それ」
「わしの通夜に灯すつもりで、十年前にハルトで買うたもんじゃ」
ハルヴァンさんは、燭台に一本を立てた。
「ここで使うほうが、ましじゃろ」
ヤルナさんが何か言いかけて、黙った。
甘い光が机の上の二束の明細を照らしていた。墨の字の一つ一つが、炎の揺れに合わせて小さく瞬いて見えた。




