第十一章 総括
霜の月十日、夜。私の胸には今夜も名札がなかった。
前の病院でかけていた白いプラスチックの名札はどこにもない。ここにあるのは首から下げた紐の先の、トマが彫った小さな木の札だけだ。番号札の残りの一枚。表に「受」の一文字。裏には何も彫っていない。
書記室の燭台で二本目の蜜蝋が燃えていた。
ゆうべから一睡もしていない。ハルヴァンさんの蜜蝋の甘い光の下で私は帳面を突き合わせ続けた。夜が明けると施療院はいつもどおり動き出し、受付の机にはトマとヤルナさんが座った。私は昼前に一刻だけ眠り、また書記室に戻った。
昼過ぎに書記室の窓を開けると、施療院の門の前に人だかりができていた。
病人ではなかった。広場で名前を告げた村の人たちだった。籠に入れた卵が五つ。薪の束。干した茸。蜂蜜の小さな壺。それをトマに押しつけて、みんな口々に同じことを言っていた。
「今夜なんだろ。女神さまに出すのは」
「受付のお嬢ちゃんに渡しとくれ」
「グスタって書いてもらったのが、うれしくてさ」
ガルドさんまで来ていた。足はもう引きずっていない。肩に大きな猪の腿を担いで、門番のような顔で列の後ろに立っていた。今度は領主さまの森ではない、と真顔で言い張っていた。
トマが両手いっぱいの卵を抱えて書記室に駆け込んできた。
「姉ちゃん、これ、どうしよう」
「……ベルタさんに渡して。病室のみんなで食べてもらって」
言いながら目の奥が熱くなった。前の病院のレセプト期間に誰かが医事課に差し入れを持ってきたことは、一度もなかった。
締めまで、あと三刻。
机の上には一枚の紙があった。
総括表。前の病院では毎月の請求をまとめた一覧表をそう呼んでいた。件数と点数と診療科ごとの内訳。すべての明細の数字を足し上げて、最後に一枚にまとめる。それが合わなければどこかの行が間違っている。
ここでも同じものを作った。
今月の施療明細、二百九十八行。合計の点数。そのうちの灰咳・傷・熱・その他の内訳。
月遅れの束、千百四十行。年ごとの行数。村ごとの行数。
私は数字を三度足した。三度とも同じだった。それでも、もう一度足した。
「まだやってるの」
戸口でヤルナさんの声がした。手に湯気の立つ椀を二つ持っていた。麦を煮た薄い粥だった。
「食べな。朝から何も食べてないでしょ」
「あと一回だけ、足したら」
「足し算なら、さっきもやってた」
「さっきは、さっきです」
ヤルナさんは椀を机に置き、私の手からペンを取り上げた。
「食べな」
私は椀を両手で包んだ。指先が冷え切っていた。粥の熱がじんわりと掌に染みた。
トマは隅の藁の上で膝を抱えて眠っていた。小刀を握ったまま。千を超える札を彫った手は皮が剥けて、布を巻いてあった。ハルヴァンさんは机の端に頬杖をついて、こくりこくりと船を漕いでいた。
粥を半分食べたところで、表の戸が叩かれた。
◇
戸口に立っていたのは、ウルラさんだった。
夕闇の中、杖をついて肩で息をしていた。セグ村の端からここまで、ゆっくり歩いて半刻はかかる。その後ろに灰色の人影が寄り添っていた。
「こんな夜にすまないね」
「どうなさいました。具合が悪いんですか」
「いや、あたしは元気だよ。聞きたいことがあってね」
ウルラさんは帯に結んだ木の札を指でつまんで見せた。ヨル、と彫られた札だった。
「うちの人の札。今夜、女神さまに出すのかい」
私は返事に詰まった。
ヨルさんの行は箱に戻した束の中にあった。家族の申し出しかない行。本人の声で名乗ってもらえなかった行。死んだ人の行。
「……ごめんなさい。ヨルさんの行は、今夜は出せません」
「どうしてだい」
「女神さまの帳簿の名前を確かめるには、本人の声で名乗ってもらわないといけないんです。ヨルさんは、その」
言葉を探した。
「お話しできないので」
ウルラさんはしばらく黙っていた。それから後ろの人影を振り返った。
「この前、あんたも見ただろう。あたしがヨルって呼んだら、この人、振り向いたんだよ」
「はい。見ました」
「だったら聞いてみておくれよ。あんたが、いつもみんなに聞いてるみたいに」
ウルラさんの目は、まっすぐ私を見ていた。冗談を言っている目ではなかった。
私は人影の前に立った。
戻り人に話しかけるのは二度目だった。一度目はトマのそばの人影に。あのときは、答えはなかった。
膝が震えた。私は、その場にしゃがんだ。受付の机の前で背の低い子どもに話しかけるときと同じように。顔の高さを合わせて。
「ヨルさん」
灰色の霧は、動かなかった。
「施療院で受付をしています。お名前を、ご自分の声で教えていただけますか」
沈黙。
夜風が戸口から廊下へ吹き抜けた。蜜蝋の炎が揺れた。
答えはなかった。
私は唇を噛んだ。やはり無理なのだ。言葉を持たない人に、声を求めても。
「ヨル」
ウルラさんが杖で床を突いた。
「あんた、名前ぐらい言いな。四十年、あたしが呼んだら返事してたじゃないか」
灰色の人影が、ゆっくりと首を傾けた。
霧の顔がウルラさんのほうを向く。それから、また私のほうへ戻る。
何かが聞こえた。
風の音ではなかった。乾いた枯れ葉が石畳の上を一枚だけ転がるような音。息とも声ともつかない、かすれた音。
「……ヨル」
人影の頭の上に、窓が浮かんだ。
薄く、震える光の枠だった。今にも消えそうにちらちらと瞬いていた。
『氏名(名簿):ヨハネス・セラフ
氏名(台帳):ヨル
資格:不一致――返戻中』
私は息を止めた。
ウルラさんが杖を取り落とした。杖が石の床に当たって乾いた音を立てた。
「……言った。今、言ったね」
ウルラさんの声が震えた。
「この人、言ったよ。自分の名前」
「はい」
声がかすれた。
「言いました。ご自分の声で」
ウルラさんは両手で口を覆った。それから笑った。泣きながら、笑っていた。
「四十年、あたしの言うことなんか、ちっとも聞かなかったくせに」
私は書記室に駆け戻った。箱を開けて死んだ人の束をかき分ける。ヨハネス・セラフ。三行あった。十七年前の腹の熱。十六年前の胸の咳。十五年前の最後の施し。
三行とも書き直した。名前の欄はハルヴァンさんを起こして書いてもらった。摘要の欄には私が見たことを書いて、ヤルナさんに読み上げて確かめてもらった。本人、自らの声にて台帳の名を名乗る。癒し手立ち会い。ヤルナさんは何も聞かずに署名した。手が少し震えていた。
三行を月遅れの束の最後に足した。千百四十三行。
総括表の数字を直した。
◇
ウルラさんが帰ったあと、私は戸口に立ったまま廊下の奥を見ていた。
トマの寝ている藁の脇に、もう一つの灰色の人影がいた。
青い紐の、あの人。
ヨルさんは名前を呼ばれて答えた。ならば、あの人も。
私は一歩、踏み出した。
ニナさん、と呼べばいい。お名前を、ご自分の声で、と。答えてくれれば、ニナさんの施しの行も出し直せるかもしれない。
二歩目で、足が止まった。
トマが寝返りを打った。寝ぼけた声で何かつぶやいた。
「……姉ちゃん」
トマの手が藁の上をさまよって、私の草履の端をつかんだ。
ニナさんに名前を聞けば、トマの前でニナさんがそこにいることを認めることになる。ここにいる私がニナさんではないことを、認めることになる。
私は、灰色の人影から目をそらした。
トマの手を、そっと草履から外した。毛布を肩までかけ直した。
ニナさんの行は、箱の中に残したままだった。
実の月の十一日。灰咳。胸の咳の施し。返戻。癒し手の署名はヤルナさん。その一行を、私は今夜何度も目の端で見ていた。見て、めくって、また次の行へ進んだ。見なかったことにするのは、得意だった。
◇
締めまで、あと一刻。
私は最後の確認をしていた。月遅れの束を頭から一枚ずつめくり、受付簿の控えと診察券の番号を突き合わせる。突合の光はほとんどの行で灯った。
七百行目のあたりで、光が灯らない行があった。
グスタ。グスタフ・グラン。広場で最初に名前を聞いた人だ。
受付簿の控えには番号七百十二と書いてある。月遅れの束の行には、七百二十一。
私の字だった。
数字を逆に書いていた。
喉が鳴った。煙の医事課の非常灯の緑が、一瞬目の前をよぎった。五一二。五二一。どちらだ。数字が頭の中でくるくる回る。
このまま出せば、七百二十一番の人とグスタさんの施しが混ざる。女神さまの量りに別人の名前が載る。
私は机の引き出しから小刀を出した。
インクの上を刃の腹で薄く削る。羊皮紙の表面が粉になってこぼれる。削った跡を指でならし、ペンを取って七百十二と書き直した。字が少し滲んだ。もう一度上から細くなぞった。
誰も見ていない。
ハルヴァンさんは船を漕いでいる。トマは眠っている。誰にも気づかれずに、直せた。
私は息を吐いた。
「黙って直すの、あんたの癖?」
声に振り向いた。
ヤルナさんが机の向こうで頬杖をついていた。眠そうな目で、私の小刀と削った羊皮紙の粉を見ていた。
「……起きてたんですか」
「起きてたよ。あんたが削り始めたところから」
私は小刀を引き出しに戻した。
「間違いは、私が直せば済むので」
「済むけどさ」
ヤルナさんは欠伸を噛み殺した。
「あんたが間違えたって、誰も死なないよ。言えば一緒に見るのに。二人で見れば、ほかの間違いも見つかるかもしれないでしょ」
「でも」
「でも、何」
私は答えられなかった。
でも、間違えたと言えば、間違えた人になる。黙って直せば、間違いはなかったことになる。
ヤルナさんは、それ以上は何も言わなかった。ただ手を伸ばして、月遅れの束の残りを半分自分のほうへ引き寄せた。
「あたしは数字が苦手だから、名前だけ見る。あんたは番号を見な」
「……はい」
残りの四百行を二人で見た。ヤルナさんが名前を読み上げ、私が番号を答える。その声が冷えた書記室に交互に響いた。ほかに間違いはなかった。
◇
祈りの部屋は、凍えるほど冷えていた。
ハルヴァンさんが今月の明細の束を受領台に置いた。ヤルナさんが月遅れの束をその隣に置いた。千百四十三行の分厚い束だった。
トマは目をこすりながら戸口に立っていた。その隣に、青い紐の灰色の人影が並んでいた。
私は二つの束の前に立った。
前の病院ではボタンを一つ押せば終わった。画面に受付完了の文字が出て、それで終わり。ここでは紙の重みを両手で感じることができた。
遠くで、鐘が鳴り始めた。
一つ。二つ。三つ。
私は数えた。
十二の鐘が鳴り終わったとき、二つの束が光の粒になって天井へ昇っていった。
台の上には、何も残らなかった。
ハルヴァンさんが燭台の最後の蜜蝋を見下ろした。もう半分も残っていなかった。
「待つかの」
「はい」
私たちは、受領台の前に座り込んだ。
夜が更けていく。窓の外で霜の降りる音がした気がした。トマが私の肩に頭をもたせかけて、また眠った。ヤルナさんは膝を抱えていた。ハルヴァンさんは目を閉じていた。
前の月は締めのあと最初の鐘で、もう赤い札が落ちてきた。
夜明けの鐘が鳴った。
私は天井を見上げた。
何も、落ちてこなかった。天秤の彫り物の溝に窓からの朝の光が細く溜まっていくだけだった。




