第十二章 入金
その朝、ヤルナさんの両手は燭台より明るかった。
夜明けの鐘のあと、私たちは受領台の前でしばらく黙って座っていた。札は落ちてこない。それが何を意味するのか、誰もすぐには口にしなかった。前の月は最初の鐘でもう赤い札が来たのに。
最初に立ち上がったのは、ヤルナさんだった。
「……熱い」
ヤルナさんは自分の手のひらを見ていた。
光っていた。この前の朝とは比べものにならなかった。手のひら全体から溶かした金のような光があふれていた。祈りの部屋の石の壁がその光で黄色く染まった。私の影が床の上にくっきりと落ちた。
「手が、燃えてるみたい。指の先から何かが流れ込んでくる」
ハルヴァンさんが眼鏡を外した。外したまま何度も瞬きをした。
「入金じゃ」
かすれた声だった。
「月遅れが通ったんじゃ。二十年分の加護が、戻ってきとる」
ヤルナさんは部屋を飛び出していった。
私とトマも後を追った。東の部屋。灰咳の人たちの寝床が十二並んでいる。ヤルナさんは戸口で両手を広げた。祈りの言葉も唱えなかった。ただ手を広げただけだった。
光が、部屋じゅうにあふれた。
寝床の一つ一つに金色の雨が降るように光が落ちていく。咳の音が一つずつ止んでいく。荒い息が静かな寝息に変わっていく。いちばん奥の寝床で、三日前から意識のなかった若い女の人がゆっくりと目を開けた。
「……お母ちゃん?」
枕元で看病していた母親が声にならない叫びを上げた。
ヤルナさんは戸口の柱にもたれて立っていた。両手を胸の前で握りしめていた。肩が震えていた。
「母ちゃん」
小さな声だった。
「母ちゃんの光って、こんなだったんだね」
◇
札はその日も、次の日も落ちてこなかった。
三日目の朝、ハルヴァンさんが受領台の前に椅子を置いてそこに座り込んだ。一日じゅう天井を見上げていた。四日目も同じだった。
五日目、霜の月の十五日。最後の鐘が鳴っても受領台の上には何もなかった。
「零じゃ」
ハルヴァンさんが帳面に書いた。
今月の施療明細、二百九十八行。返戻、零。査定、零。
月遅れ、千百四十三行。返戻、零。査定、零。
ハルヴァンさんは帳面を閉じ、その上に両手を重ねた。墨に染まった指の節が白くなるほど力がこもっていた。しばらくそうしていた。それから何も言わずに書記室へ戻っていった。廊下の向こうから箱の蓋を閉める音がした。
箱の中にはまだ五百行近い束が残っている。本人の声を聞けなかった、死んだ人たちの行。
ニナさんの行も、その中にあった。
◇
ヨルさんが還ったのは、その日の夕方だった。
トマが息を切らして書記室に飛び込んできた。
「姉ちゃん、ウルラ婆ちゃんが呼んでる。早く。ヨル爺が」
村の外れのウルラさんの家まで走った。
小さな石の家だった。戸口の脇に干した玉葱が吊るしてある。中は暖炉の火で暖かく、煮た豆の匂いがした。
ウルラさんは暖炉の前の椅子に座っていた。その前に灰色の人影が立っていた。
ヨルさんだった。
けれど、もう灰色ではなかった。
輪郭の内側から淡い光がにじんでいた。霧のようだった体が少しずつ形を持ちはじめていた。背の高い、痩せた老人の形。広い肩。節くれだった大きな手。霧の顔の中に目と鼻と口の影が浮かんでいた。
穏やかな顔だった。
「来てくれたかい」
ウルラさんは振り向かずに言った。
「この人、さっきから光ってるんだよ。暖炉の火のせいかと思ったけど、違うね」
ヨルさんの光が少しずつ強くなっていく。足のほうから光の粒になってほどけていく。
「還るんだね」
ウルラさんは杖に両手をのせて、ヨルさんを見上げていた。
「十五年、あたしのそばにいてくれたけど。ちゃんと女神さまのところへ行けるんだね」
ヨルさんの唇が動いた。
声はかすれていた。それでも、この前よりずっとはっきり聞こえた。
「……ウルラ」
ウルラさんの肩がびくりと震えた。
「……ああ」
それだけだった。ウルラさんはそれ以上何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
ヨルさんの光が天井へ昇っていった。小さな家の梁をすり抜け、屋根を越え、夕暮れの空へ。最後の光の粒が消えたとき、暖炉の火がぱちりとはぜた。
ウルラさんはしばらく空を見上げていた。それから帯に結んだ木の札をほどいて、両手で包んだ。ヨル、と彫られた札だった。
「ありがとうね、お嬢ちゃん」
ウルラさんは私を見ずに言った。
「あんたが、あの人の名前を書いてくれたから」
私は首を振った。何か言おうとして、声が出なかった。
帰り道、トマが私の手を握って歩いた。
「戻り人って、ああやって還るんだね。焼かれるんじゃなくて」
「……うん」
「姉ちゃんの抜け殻も、いつか還るのかな」
私は答えなかった。
トマの後ろを、青い紐の灰色の人影が少し遅れてついてきていた。その輪郭はまだ灰色のままだった。光は、どこにもなかった。
◇
辺境伯さまが来たのは、その翌日だった。
十騎ほどの騎馬を連れてセグ村の坂を上ってきた。先頭の黒馬に乗っていたのは、熊のように大きな男だった。四十を過ぎたくらい。灰色の髭を短く刈り込み、左の頬から顎にかけて古い刀傷が走っていた。鎧ではなく、毛皮の裏打ちをした厚い外套を着ていた。
ディートリヒ・グラウ辺境伯。オルドの領主だ。
辺境伯さまは馬を降りると、施療院の門の前で足を止めた。
門の前にはもう押し合う人の群れはなかった。扉の受付台にトマが座っていた。数人の村人が木の札を手に、日向で順番を待っていた。咳をしている人はほとんどいなかった。
奥からヤルナさんが出てきた。手のひらにはまだ金色の光の名残があった。
辺境伯さまはその手をじっと見た。それから代官さまが差し出した帳面を受け取った。返戻、零。査定、零。
「二十年だ」
辺境伯さまが言った。低く、よく響く声だった。
「二十年、俺の領地は呪われていると言われてきた。オルドの民は女神に見放された。信心が足りぬ。古い神を捨てきれぬ。王都の教会の連中は、会うたびにそう言った」
辺境伯さまは帳面から顔を上げ、私を見た。
「違ったのか」
「……書類の不備です」
私は言った。
辺境伯さまは、しばらく黙っていた。
それから、笑った。腹の底から、空に向かって大声で笑った。後ろの騎士たちが驚いて顔を見合わせた。トマが受付台から転げ落ちそうになった。
「書類の不備か。そうか。二十年の呪いが、書類の不備か」
辺境伯さまは笑いながら私の頭に大きな手を置いた。ごつごつした、剣を握る手だった。
「娘、名は何という」
大きな手が私の頭の上で止まっていた。
問われたのは、名前だった。受付の机で私が毎日誰かに聞いている、あの問い。
辺境伯さまの後ろで騎士たちがこちらを見ていた。代官さまも、ヤルナさんも、トマも。
「……ニナです」
私は言った。
「セグのニナか。覚えておく」
辺境伯さまはうなずいた。窓は、浮かばなかった。浮かぶはずがなかった。
ヤルナさんが横目で私を見たのがわかった。何か言いたげに唇が動いて、結局閉じた。
「ニナ。王都へ来い」
「王都、ですか」
「王都の灰咳がひどい。王立施療院でさえ癒し手の光が細っている。国王陛下が教会に手を打てと仰せだが、教会は祈りが足りぬとしか言わん。お前のやり方を王都の明細でも見せてやれ」
辺境伯さまは私の頭から手を離し、ハルヴァンさんのほうを向いた。
「書記の爺さん。お前も来い。四十年の明細の書き方を、王都の坊主どもに教えてやれ」
ハルヴァンさんは目を丸くして、それから深々と頭を下げた。
「癒し手もだ。摘要とやらを書いたのはお前だろう。何を見て、どう書いたか、お前の口で話せ」
ヤルナさんは腕を組んだ。何か言い返したそうな顔をして、結局、短くうなずいた。
「それから、娘」
辺境伯さまはまた私を見た。
「お前の資格証の件、俺が王都の大聖堂で直々に申し出てやる。空札のままでは何をするにも不便だろう。大聖堂の地下の書庫には王国じゅうの洗礼名簿の原本がある。お前の名がどこにもないなら、そこで新しく刻ませればいい」
銀の札。
名前を刻んだ、手のひらほどの銀の札。
洗礼名簿の原本。王都の大聖堂の、地下の書庫。
私はトマの後ろを振り返った。青い紐の灰色の人影が日陰に立っていた。
ニナさんの名簿も、そこにある。
◇
その夜、セグ村の広場で祭りが開かれた。
誰が言い出したのかはわからない。気がつけば広場の真ん中に大きな焚き火が組まれ、ガルドさんの猪の腿が鉄の串に刺されて炙られていた。脂が火に落ちてじゅうじゅうと音を立てた。香ばしい匂いが村じゅうに広がった。
黒パンと煮た豆と、蜂蜜を塗った焼き林檎。酸っぱいエールの樽が三つ。どこからか笛と太鼓が出てきて、若者たちが火のまわりで輪になって踊った。
トマがルカくんの手を引いて踊りの輪に飛び込んでいった。
「姉ちゃんも来なよ」
「私はいい。見てる」
「ずるい」
ヤルナさんがエールの杯を二つ持ってきた。一つを私に押しつけた。
「飲みな。今日くらい」
「お酒は、あんまり」
「飲みな」
杯に口をつけた。苦くて、少し酸っぱくて、麦の匂いがした。
ヤルナさんは焚き火を見ながら、自分の杯を一気に半分あけた。
「王都、行くんだね」
「はい」
「あたしも行くよ。辺境伯さまに言われたからじゃない。あんた一人だと、偉い人の前で何も言えないでしょ」
私は笑った。笑いながら、少しだけ泣きそうになった。
ウルラさんが焚き火の向こうで杖をついて立っていた。踊りの輪を眺めながら、帯に結び直した木の札を指で撫でていた。
広場の端に、もう一つの灰色の人影があった。
青い紐の人。
焚き火の明かりの届かない塀の陰に立っていた。踊るトマのほうを向いていた。その輪郭は、やはり灰色のままだった。
私は杯を握りしめた。
王都でニナさんの名簿を見つける。そうすれば。
そうすれば、何だろう。私はニナさんに名前を聞けるのだろうか。トマの前で。
蹄の音がした。
坂の下から一騎の早馬が駆け上がってきた。馬は泡を吹いていた。乗り手は辺境伯さまの騎士の一人だった。馬から飛び降りるなり、焚き火のそばの辺境伯さまのところへ走った。
「王都からの報せです」
騎士は息を切らしながら羊皮紙を差し出した。辺境伯さまは焚き火の明かりにそれをかざして読み上げた。
「大聖堂にて、召喚の儀成る。異界より、神の手を持つ聖医を招く。聖医、王立施療院にて施しを始む」
広場のざわめきが少しずつ静まった。
「召喚?」
「異界って、何だ」
村人たちが顔を見合わせた。辺境伯さまは眉をひそめ、羊皮紙の最後の行を読んだ。
「聖医の名は――」
辺境伯さまはそこで一瞬言葉を切った。聞き慣れない響きを舌の上で確かめるように。
「トキトウ・マサオミ」
私の手から、杯が落ちた。
石畳の上でエールが跳ね、私の足を濡らした。冷たかった。焚き火の熱が頬を焼いているのに、足の先だけが凍ったように冷たかった。
ヤルナさんが何か言った。トマが踊りの輪の中から振り向いた。
私には、何も聞こえなかった。笛の音も、太鼓も、焚き火のはぜる音も。




