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第十三章 転院

 転院という言葉を、私は船の上で何度も思い浮かべた。

 前の病院では患者さんが別の病院へ移ることをそう呼んだ。もっと大きな病院へ。もっと専門の先生のいるところへ。そのとき必ず紹介状を持たせる。これまでの経過と検査の結果と、今の薬と。受け取った病院が患者さんを一から知り直さなくて済むように。

 私には紹介状がなかった。

 空札の少女が知らない名前のまま、知らない都へ運ばれていく。


「姉ちゃん、気持ち悪い……」

 トマが船べりにしがみついて、青い顔をしていた。

 霜の月の十七日にセグを出た。灰嶺峠を荷車で越えた。峠の上は雪で、ロバの息が白かった。山を下りた川港で、辺境伯さまが用意してくれた平底の荷船に乗り換えた。それから三日、セルナ川を下っている。

 川幅は広く、水は灰色に濁っていた。両岸には刈り取られた麦畑が続いていた。ときどき風車の羽がのろのろと回っているのが見えた。

「吐くなら川に吐きな。船の中はやめて」

 ヤルナさんがトマの背中をさすっていた。自分も少し顔色が悪かった。

 ハルヴァンさんは船の真ん中で、大きな行李を両腕で抱えて座っていた。中にはあの箱から移した死者の束が五百行と受付簿が三冊、それに私の返戻台帳が入っている。王都の大聖堂の書庫で、原本と突き合わせるためだ。船が揺れるたびに、ハルヴァンさんは行李を抱き直した。

「爺ちゃん、それ下ろしなよ。重いでしょ」

「下ろさん。濡れたら事じゃ」

 トマのすぐ後ろに、青い紐の人影が立っていた。

 船に乗るとき、船頭たちが騒いだ。戻り人を船に乗せると川が荒れる、と。辺境伯さまが一喝して黙らせた。俺の領民の連れだ、と。それ以来、船頭たちはその人影から一番遠い艫の端で背中を丸めて櫓を漕いでいた。


 私は船べりに肘をついて、水面を見ていた。

 トキトウ・マサオミ。

 聖医。異界から召喚された、神の手を持つ医者。

 あの人も死んだのだろうか。火事で。それとも別の何かで。召喚、と報せには書いてあった。転生ではなく。

 会ったら、何と言えばいいのだろう。

 水無瀬です、と言うのか。医事課の。外科担当の。七年間、付箋を貼り続けた事務の。

 あの人は私の名前を知らない。

 知らないまま、私は駐車場のアスファルトの上で死んだ。


   ◇


 霜の月の二十日、昼過ぎ。王都ルクシアが見えた。

 最初に見えたのは塔だった。

 川の向こうの丘の上に、白い石の塔がそびえていた。空を刺すように細く、高い。てっぺんに金色の天秤が光っていた。大聖堂だ、と辺境伯さまの騎士が教えてくれた。

 丘を取り巻くように、白い城壁が続いていた。城壁の内側には赤い瓦屋根が波のように重なっていた。セグ村の全部を百集めても、まだ足りないくらいの屋根だった。

 川港は人と荷であふれていた。樽を担ぐ人足。魚を売る女。鎖に繋がれた荷馬。物売りの声と鴎の鳴き声と、荷車の車輪が石畳を叩く音。トマが口を開けたまま、首をぐるりと回した。

「人が、いっぱい」

「迷子になるなよ」

 ヤルナさんがトマの襟首をつかんだ。


 城門をくぐると、通りの石畳がきれいに掃かれていた。道の真ん中に溝が一本通っている。鉄の格子の蓋の下から、水の流れる音がした。のぞき込むと、薄青いゼリーのようなものが溝の壁に張りついてゆっくり動いていた。

「スライムだ」

 トマが言った。セグの裏庭に放したのと同じ、清掃ギルドのスライムだった。王都では街じゅうの下水に飼われているらしい。だから匂いがしない。セグのような腐った臭いが、どこにもなかった。

 代わりに甘い匂いがした。

 通りの両側の店先に、蜜蝋の蝋燭が束で吊るされていた。黄金色の、太くて立派な蝋燭。セグではハルヴァンさんが通夜のために十年しまっておいたものが、ここでは軒先に並んでいた。

「贅沢な町じゃのう」

 ハルヴァンさんが行李を抱えたままつぶやいた。


 けれど大通りを一本外れると、景色が変わった。

 建物が低くなり、壁が煤で黒くなった。通りの幅が狭くなった。頭の上で洗濯物の紐が交差していた。戸口に人がしゃがみ込んでいた。痩せた子どもが裸足で泥の中を走っていた。

 咳が聞こえた。

 セグで何度も聞いた、あの湿った灰色の咳だった。一つではなかった。路地の奥から。戸口の中から。二階の窓から。

「灰咳だ」

 ヤルナさんが足を止めた。

「王都にも、こんなに」

「灰堀区だ」

 辺境伯さまが馬上から言った。

「川沿いの貧民街だ。灰咳はここから広がった。王立施療院にも押し寄せている。だが施療院の癒し手の光は細るばかりで、教会は祈りが足りぬと言う。それで異界から医者を呼んだというわけだ」


   ◇


 王立施療院は大聖堂の丘のふもとにあった。

 白い大理石の柱が並ぶ、宮殿のような建物だった。正面の階段の上に、天秤の彫刻を戴いた大扉がある。扉は開け放たれていて、中から人があふれ出していた。

 階段にも人が座り込んでいた。担架に乗せられたまま、廊下に並べられている人もいた。白い修道服の修道女たちが、その間を早足で行き来していた。誰も誰が先かを見ていなかった。

 セグの施療院の最初の朝と同じだった。

 ただ、何十倍も大きかった。

「聖医さまにお目通りを」

 辺境伯さまの騎士が修道女の一人を呼び止めた。修道女は疲れきった顔で、奥を指さした。

「手術の間に。今は、どなたにもお会いになりません」

「辺境伯ディートリヒ・グラウだ」

 修道女の顔色が変わった。

 案内されたのは奥の大広間だった。高い天井から、蜜蝋の蝋燭を何十本も吊るした燭台が下がっている。部屋の真ん中に、石の台が一つ。その上に、男の子が一人寝かされていた。十歳くらい。トマと同じくらいの年だった。

 その横に男が立っていた。

 白い法衣の袖をまくり上げていた。金糸の縫い取りのある、教会の聖医の法衣。その下に私のよく知っているものが見えた。

 白衣だった。

 汐見総合病院の、外科の白衣。胸ポケットに、黒いペンが二本差してある。その上に名札がクリップで留めてあった。


 名札は表を向いていた。

 外科 時任将臣。


 時任先生は私たちを見なかった。男の子の脚を見下ろしていた。膝から下がありえない方向に曲がっていた。荷車に轢かれたのだと、修道女が小声で言った。骨が皮を破って、白く突き出していた。

「押さえてろ」

 時任先生が台の両側の修道士に言った。

 手にしていたのは細い刃物だった。前の世界のメスではない。この世界の鍛冶屋が打った、薄い小刀。それを、迷いなく傷口に入れた。

 男の子が悲鳴を上げた。修道士が肩を押さえつけた。

 時任先生の手は速かった。肉を開き、骨の端を探る。指で引き寄せて合わせる。血の匂いが広間に満ちた。ヤルナさんが息を呑むのが聞こえた。

 骨を合わせ終えると、時任先生は刃物を置いた。両手を、傷の上にかざした。

 光った。

 ヤルナさんの光とは違う、白い光だった。けれど細かった。セグの施療院の、最初の夜のヤルナさんと同じくらい。消えかけた蛍のように、ちらちらと瞬いていた。

「……くそ」

 時任先生が舌打ちした。

「昨日より細い」

 光は傷の表面をかろうじて塞いだ。男の子の悲鳴がすすり泣きに変わった。時任先生は修道士に添え木を当てさせ、包帯の巻き方を指示した。それからようやく顔を上げた。


 私と目が合った。

 時任先生の目は私の顔の上を通り過ぎた。知らない少女を見る目だった。何の引っかかりもなく、次の辺境伯さまのほうへ移った。

 当たり前だ。

 この顔はニナさんの顔だ。水無瀬詩織の顔ではない。そして、たとえ水無瀬詩織の顔だったとしても、この人が覚えているとは限らない。

「辺境伯ディートリヒ・グラウだ。オルドから来た」

「時任だ。聖医とやらをやらされてる」

 時任先生は血のついた手を、修道士の差し出した布で拭った。

「辺境の奇跡とかいう話なら、聞いてる。赤い札を減らしたとか。悪いが、今は手が足りない。話なら後にしてくれ」

「この娘が、その奇跡をやった。受付だ」

 辺境伯さまが私の背中を押した。

 時任先生の目がもう一度私を見た。

 今度は少しだけ長く。

 それから鼻で笑った。

「受付?」

 私は背筋を伸ばした。

 言わなければ。辺境の施療院で明細の摘要を書いてもらったこと。名前の不一致を直したこと。この施療院の明細もきっと同じことになっていること。先生の施しの光が細いのは、たぶん。

 時任先生が私の前を通り過ぎた。次の担架のほうへ歩きながら、振り向きもせずに言った。

「おい、事務」

 足が床に張りついた。

「カルテは後だ。今は書類なんか見てる暇はない」


 白衣の背中が廊下の向こうへ遠ざかっていく。

 汐見総合病院の医事課の島の端で、査定の通知を振っていた背中と同じだった。

 私は何も言わなかった。言えなかった。

 ヤルナさんが私の袖を引いた。

「今の、何。知り合い?」

「……いいえ」

 嘘だった。ここへ来て、いちばん大きな嘘だった。


   ◇


 日が傾くころ、大聖堂から迎えが来た。

 白い外套の聖騎士が四人。その真ん中を赤い衣の男がゆっくりと歩いてきた。

 背の高い痩せた人だった。六十に近いだろうか。銀色の髪を短く整えていた。細い顔に穏やかな皺が刻まれていた。赤い衣の胸に、金の天秤の飾りが下がっていた。

 枢機卿だ、とハルヴァンさんが震える声でささやいた。教会の最高位の一人。地上に数人しかいない。


 枢機卿さまは辺境伯さまに軽く頭を下げた。それから私の前で立ち止まった。

 身をかがめて、私と目の高さを合わせた。受付の机で私が子どもに話しかけるときと、同じ仕草だった。

「あなたが、オルドの受付ですね」

 声も穏やかだった。低く、よく通る声。けれど、どこか冷たかった。冬の朝の、磨いた石の床のような声だった。

「辺境の奇跡の話は、聞いております。二十年の赤い札を、ひと月で消したと。女神さまのお導きでしょう。大聖堂を代表して心からお礼を申し上げます」

 枢機卿さまは右手を胸に当てた。

「アウレリオと申します。王都の大聖堂で、名簿と施しの帳簿を預かっております」


 名乗った。

 枢機卿さまの頭の上に、窓が浮かんだ。


 『氏名(名簿):アウレリオ・ルクス

  氏名(台帳):カイ

  資格:不一致――返戻中』


 私は息を止めた。

 カイ。

 短い名前だった。オルドの名前だった。グスタ。ベッカ。ヤルナ。ヨル。セグ村の広場で私が毎日書き留めてきた名前と、同じ響きだった。

 大聖堂の枢機卿の、女神の台帳の名が。

 枢機卿さまは私の顔をじっと見ていた。穏やかな、何も読み取れない目だった。

「どうかなさいましたか」

「……いいえ」

 私は首を振った。

「長旅で、少し疲れていて。船に酔ったのかもしれません」

「それはいけない。今夜は大聖堂の客間をお使いください。明日、王立施療院の書記たちにお引き合わせしましょう」

 枢機卿さまは微笑んで、身を起こした。赤い衣の裾が石畳の上を滑るように遠ざかっていく。


 私は何も言わなかった。

 ヤルナさんにもハルヴァンさんにも。辺境伯さまにも。

 枢機卿さまの頭の上で、窓はまだ消えずに浮かんでいた。夕暮れの光の中で、カイの二文字がかすかに揺れていた。誰にも見えない窓だった。私にしか読めない名前だった。


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