第十四章 算定
「同じ祈りに、二回ぶんの加護を請求しているんです」
私がそう言うと、書記室の空気が止まった。
王立施療院の書記室はセグの書記室の二十倍は広かった。長い机が四列。白い修道服の修道士が十二人、背を丸めて羽根ペンを走らせていた。壁一面の棚には明細の控えが詰まっている。床にも箱が積まれていた。その箱の中に赤い札と黒い札があふれていた。
霜の月の二十一日。王都に着いた翌朝だった。
書記長のロタール修道士が眉を寄せて私を見下ろしていた。五十がらみの痩せた人で、指の先がハルヴァンさんと同じく墨で黒かった。
「二回ぶん、とは」
「この行と、この行です」
私は先月の控えの一枚を広げた。
伯爵家のご令嬢の行だった。高い熱が続き、王立施療院に十日間とどまって施しを受けた。最初の行には七日祈祷と書いてある。七人の司祭が七日間、交代で祈りを捧げる大きな施し。点数も大きい。
その下に細かい行が並んでいた。熱の施し。咳の施し。熱の施し。眠りの施し。毎日のように、少しずつ。
「七日祈祷というのは、七日のあいだの熱や咳の施しをぜんぶ含んだ祈りですよね」
「そうです。そのための大祈祷です」
「なら、その七日のあいだの小さな施しは別に請求できません。七日祈祷の点数の中に、もう入っているので」
ロタール修道士は控えを手に取った。目が上の行と下の行を何度も往復した。
前の病院では包括と出来高と呼んでいた。
いくつかの医療行為をまとめて一つの点数にするのが、包括。行為ごとに一つずつ点数をつけるのが、出来高。包括の点数を請求しているときに、その中に含まれる行為を別に請求したら二重請求になる。審査では必ず削られる。
受付の机で患者さんを迎えていたころには知らなかった。会計に移って初めて覚えた。点数表の分厚い本の細かい注意書きの中に、それは書いてあった。
「それで、この黒い札ですか」
ロタール修道士が箱の中の黒い札を一枚拾った。裏の事由を読む。
施し重複。大祈祷に含まるるものを再び量るべからず。
ロタール修道士の顔がゆっくりと赤くなった。
「三年前からずっとこうでした。七日祈祷のある月は必ず黒い札が来る。司祭さま方は、女神さまが大祈祷をお嫌いになったのだと」
「お嫌いになったのではありません。重なっていたぶんを削っただけです」
ほかの修道士たちがペンを止めてこちらを見ていた。
一人が立ち上がり、自分の机から控えの束を持ってきた。
「これも、ですか」
見た。同じだった。
もう一人が別の束を持ってきた。これも同じだった。
「七日祈祷の行をぜんぶ出してください」
私は言った。
「その期間に入っている小さな施しの行に印をつけます。それを外してから、来月の明細を作ってください」
修道士たちが一斉に棚へ向かった。
◇
昼までに二百四十一行の重複が見つかった。
私は一行ずつ確かめた。七日祈祷の始まりと終わりの日を調べた。その間に入る小さな施しに赤いインクで線を引いた。一行ずつ点数を引き直した。
何十行目かで、指先がまた熱くなった。
七日祈祷の行に目を落としたとき、その行の点数の横に淡い光の数字が重なって見えた。本当の点数。含まれる施しをすべて差し引いたあとの、正しい数。
【スキル『受付』の派生――『算定』を習得しました】
頭の奥であの乾いた声がした。
算定。前の病院では診療行為を点数に置き換えることをそう呼んだ。会計の窓口で医師のオーダーを一つずつ点数に直していく。どの行為がどの点数か。どれとどれが一緒に算定できないか。
光る数字は私が赤いインクで引き直した数と同じだった。
それからは一行を見るたびに数字が浮かんだ。手が目に追いつかないくらい速く動いた。
「……あの子、何者だ」
背後で若い修道士がささやいた。
「辺境の受付だそうだ。空札らしい」
「空札が、なんで点数を暗算できるんだ」
私は聞こえないふりをして、次の行に線を引いた。
ハルヴァンさんが隣の机で古い控えをめくっていた。ときどき顔を上げてロタール修道士に何か教えていた。名前の欄の書き方。墨の濃さ。行の揃え方。四十年の手つきだった。ロタール修道士は最初は鼻白んだ顔をしていた。昼を過ぎるころには、ハルヴァンさんを「先生」と呼んでいた。
◇
午後、書記室の扉が開いた。
入ってきたのは紫の衣を着た中年の女の人だった。後ろに侍女を二人連れている。首に真珠を三重に巻き、扇を手にしていた。
修道士たちが慌てて立ち上がって頭を下げた。
「グリューネ伯爵夫人」
ロタール修道士が私の耳元でささやいた。
「七日祈祷を三度受けられた、ご令嬢の母君です」
伯爵夫人は机の上の赤いインクの線を見下ろした。それから私を見た。
「あなたね。辺境から来たという受付は」
「はい」
「娘の施しが三度も女神さまに削られたのは娘の信心が足りないからだと、司祭さまに言われたわ。七日祈祷をもう一度受けさせなさいと。そのたびに、寄進を求められた」
扇を持つ手がかすかに震えていた。
「本当は、祈りが重なっていただけなの?」
「……はい。七日祈祷の点数の中にもう含まれていた施しを、別に量っていたんです。だから重なったぶんが削られました。お嬢さまの信心とは関係ありません」
伯爵夫人はしばらく黙っていた。
それから扇を閉じた。
「書記長」
「は、はい」
「来月の明細、この子の言うとおりに直して。それで黒い札が来なかったら、娘の削られた施しのぶんだけ大聖堂への寄進を見直させていただくわ」
伯爵夫人は踵を返した。扉の前でもう一度振り返った。
「あなた、名前は」
「……ニナです」
「覚えておくわ、ニナ」
扉が閉まった。
ロタール修道士が深いため息をついて椅子に座り込んだ。修道士たちが顔を見合わせてざわめいた。
私は赤いインクの壺にペンを浸した。手が少しだけ震えていた。
また、ニナと名乗った。
◇
もう一つ、気づいたことがあった。
赤い札のついた行の名前の欄に、見覚えのある姓が並んでいた。セラフ。ドール。グラン。セグ村の受付簿で何百回も書いた三つの姓だった。
行の住まいの欄にはほとんど同じ地名が書いてあった。灰堀区。
「灰堀区の人たちは、どこから来たんですか」
ロタール修道士に聞いた。
「さあ。多くは東の者だと聞いています。二十年前に山向こうが王国に入ってから、仕事を求めて流れてきた者たちです」
オルドの人たちだった。
王都に移っても名簿の名と台帳の名は食い違ったままだ。施しは返され、光は届かない。灰咳はそこから広がった。
私は返戻台帳の新しいページに灰堀区、と書いた。その下に線を一本引いた。
夕方、私はもう一つの束を見ていた。
聖医の施しの行だった。
時任先生が王立施療院に来てから、まだひと月も経っていない。それでも行の数は誰よりも多かった。骨の継ぎ。傷の塞ぎ。腹を開いて膿を出す施し。前の世界でいう手術を毎日何件もしている。
そして、その行のほとんどに黒い線の札がついていた。
事由を読んだ。
摘要なし。施しの必要を認めず。
摘要なし。施しの必要を認めず。
摘要なし。
手が止まった。
摘要の欄が全部空だった。
「聖医さまは、何もお書きにならないのです」
ロタール修道士が気まずそうに言った。
「施しが終わると、すぐ次の患者のところへ行かれる。修道士が後から伺っても同じです。そんなものは後だ、と」
前の病院と、同じだった。
時任先生の机の上の書類箱。丸めて屑籠に捨てられた黄色い付箋。三十二万の査定。
この世界でも先生は同じことをしている。
そしてこの世界では、査定された施しのぶんの加護が戻らない。前借りした加護を返せないまま、次の施しでまた借りる。月ごとに光は細くなる。
時任先生の光が細いのは、そのせいだった。
昨日見た、消えかけた蛍のような白い光。昨日より細い、と先生は舌打ちしていた。
自分で自分の光を削っていることに、先生は気づいていない。
「ヤルナさん」
私は書記室の隅で薬草の帳面を見ていたヤルナさんを呼んだ。
「手術の間に、一緒に来てもらえますか」
「あの失礼な医者のところ?」
「はい」
「なんで」
「摘要を、書いてもらいたいんです。一人で行くと、たぶん何も言えないので」
ヤルナさんは私の顔を見た。ふん、と鼻を鳴らした。それから帳面を閉じて立ち上がった。
◇
時任先生は手術の間の隅で、木の椅子に座っていた。
膝の上に肘をつき、両手で額を押さえていた。法衣の袖に乾いた血がこびりついていた。蜜蝋の燭台の光がその疲れきった横顔を照らしていた。
「先生」
声をかけた。
時任先生が顔を上げた。私を見て眉をひそめた。
「また事務か」
「聖医さまの施しの明細のことで、お願いがあって参りました」
「後にしろと言ったはずだ」
「先生の施しのほとんどに黒い線の札が来ています。事由は、摘要なしです」
時任先生は答えなかった。
「施しの理由を摘要の欄に書いていただけないでしょうか。何を見て、どうしてその施しを選んだのか。それがあれば女神さまは削りません。削られなければ加護が戻ります。先生の光も、太くなります」
言えた。
一度も詰まらずに、最後まで。荷車の上で十七回練習しても言えなかった言葉が、今は出てきた。
隣でヤルナさんが小さくうなずいたのがわかった。
時任先生はしばらく私を見ていた。それから短く笑った。
「書く暇があったら、一人でも多く切る」
「でも」
「この世界の連中は紙のために人を待たせるのか。熱の子どもを廊下に寝かせたまま、羽根ペンで余白を埋めろと」
「書くのは、施しのあとでかまいません」
「施しのあとには、次の施しがある」
時任先生は立ち上がった。背が高かった。私の頭の上から見下ろすように言った。
「紙で人が治るか」
喉が詰まった。
七年間、何度も言われた言葉だった。言われるたびに私は頭を下げてきた。
「なんで、そう決めつけるの」
ヤルナさんが私の前に出た。
「あたしも最初は書くのなんか嫌だった。でも書いたら、光が戻ったんだよ。二十年細ってた光が。あんたの光が細いのは、書かないせいだよ」
時任先生の目がヤルナさんに移った。
「辺境の癒し手か」
「ヤルナ。あんたは」
「時任だ」
窓は浮かばなかった。この世界の人ではないからか。それとも名簿にも台帳にも、この人の名前がないからか。
「お前らの帳簿遊びに付き合う気はない」
時任先生は私たちの横をすり抜けた。廊下へ出ていく背中に、ヤルナさんが何か言いかけた。
時任先生が戸口で足を止めた。
振り返らずにつぶやいた。
「前の世界にも、お前みたいな事務がいた」
心臓が一つ、大きく打った。
「黄色い紙を毎月毎月、俺の机に貼りつけてくるやつだった。うるさくて仕方なかった」
私は息をするのを忘れていた。
「名前も覚えてないがな」
足音が廊下の向こうへ遠ざかっていった。
ヤルナさんが私の顔をのぞき込んだ。何か聞こうとして、やめた。私の手はヤルナさんの前掛けの端を、いつの間にか握りしめていた。




