第十五章 処方箋
「この処方箋、いつ出されたものですか」
受付の机の前で、若い母親が困った顔をした。
霜の月の二十四日。私は王立施療院の入口に小さな受付の机を置かせてもらっていた。ロタール修道士が古い書見台を貸してくれたのだ。セグのような扉と樽ではない。それでも机は机だった。
母親の腕の中で、四つくらいの女の子がぐったりしていた。頬が赤い。熱がある。
母親が差し出したのは、手のひらほどの紙片だった。施療院の癒し手が書く、薬の指図書。王都ではこれを処方箋と呼ぶ。持っていけば、薬師ギルドの店で薬を調えてもらえる。
紙片の端には施療院の印が押してあった。印の色が薄く褪せていた。
「八日前です。でも、ずっとお金がなくて。やっと銅貨が貯まったから、きのう薬師さんのところで薬をもらったんです。それを飲ませたのに、ちっとも熱が下がらなくて」
私は紙片を光にかざした。
施療院の印は癒し手の加護を込めて押すのだと、ロタール修道士に聞いていた。その印が薬に女神の力を宿らせる。印の加護は日が経つと薄れ、四日で消える。だから処方箋は四日のうちに薬師に持っていかなければならない。
前の世界でも処方箋には使用期限があった。発行した日を入れて四日以内。過ぎたらもう使えない。会計の窓口で処方箋を渡すとき、必ず念を押した。四日以内に薬局へ行ってください、と。
ここではその念押しをする人がいない。
「お母さん。この紙は、四日で効き目がなくなるんです」
「え」
「薬師さんは、それを言いませんでしたか」
「何も。紙を見て、薬を渡してくれただけ」
母親は青ざめた。女の子が小さく咳をした。
「ヤルナさん」
私は奥に声をかけた。ヤルナさんが来て、女の子の額に手を当てた。光はセグにいたころより、ずっと太かった。熱が引いていく。女の子が母親の胸の中で目を開けた。
「新しい処方箋を書いてもらいます」
私は母親に言った。
「今日のうちに、薬師さんのところへ。お金が足りなければ、言ってください」
母親は何度も頭を下げた。女の子を抱いて出ていった。
私は書見台の上の紙に一行書いた。処方箋に、出した日と四日目の日を書き入れること。渡すときは口でも伝えること。
それからもう一つ書いた。薬師ギルドに行く。
昼過ぎ、書見台の脇の柱に紙を一枚貼り出した。処方箋は出した日を入れて四日のうちに。過ぎたら、もう一度受付へ。字の読めない人のために、トマに頼んで四本の線と薬壺の絵も描き添えてもらった。
貼り終えたところで、背後に人の気配がした。
時任先生だった。手術の間から出てきたところらしい。手を布で拭いながら、柱の紙を見上げていた。
私は身を固くした。
時任先生は何も言わずに紙を読んでいた。四本の線と薬壺の絵のところで、目が止まった。
「四日、か」
低い声だった。誰に言うでもなく。
「こっちの世界でも、同じなんだな」
それだけ言って、時任先生は廊下の奥へ歩いていった。私のほうは一度も見なかった。
私は柱の前に立ったまま、その背中を見送った。前の病院の会計の窓口にも、同じ注意書きが貼ってあった。先生はそれを、毎日目にしていたのだろうか。
◇
薬師ギルドの本店は、大聖堂の丘の西側の坂の途中にあった。
石造りの三階建てで、軒先に乾かした薬草の束が何十も吊るされていた。戸口をくぐると、苦い匂いと甘い匂いと土の匂いがいっぺんに押し寄せてきた。壁一面の引き出しに、小さな札が貼ってある。カミツレ。蓬。月下草。
「月下草は、かぶれるので気をつけないと」
ヤルナさんがつぶやいた。
帳場の奥から、白髪の女の人が出てきた。小柄で背が少し曲がっていた。指の先が緑と茶色に染まっていた。薬草の汁だ。
「オーデだよ。ギルドの帳場を預かってる。教会じゃオディリアなんて呼ばれるけどね。あたしも山向こうの生まれさ。施療院の書記さんかい」
「受付です」
「受付?」
オーデさんは目を細めて私を見た。それから私の後ろのヤルナさんを見た。ああ、とうなずいた。
「辺境の子たちだね。噂は聞いてるよ。赤い札を消したって」
オーデさんの頭の上にも窓が浮かんでいた。名簿の名はオディリア・グラン。台帳の名はオーデ。不一致。
トマは壁一面の引き出しに目を奪われていた。一つずつ札の字を読み上げ、知っている薬草を見つけるたびに声を上げた。その後ろに青い紐の人影が寄り添っていた。
オーデさんがそれに気づいた。
「その子の後ろの。あんたらの連れかい」
「……はい」
「そうかい。灰堀区にもいっぱいいるよ。うちの店の前にも毎晩一人立ってる。気味悪がる客もいるけど、あたしは追い払わない。どこへ行けばいいかわからないだけなんだろうさ」
オーデさんは人影に向かって、小さく頭を下げた。
トマが驚いた顔でオーデさんを見上げていた。
私は処方箋の期限のことを話した。オーデさんは顔をしかめて帳場の机を指で叩いた。
「印の褪せたのは断るように、若いのには言ってあるんだがね。忙しいと見逃す。気をつけるよ」
「それと、もう一つ」
私は帳場の上の分厚い帳簿を見た。
「薬師ギルドも女神さまに明細を納めているんですよね」
「ああ。調剤の明細をね。薬に込める加護の分を、毎月」
「赤い札は来ますか」
オーデさんはきょとんとした。
「来ないよ。ほとんどね」
私は息を止めた。
「見せていただけませんか。帳簿を」
◇
オーデさんの帳簿は、王立施療院の明細とよく似ていた。
日付。客の名前。処方箋を出した施療院。調えた薬の種類。加護の点数。
けれど一つだけ違うところがあった。
名前の欄だった。
グレタ。ロッテ。ハンス。ミーナ。
短い名前ばかりだった。
「これは」
「客が名乗った名前だよ。帳場で聞いて、そのまま書く」
「教会の名前ではなく」
「教会の名前なんかいちいち聞かないよ。ここは教会じゃない。薬を渡す相手が誰か、わかればいいんだ」
オーデさんは肩をすくめた。
私は王立施療院から持ってきた先月の控えを、帳簿の隣に広げた。
同じ日の同じ処方箋の行を探す。
施療院の控え。霜の月三日。マルグリット・ドール。熱の施し。処方箋あり。返戻。
オーデさんの帳簿。霜の月三日。グレタ。熱の薬。施療院の印あり。赤い札、なし。
指先が熱くなった。
二つの行が同時に淡く光った。突合の光だった。同じ人だ。同じ日の。同じ施しの。同じ処方箋の。
施療院の行には名簿の名が書いてある。マルグリット・ドール。
薬師の行には本人が名乗った名が書いてある。グレタ。
そして薬師の行は通り、施療院の行は返されている。
「ヤルナさん」
声がうわずった。
「女神さまは、突き合わせているんです」
「何を」
「施療院の明細と薬師の明細を。同じ人の、同じ日の施しを。並べて量っているんです」
前の世界では突合点検と呼んだ。
病院が出す請求と薬局が出す請求を、審査の機械が突き合わせる。病院は薬を出したと書いているのに、病名が合わない。薬局の請求には別の名前がある。そういう食い違いを機械が光らせて見つけ出す。
「薬師の帳簿には本人が名乗った名前が書いてある。それは女神さまの台帳の名前と合う。だから通る。施療院の明細には教会の名簿の名前が書いてある。それは台帳と合わない。しかも同じ処方箋の薬師の行とも食い違う。だから返される」
ヤルナさんは二冊の帳簿を見比べていた。
「つまり、薬師のほうが正しい名前を書いてたってこと?」
「女神さまの帳簿に合っている、という意味では」
オーデさんがふん、と鼻を鳴らした。
「そりゃそうさ。名乗ったまま書いてるんだから」
私はオーデさんの帳簿のページを、一枚ずつめくった。
灰堀区の客の名前が、何百と並んでいた。
帳簿は一年で一冊。棚には三冊並んでいた。一冊にざっと四千行。そのうち施療院の処方箋がある行は、半分ほど。その半分と施療院の控えを突き合わせれば、三年で六千組近くになる。どれも短い、オルドの響きの名前だった。そのうち名簿の名と台帳の名が食い違う組だけでも、何百とあるはずだった。セグで一人ずつ聞いて回った組を、ここでは帳簿二冊から拾える。
けれど、まだ足りない。
施療院に来なかった人。薬師に行かなかった人。死んだ人。
そして二十年前の改名令のとき、誰がどの名を与えられたのか。
その全部が書いてあるはずの場所が、この都に一つだけあった。
◇
「洗礼名簿の原本、ですか」
王立施療院の書記室でロタール修道士が顔を曇らせた。
「大聖堂の地下の書庫にあります。王国じゅうの洗礼の記録が。改名令のときの記録も、そこにあるはずです」
「見せていただくことはできますか」
「書庫の鍵は、枢機卿さまがお持ちです。お許しがなければ、誰も入れません」
ロタール修道士は少し声を落とした。
「辺境伯さまのお口添えがあっても、難しいかもしれません。書庫には教会の古い記録がすべて納められている。枢機卿さまは外の者が触れることをお嫌いになります」
私はセグから持ってきた行李を見た。
ハルヴァンさんがその横に座っていた。中には五百行の死者の束が入っている。ニナさんの行も。
「お願いの書状を書きます」
私は言った。
「死者の明細を出し直すために、名簿の原本と突き合わせたいと。それなら、教会の決まりにも背きません」
ハルヴァンさんが眼鏡を押し上げた。
「お前さんが書くのか」
「はい」
「自分の名で?」
ペンを持つ手が止まった。
書状には差出人の名を書く。私は何と書けばいいのだろう。空札の受付。セグのニナ。
「……セグ施療院、受付」
私はそう書いた。名前の欄は空けたままにした。
ハルヴァンさんは何も言わなかった。ただ眼鏡の奥の目を、少しだけ細めた。
ヤルナさんが書状の空欄を指でつついた。
「受付が自分の名前を書かないって、変じゃない?」
「空札なので」
「関係ある? あんた、毎日みんなに名前を聞いてるでしょ。ご自分の声で、って」
ヤルナさんの声は責める調子ではなかった。不思議そうだった。
「名乗ってもらえないと確かめられないって、いつも言ってるくせに。なのに自分は名乗らないの」
私は書状を巻いた。紐で結ぶ指が少しもたついた。
「……私の名前は、たぶん、どこにも載っていないので」
ヤルナさんはそれ以上は聞かなかった。代わりに長い息を一つ吐いた。
書状は夕方にロタール修道士が大聖堂へ届けてくれた。
返事は日が沈む前に来た。
赤い封蝋の、小さな手紙だった。開くと端正な字で二行だけ書いてあった。
明晩、書庫の鍵をお貸しいたします。どうぞ、お心のままに。アウレリオ。
「……ずいぶん、あっさりだね。拍子抜け」
ヤルナさんが私の肩越しに手紙をのぞき込んだ。
「ロタールさん、難しいって言ってなかった?」
「言っていました」
私は手紙を折りたたんだ。
封蝋の天秤の紋が指の下で冷たかった。あまりにもあっさりとした許しだった。
まるで、私が来るのを待っていたかのように。
窓の外で、大聖堂の鐘が鳴った。夕べの祈りの鐘だった。低い音が石の床を通って足の裏まで響いた。




