第十六章 突合点検
書庫の鍵は私の手のひらより大きかった。
鉄でできていて、冷たく重かった。頭の部分に天秤の透かし彫りがある。霜の月の二十五日の夜。大聖堂の裏口で若い修道士がそれを黙って私に渡した。枢機卿さまからです、とだけ言ってすぐに去っていった。
ハルヴァンさんがランタンを掲げた。トマが行李を背負っていた。中には五百行の死者の束と受付簿と、返戻台帳が入っている。そのすぐ後ろを、青い紐の人影がついてきた。
ヤルナさんは来なかった。王立施療院の熱の部屋に、今夜は手が離せない子が三人いた。
「気をつけてね。何か変だったら、すぐ戻ってきな」
出がけにヤルナさんはそう言った。
◇
書庫へ下りる階段は大聖堂の身廊の奥にあった。
夜の大聖堂は昼とまるで違う場所だった。何百本もの蜜蝋が消され、祭壇の前の数本だけが灯っていた。高い天井は闇に溶けて見えない。柱の列がランタンの光の届くところまで、どこまでも続いていた。
足音が石の床に何重にも響いた。
祭壇の手前に大きな石の台があった。
セグの施療院の受領台の十倍はあった。白い大理石で、表面に巨大な天秤が彫られている。左右の皿のそれぞれに人が一人横たわれそうだった。
「大受領台じゃ」
ハルヴァンさんが声を落として言った。
「王都の施療院も薬師も、王国じゅうの大きな施しの明細はここに納められる」
ランタンの光が台の側面を照らした。
文字が刻まれていた。
セグの受領台にも同じ場所に刻み跡はあった。けれど擦り減って、ほとんど読めなかった。ここの文字はくっきりと深かった。
私はランタンを借りて台の前にしゃがんだ。
天秤院の定め、と最初の行にあった。
一つ。量りは名をもってす。名簿の名と台帳の名の一致をもって、資格とす。
一つ。名簿と台帳の名の異なるとき、癒し手の摘要をもって補うを得。ただし名簿の主の異議あるときは、この限りにあらず。
一つ。返戻より二十年を経て、なお出されぬものは、査定とみなす。
指が止まった。
「ハルヴァンさん」
声がかすれた。
「この三つ目は」
ハルヴァンさんが私の肩越しにのぞき込んだ。眼鏡を押し上げ、目を細めて読んだ。
「二十年……」
「セグの最初の赤い札は、二十年前の灰の月でした」
「灰の月の十日の締めで返された」
「なら、二十年後の灰の月の十日」
頭の中で暦をめくった。今日は霜の月の二十五日。霜の月は三十日まで。それから灰の月の一日、二日。
「あと、十五日です」
トマが行李を背負ったまま私の顔を見上げた。
「十五日たったら、どうなるの」
「二十年前の灰の月に返された明細が全部、査定になります」
「査定って、黒い線の札?」
「はい。二度と戻らない。直しても出し直しても、もう量ってもらえない」
箱の中の五百行。死んだ人たちの行。その中のいちばん古い行が、十五日後に消える。そのあとはひと月ごとに次の月の行が消えていく。
戻り人たちは二度と還れなくなる。
ハルヴァンさんが台の縁に手をついた。
「そんな定めがあるとは、誰も言わなんだ」
「ここに来なければ、読めなかったので」
二つ目の定めも気になった。名簿の主の異議。名簿の主は教会だ。教会が異議を申し立てれば、摘要で補った行も通らなくなる。
セグでやったことは、教会がその気になればいつでも止められる。
私は台から離れた。膝が冷えて、うまく立てなかった。
◇
書庫は身廊の奥の螺旋階段を下りきったところにあった。
鉄の扉を大きな鍵で開けた。蝶番が長いこと使われていない音で軋んだ。
中は冷たい地下室だった。天井が低く、石のアーチが何重にも重なっていた。その下に棚が並んでいた。天井まで届く木の棚に、革で綴じた分厚い帳面が隙間なく詰まっている。古い羊皮紙と黴と蝋の匂いがした。息を吸うと、喉の奥がひやりとした。
入口の脇の小部屋に年老いた修道士が一人いて、椅子に座ってうとうとしていた。私たちが入っても顔を上げなかった。耳が遠いのだと、あとで知った。
トマが私の袖をつかんだ。
「姉ちゃん。ここ、お墓みたい」
声がアーチの天井に吸い込まれた。
確かにそうだった。棚の帳面の一冊一冊に、何千という人の名前が眠っている。生まれた日と洗礼の日と、死んだ日と。生きている人の名前も、とうに死んだ人の名前も。同じ革の表紙の中で、同じように黙っていた。
トマの後ろの青い紐の人影が棚のほうへ顔を向けていた。灰色の霧の輪郭がランタンの光を受けて、ぼんやりと揺れていた。
この人もこの棚のどこかにいる。
「怖かったら、上で待っててもいいよ」
「怖くない」
トマは唇を引き結んで行李の紐を握り直した。
棚には地方ごとの札が下がっていた。王都。西の港。南の丘陵。北の森。
いちばん奥のいちばん暗い棚に東、とあった。
オルド。
ランタンを近づけた。年ごとの洗礼名簿が並んでいる。その中に一冊だけ、背の色の違う帳面があった。黒い革。背に金の文字。
オルド改名録。
私はそれを抜き出した。重かった。両手で抱えて棚の前の書見台に置いた。
表紙をめくった。
最初のページに布告の写しが綴じてあった。
改名令。王命により、東の新領オルドの民に聖名を授く。古き名は異教の名なり。これを捨て、女神の子として新たに生まるべし。古き戸籍はこれを焼け。名を一つにせよ。さすれば争いは消える。
末尾に、署名があった。
司教アウレリオ・ルクス。
ランタンの炎が揺れた。
「アウレリオ……」
ハルヴァンさんの声が震えた。
「枢機卿さまの、お名じゃ。二十年前はまだ司教であられた。改名令は、あの方が書かれたのか」
次のページから名前の列が続いていた。村ごとに。家ごとに。一人ずつ二つの名前が並んでいた。
左に古い名前。そこに黒いインクで太い線が一本引かれていた。
右に新しい聖名。
古い名前の上の線は名前を消していた。けれど消しきれてはいなかった。ランタンを近づけると、線の下の文字が読めた。
ウルラ。線。マルガレタ・セラフ。
ヨル。線。ヨハネス・セラフ。
ハルヴァン。線。ハルヴァヌス・グラン。
ヤルナ。四歳。線。セラフィナ・ドール。母は癒し手。
「……わしじゃ」
ハルヴァンさんがページの上に指を置いた。自分の古い名前の上の、黒い線を撫でた。
「消されとる。じゃが、書いてある」
「はい。書いてあります」
ヤルナさんの行を見つけたとき、私はしばらくその線を見つめていた。四歳の女の子の名前の上に、大人が黒い線を一本引いた。ヤルナさんのお母さんは、それを見ていたのだろうか。
教会は古い名前を捨てさせた。古い戸籍を焼かせた。けれど自分たちの帳面には、古い名前を書き残していた。誰が誰になったのかを。線を引いて、消したことにして。
指先が熱くなった。
行李から返戻台帳を出し、改名録の隣に広げた。セグの広場で書き留めた組。グスタフ・グランとグスタ。マリア・セラフとミラ。セラフィナ・ドールとヤルナ。
改名録の行が次々に光った。
突合の光だった。私の台帳の一行と改名録の一行が、淡い糸で結ばれていく。ページをめくるたびに光が増えた。何十、何百。
死者の束を出した。
五百行。本人の声を聞けなかった人たちの行。名簿の名しかわからなかった人たちの行。それを改名録と並べると、そのほとんどにも光が灯った。線の下の古い名前と死者の行の名簿の名が、一本ずつ結ばれていく。
入口の小部屋の壁に木の札が掛かっていた。書庫の帳面、持ち出しを禁ず。
改名録はここから出せない。
私は返戻台帳の白いページを開いた。光った組を一行ずつ書き写していく。インクが乾く前に次の行へ。ペン先が羊皮紙を引っかく音だけが、地下室に響いた。手首が痛くなった。ハルヴァンさんが隣で別の帳面に写すのを手伝ってくれた。四十年の書記の手は私よりずっと速かった。
夜半を過ぎたころ、書き写した組は八百を超えていた。
古い名前はわかった。
あとはそれを本人の声で確かめるだけだった。死んだ人たちの声で。
◇
オルドの洗礼名簿の十七年前の巻を開いた。
セグ村。セラフ家。
ニーナ・セラフ。古い名、ニナ。母の申し立て。
その行の端に赤い印が押されていた。死亡の印だった。日付は実の月の十一日。
私が目を覚ます、前の晩だった。
十年前の巻も開いた。同じセラフ家の行に、トマス・セラフ。古い名、トマ。母の申し立て。こちらには何の印もなかった。
トマが行李を下ろして私の隣に来た。字を追うのが遅いトマにも、その名前は読めた。
「姉ちゃんの、名前だ」
トマの指がニナの字の上で止まった。それからその横の赤い印を見た。
「これ、なに」
「……」
「姉ちゃん。この赤いの、なに」
私は答えられなかった。
トマの後ろで、青い紐の人影が書見台のほうを向いていた。
「死んだ人の、印じゃ」
ハルヴァンさんが静かに言った。
「名簿は、死んだ者に印をつける。届けが出たらの」
「でも、姉ちゃんは生き返ったよ」
トマが私を見た。
ハルヴァンさんは何も言わなかった。私も何も言わなかった。
トマはしばらく私の顔を見ていた。それから目をそらした。ニナの字から指を離し、行李のところへ戻って膝を抱えて座った。
私はニナさんの行を見つめていた。
生まれたとき、お母さんがニナと呼んだ子。教会がニーナ・セラフと書いた子。実の月の十一日に死んで、その翌日の夜に知らない女が体に入った子。
この行の明細も死者の束の中にある。改名録の古い名前と、光で結ばれている。
あとは本人の声だけだった。
それを聞くのは、私の仕事だった。受付の仕事だった。お名前を、ご自分の声で。毎日何百人に向けて言ってきた言葉。この一人にだけ、私はまだ言えずにいた。
◇
改名録を閉じようとしたとき、手が滑った。
重い帳面が書見台から落ちかけた。慌てて押さえたはずみに、表紙の内側から薄い紙が一枚ひらりと落ちた。
拾い上げた。
古い紙だった。指でつまむと、乾いた枯れ葉のように頼りなかった。改名録よりずっと古い。端が茶色く焦げていた。
国境の焼き討ちのあと、教会が保護した孤児の一覧だった。五十年前の日付。オルドの村の名が並び、その下に子どもの名前と年が書いてある。
セグ村。
一行だけだった。
カイ。八歳。両親は焼き討ちにて死す。教会にて保護し、聖名アウレリオを授く。
私はポケットの中の手紙を思い出した。赤い封蝋の、端正な字の二行。どうぞ、お心のままに。アウレリオ。
紙の一行と手紙の署名が、同時に淡く光った。
突合の光だった。
同じ人だ。
大聖堂の枢機卿は、五十年前に焼かれたセグ村から連れ出された八歳のカイだった。
そして三十年後には司教アウレリオ・ルクスとして、故郷の民の古い名前に黒い線を引いた。
ランタンの炎が大きく揺れた。
風が入ったのだと思った。扉は確かに閉めたはずだった。
背後で、石の床を踏む音がした。
柔らかく、急がない足音だった。修道士の草履でも聖騎士の長靴でもない。上等な革の靴底がゆっくりと近づいてくる音。
「やはり、見つけてしまいましたか。あなたなら、きっと見つけると思っていました」
穏やかな声だった。
冬の朝の、磨いた石の床のような声だった。




