第十七章 頭書き
頭書きという言葉を、私はそのとき思い出していた。
前の病院で新しい患者さんのカルテを作るとき、最初に整える一枚のことだ。名前。生年月日。住所。保険の種類。これまでの病気。薬のアレルギー。医師が診察室で最初に目を通す、その人の表紙。フェイスシートとも呼んだ。
人には誰にでも一枚目がある。
枢機卿さまは書庫の入口の木の長椅子に腰を下ろした。ランタンを足元に置き、赤い衣の膝の上で両手を組んだ。年老いた書庫番は相変わらず小部屋でうとうとしていた。
「どうぞ、お掛けなさい。立ったままでは疲れるでしょう」
私は動かなかった。ハルヴァンさんが私の隣に立っている。トマは行李の陰に身を縮めていた。青い紐の人影がそのそばに立っていた。
「その紙を、見たのですね」
枢機卿さまの目が私の手元の焦げた紙に落ちた。
「はい」
「では、私の一枚目をお話ししましょう。あなたは受付だ。人の名前と来歴を聞くのが仕事なのでしょう」
枢機卿さまは静かに話し始めた。
◇
「私はセグ村で生まれました。父は羊を飼い、母は機を織っていた。名はカイ。村の誰もがそう呼びました」
穏やかな声だった。昔話を子どもに聞かせるような声。
「八つの夏に山向こうの兵が来ました。当時はまだ、オルドは王国ではなかった。国境の小競り合いが何年も続いていた。兵たちは私たちの言葉がわからず、私たちは兵たちの言葉がわからなかった。わからないものは恐ろしい。恐ろしいものは、焼くしかない」
枢機卿さまはランタンの炎を見つめた。
「村は焼かれました。両親も。私は井戸の底に隠れて一晩、上で燃える音を聞いていた。翌朝、教会の修道士が私を引き上げた。修道士は私に名前を聞きました。私は答えられなかった。声が出なかった。修道士は首から下げていた天秤の飾りを見て、それならアウレリオと呼ぼうと言った。金の子という意味です」
トマが行李の陰で小さく息を呑んだ。
「その日から、私はアウレリオになりました。焼かれた村の子ではなくなった。言葉の違う、恐ろしい東の子ではなくなった。女神の子になった。教会で読み書きと王国の言葉を覚えた。司祭になり、司教になった。誰も私を、焼け跡の子とは呼ばなかった」
枢機卿さまは顔を上げた。
「名を捨てて、私は救われたのです」
ハルヴァンさんが何か言いかけた。枢機卿さまは手を上げてそれを止めた。
「二十年前、オルドが王国に入った。私は司教として改名令を起こしました。オルドの民に私と同じ救いを与えるために。名を一つにすれば、言葉が一つになる。言葉が一つになれば、恐れが消える。恐れが消えれば、誰も村を焼かない」
「でも」
声が出た。自分でも驚いた。
「でも、名前が合わなくて施しが届かなくなりました。二十年」
「知っています」
枢機卿さまはあっさりと言った。
「改名令の翌月から、オルドの施療院の明細が返され始めた。私の机に報告が来ました。名簿の主として」
「知っていて、どうして」
「どうして黙っていたのか、ですか」
枢機卿さまは少し首をかしげた。
「名の不一致を認めれば、改名令が誤りだったと認めることになる。オルドの民は古い名に戻る。王国の民とは別の者のままになる。別の者のままなら、いつかまた誰かが恐れる。誰かが焼く」
枢機卿さまの声は最後まで静かだった。
「施しが少し細るのと、村が焼けるのと。私は前者を選びました」
少し、ではなかった。
二十年で、何人が灰咳で死んだのか。セグの霊安所の石の台に、何人が並んだのか。
私はそれを言わなかった。
◇
「本題に入りましょう」
枢機卿さまは膝の上で手を組み直した。
「あなたはあの刻文を読んだ。二十年の定めを。あと十五日で、オルドの最初の返戻は査定に変わる」
「はい」
「王国の天秤院の帳簿は王国全体で一つです。オルドの二十年分の返戻が積み上がっていることで、王国全体の量りが重くなっている。女神さまは返戻の多い国には加護を絞られる。王都の灰咳が止まらぬのは、そのせいでもあるのです」
それは知らなかった。
前の世界でも返戻や査定の多い医療機関は、審査が厳しくなると噂されていた。噂でしかなかったけれど。
「そこで私は十日の締めの前に、オルドの古い明細を取り下げます」
「取り下げ」
「名簿の主として、返戻された明細をこちらから引き上げるのです。なかったことにする。そうすれば、王国の帳簿は軽くなる。翌月から王都の加護は戻るでしょう」
前の世界にも取り下げという手続きがあった。
医療機関が出した請求を自分から引っ込めること。間違いが見つかったときに使う。引っ込めた請求はもう量られない。お金は永久に入らない。
「オルドの二十年は、どうなるんですか」
「消えます」
枢機卿さまは言った。
「最初からなかったものとして」
「戻り人は」
「浄化します。聖火で。行き場のない魂を、いつまでもさまよわせておくのは慈悲ではない」
トマが行李の陰から飛び出した。
「姉ちゃんの抜け殻も、焼くの?」
枢機卿さまはトマを見た。その目に初めて何かが揺れた気がした。すぐに消えた。
「坊や。あなたのお姉さんは、そこにいるでしょう」
枢機卿さまは私を手で示した。
「あなたのお姉さんは、生き返ったのです。女神さまの奇跡で。だから私は、名簿のお姉さんの行から死亡の印を消して差し上げます」
トマが目を見開いた。
「ニーナ・セラフは、生きている。名簿にそう書けば、そうなります。そして銀の資格証をお渡ししましょう。ニーナ・セラフの名を刻んだ札を」
枢機卿さまは私のほうへ向き直った。
「あなたの弟さんには、王都の木彫りの親方のもとで徒弟の口を世話しましょう。オルドの村々には教会の倉から冬の麦を送らせます。辺境伯どのがずっと望んでおられたことです」
「代わりに」
私は聞いた。声がかすれた。
「代わりに、黙っていればいいんですね」
「あなたは賢い」
枢機卿さまは微笑んだ。
「それから、少し手伝っていただきたい。どの明細を取り下げれば、帳簿がいちばんきれいに軽くなるか。あなたの目ならすぐにわかるでしょう」
頭の中で勝手に数字が回り始めた。【算定】の光。【突合】の糸。取り下げるべき行。残すべき行。王都の加護が戻る最短の道筋。
私にはそれが見えた。見えてしまった。
そして、もう一つ見えた。
名簿にニーナ・セラフと書いても、女神さまの台帳の名は変わらない。私の窓は空欄のままだ。教会の名簿だけを書き換えた銀の札は、教会の中でしか通じない。
ただの、もう一つの不一致だった。
私はそれを言わなかった。
「……考えさせてください」
枢機卿さまは立ち上がった。ランタンを拾い上げ、赤い衣の裾を整えた。
「どうぞ。十日の締めまでまだ時間はあります」
枢機卿さまは階段の上り口で振り返った。
「あなたは黙ることの値打ちを知っている人だ。私には、それがわかります」
足音が螺旋階段の上へ遠ざかっていった。
トマが私の袖をつかんだ。
「姉ちゃん。名簿に戻れるんだって。死んだ印、消してくれるんだって」
トマの目がランタンの光で濡れて光っていた。
私は何も言えなかった。
トマの後ろで、青い紐の人影がじっと私のほうを向いていた。
◇
翌日、霜の月の二十六日。大聖堂の評議の間で会議が開かれた。
長い樫の机に、王宮の役人と大聖堂の司教たちと王立施療院の院長と辺境伯さまが並んでいた。枢機卿さまは机の端の高い椅子に座っていた。私は辺境伯さまの後ろの壁際の席にいた。隣にヤルナさんがいた。
議題は王都の灰咳だった。
立ち上がったのは時任先生だった。
法衣の袖をまくり、手に一枚の紙を持っていた。数字が並んでいた。私の席からも見えた。
「灰堀区で、この十日に死んだのが八十三人。王立施療院に運ばれて死んだのが四十一人。今のまま光が細り続ければ、来月はこの倍になる」
低くよく通る声だった。手術の間で修道士に指示を出すときと同じ声だった。
「加護は限られている。全員は救えない。なら、救える者から救う。加護の流れを王都の施療院に集めるべきだ。辺境の施療院への配分はしばらく止める」
辺境伯さまが机を叩いた。
「俺の領民を見捨てろと言うのか」
「見捨てるんじゃない。順番をつけるだけだ」
時任先生は表情一つ変えなかった。
「戦場でも事故の現場でも同じだ。助かる見込みの高い者から手をつける。見込みの低い者に手を取られて、助かるはずの者まで死なせるのが一番の罪だ。俺の世界では、それをトリアージと呼んだ」
トリアージ。
セグの施療院の門の前で私がしたこと。唇が紫の男を列の前に出したこと。
同じ言葉が今は逆の意味で使われていた。
「辺境の明細は、二十年返され続けている。もう手の施しようがない。そこに加護を割くのは、出血の止まらない患者に輸血を続けるようなものだ」
「聖医どのの仰るとおりです」
枢機卿さまが静かに言った。
「教会としても辺境の古い明細は取り下げる方向で考えております。王国の帳簿を軽くし、王都の加護を取り戻す。それが今いちばん多くの命を救う道でしょう」
役人たちがうなずき合った。
違う、と言わなければならなかった。
辺境の明細は手の施しようがないのではない。名前が合っていないだけだ。直せば通る。セグでは通った。古い名前は昨夜、書庫で八百組を書き写した。あとは本人の声さえ。
時効まで、十四日。
「言いなよ」
隣でヤルナさんがささやいた。肘で私の脇腹をつついた。
「あんたが一番わかってるんでしょ。言いなよ」
私は膝の上で両手を握りしめていた。
樫の机の向こうに時任先生がいた。枢機卿さまがいた。王宮の役人たちがいた。金の衣。赤い衣。白い法衣。
机の向こうの人たち。
声が出なかった。
会議は取り下げの検討を枢機卿さまに一任すると決めて終わった。
辺境伯さまが椅子を蹴るように立ち上がった。出口へ向かう途中で一度だけ私を振り返った。何か言いたそうな顔をした。結局、何も言わずに出ていった。
時任先生は数字の紙を折りたたみ、法衣の懐にしまった。こちらは一度も見なかった。枢機卿さまだけが高い椅子に座ったまま、穏やかな目で私を見ていた。考える時間はまだありますよ。その目はそう言っていた。
◇
評議の間を出た回廊は、冬の光で白く冷えていた。その回廊で、ヤルナさんが私の前に立ちはだかった。
「トマから聞いた」
低い声だった。
「ゆうべ、書庫で枢機卿に何言われたか。資格証のこと。黙ってろって言われたこと」
「……」
「黙るの?」
ヤルナさんの目がまっすぐ私を射抜いた。
「あんた、いつもそう。ヤン爺とヤーンのときも。番号を間違えたときも。司祭の前でも。今も。大事なときほど、黙る」
「ヤルナさん」
「あんたの名前ひとつ、言えない人に」
ヤルナさんの声が震えた。
「オルドの名前を、任せられない」
ヤルナさんは踵を返した。前掛けの裾が翻った。回廊の石の床を足早に遠ざかっていく。
私はその背中を追えなかった。
ヤルナさんは振り返らなかった。




