第十八章 縦覧点検
時任先生の施しの行を、私は三十日分並べてみた。
霜の月の二十七日。王立施療院の書記室の隅の机だった。ヤルナさんは昨夜から熱の部屋に泊まり込んでいた。私の顔を見ようとしなかった。トマは行李のそばで黙って木を彫っていた。
一人の人の請求を、何か月分も縦に並べて見る。前の病院ではそれを縦覧点検と呼んだ。
ひと月だけ見ていると気づかないことがある。同じ人に同じ検査が毎月続いていないか。同じ薬が決められた日数を超えて出されていないか。縦に並べて初めて、線になって見える。
時任先生の行はどの日もよく似ていた。
朝から昼過ぎまでに骨の継ぎ・傷の塞ぎ・腹を開く施しが五件から八件。どの行も摘要は空で、黒い線の札がついていた。夕方の鐘のあとには一行もない。
毎日、夕方の鐘で途切れていた。
手術の間の修道士に聞くと、聖医さまは夕方になるとお帰りになるという返事だった。大聖堂の客間にお泊まりで夜はお休みになっているはずです、と。
私は薬師ギルドのオーデさんの帳簿の写しを開いた。
この前、書き写させてもらった灰堀区の客の行だ。施療院の処方箋がついた行を一つずつ指でたどった。
ある行で、指が止まった。
霜の月十九日。客の名、ペトラ。処方箋の印、聖医。印を押した刻限、夜。
その下の行も。その下も。
霜の月二十日。客の名、オットー。処方箋の印、聖医。夜。
霜の月二十一日。客の名、ミア。聖医。夜。
三十日分を並べると、毎晩のように聖医の印の処方箋が出ていた。夜の鐘のあとに。どの客も灰堀区の住まいだった。
施療院の控えを開いた。同じ日の同じ名前の行を探した。
ない。
【突合】の光が灯らなかった。薬師の行だけが片方の糸を宙に垂らしたまま、ぽつんと光っていた。
施療院の明細に載っていない、夜の施し。
聖医が夜に灰堀区で施しをしている。処方箋だけを書いて。
◇
その夜、私はトマと一緒に灰堀区へ下りた。
大聖堂の丘を下りて川沿いの通りに出ると、匂いが変わった。王都の大通りの、蜜蝋の甘い匂いが消えた。湿った泥と煮えた豆と、獣脂の煤の匂いがした。下水のスライムの格子はここにはなかった。溝の水が黒く淀んでいた。
咳が聞こえた。どの戸口からも。
トマが私の手を握った。後ろから青い紐の人影が音もなくついてきた。
路地の奥に、一軒だけ灯りの漏れる小屋があった。
板壁の隙間から黄色い光が筋になって外に落ちていた。戸口に人がしゃがんで並んでいた。子どもを抱いた女。腕を布で吊った男。咳き込む老人。十人ほどが順番を待つように黙って座っていた。
小屋の中から低い声がした。
「押さえてろ。動くと深く切れる」
聞き覚えのある声だった。
私は板壁の隙間に目を寄せた。
狭い小屋だった。床に藁が敷かれていた。真ん中に古い戸板が一枚、二つの木箱の上に渡してあった。戸板の上に男の子が寝かされていた。首の脇が赤く腫れ上がっていた。
戸板の横に、時任先生がいた。
法衣は着ていなかった。汐見総合病院の白衣だけだった。袖をまくっていた。片手に小さな刃物を、もう片方に布を持っていた。戸板の向こうで腰の曲がった老婆が男の子の肩を押さえていた。
ランタンは一つしかなかった。獣脂の煤の出るランタンだった。
時任先生が刃物を入れた。男の子が叫んだ。膿があふれた。時任先生は手早くそれを拭って傷口に何か粉をはたき、それから両手をかざした。
光った。
昼に手術の間で見た光より、さらに細かった。糸のようだった。ちらちらと瞬いて、今にも消えそうだった。
光が消えた。
時任先生の体がぐらりと揺れた。戸板の端をつかんでどうにか踏みとどまった。額に汗が浮いていた。肩で息をしていた。
「先生、休みな」
老婆が言った。
「休んだら、外の連中が朝まで待つことになる」
時任先生は白衣の胸ポケットから紙片を出した。処方箋だった。ペンで何か書きつけ、聖医の印を押して老婆に渡した。
「明日の朝、薬師に持っていけ。四日以内だ。金は」
白衣の別のポケットから銅貨を何枚かつかみ出して、紙片の上に載せた。
「これで足りる」
「先生、また自分の金を」
「教会から勝手に寄越してくる金だ。使い道がない」
時任先生は戸口のほうへ向き直った。
「次」
私は板壁から離れた。
戸口に並んでいた女の一人が、私とトマに気づいて顔を上げた。痩せた赤ん坊を胸に抱いていた。
「あんたらも、先生に診てもらいに来たのかい」
「……いえ。あの先生は、いつからここに」
「先月の終わりからさ。毎晩だよ。昼は大聖堂の偉い施療院で、夜はここ。名前も聞かずに診てくれる」
女は赤ん坊の背中をさすった。
「一度、名前を言おうとしたら止められたよ。言わなくていい、俺は名前なんか書かないって。教会に知られたくないんだろうって。なんでわかったんだろうね」
女は小さく笑った。歯が何本か欠けていた。
「あたしらみたいなのに、そんなこと言ってくれる偉い人は初めてさ」
足が震えていた。トマが私の顔を見上げていた。
「姉ちゃん。あの人、昼間の怖い医者だよね」
「……うん」
「なんで、こんなとこで」
私は答えられなかった。
前の世界の時任先生を、私は七年間見てきた。摘要を書かない人。付箋を丸める人。査定を事務のせいにする人。おい、事務としか呼ばない人。
夜の灰堀区で自分の金で薬代を払う人だとは、知らなかった。
知ろうとしたことも、なかった。
◇
施療院に戻ると、私は書記室の灯りをつけた。
オーデさんの帳簿の写しを広げた。今夜、板壁の隙間から見たことを思い出した。首の腫れの男の子。腕を吊った男。
夜の施しの行を一行ずつ起こしていった。
日付。薬師の帳簿にあった、本人が名乗った名前。灰堀区の住まい。処方箋の薬の種類から施しの種類を推した。首の腫れなら膿を出す施し。咳の薬なら胸の咳の施し。
摘要の欄に下書きを書いた。
霜の月二十七日夜。男児、頸部に膿瘍。切開し排膿。光にて塞ぐ。
前の世界で医師事務作業補助者と呼ばれた人たちの仕事に、少し似ていた。医師の横に座って診察の言葉をそのまま記録に起こす。医師が署名するだけで済むところまで書類を仕上げる。けれど最後の署名と判断は、必ず医師のものだ。
三十日分の夜の施しを全部起こした。百四十二行あった。
夜が明けるころ、私はその束を手術の間の時任先生の机に置いた。
一番上に小さな紙片を一枚載せた。
夜の施しの明細の下書きです。ご確認ください。よろしければ、ご署名を。受付。
黄色い付箋はこの世界にはなかった。
置いて部屋を出るとき、一度だけ振り返った。蜜蝋の燭台の下で紙の束は小さく白く見えた。前の病院で先生の書類箱に入れた付箋と同じくらい、頼りなく見えた。
◇
霜の月の二十八日。朝の書記室の扉が乱暴に開いた。
時任先生だった。片手に私の置いた束を握っていた。紙が拳の中でくしゃくしゃに折れ曲がっていた。
十二人の修道士が一斉にペンを止めた。
「これを書いたのは、お前か」
時任先生は私の机の前に立った。束を机に叩きつけた。紙片が何枚か床に滑り落ちた。
「……はい」
「誰に聞いた。夜のことを」
「薬師ギルドの帳簿に、聖医さまの夜の処方箋が」
「見張ってたのか」
時任先生の声が低く尖った。
「俺の後をつけて、小屋をのぞいたのか」
私は答えられなかった。それが答えになった。
「勝手に書くな」
書記室じゅうに響く声だった。
「事務のくせに」
ロタール修道士が椅子から腰を浮かしかけた。ハルヴァンさんが机の向こうで身を固くした。
「あそこの連中はな、名簿にまともに載ってない者が多いんだ。山向こうから流れてきて、教会の名前と自分の名前が合わない。施療院に来れば名を聞かれる。名を聞かれれば教会に知られる。教会に知られれば灰堀区から追い出される。だから昼間は来ない。来られない」
時任先生は床に落ちた紙片を一枚拾い上げた。
「それを、お前は紙に書いて名前つきで教会に出すつもりだったのか」
手の中で紙片が握りつぶされた。
「紙に書いたら、あいつらが消えるんだよ」
時任先生はそれを床に投げ捨てた。束の残りを机の上から腕で払い落とした。何十枚もの下書きが羊皮紙の音を立てて床に散らばった。
時任先生は背を向けた。扉の前で一度だけ足を止めた。
「二度と、俺の施しに手を出すな」
扉が閉まった。
書記室はしんと静まり返っていた。
私は床に散らばった紙を見下ろしていた。
紙に書いたら、消える。
私はずっとその逆を信じてきた。書かなければ、消える。名前を間違えられるのは、いないことにされるのと同じだ。だから正しく書く。正しく書けば、その人はここにいる。
時任先生は書かないことで、灰堀区の人たちを守っていた。
私は書くことで守ろうとしていた。
同じ人たちを。
しゃがんで紙を一枚ずつ拾った。手が震えてうまくつかめなかった。トマが黙って隣に来て一緒に拾ってくれた。修道士の一人がためらいがちに椅子を立ち、残りを拾い集めてくれた。
ヤルナさんはいなかった。熱の部屋からまだ戻っていなかった。
◇
その日の午後から、灰咳が急に広がった。
灰堀区から担架が次々に運び込まれた。王立施療院の廊下が端から端まで埋まった。修道女たちが走り回り、癒し手たちが細い光で施しを続けた。光はどの癒し手のものも細かった。ヤルナさんの光だけがまだ金色に近かった。ヤルナさんは一日じゅう、熱の部屋から出てこなかった。
時任先生は手術の間に籠もりきりだった。夕方の鐘が鳴っても、出てこなかった。
夜、霊安室の前に布をかけた担架が並んだ。セグの霊安所の石の台を思い出した。
七つ。八つ。
私は受付の書見台の前に立ち、運び込まれる人の名前を書き続けた。名乗れる人には名乗ってもらった。名乗れない人の名前は家族に聞いた。
夜半に一度だけ、ヤルナさんとすれ違った。
熱の部屋から出てきたところだった。前掛けは血と痰で汚れ、目の下が黒かった。ヤルナさんは私を見て足を止めた。
何も言わなかった。私も何も言えなかった。
ヤルナさんは廊下の水桶から柄杓で水を汲み、一口飲んだ。それから柄杓を私のほうへ差し出した。
黙ったまま。
私が受け取ると、ヤルナさんはまた熱の部屋に戻っていった。柄杓の水は冷たく、少し鉄の味がした。セグの施療院の廊下でヤンさんとヤーンさんのあとに飲んだ水と、同じ味だった。
時効まで、十二日。
霜の月の二十九日の朝、ロタール修道士が書記室に駆け込んできた。
手に大聖堂の印の押された布告を持っていた。
「明後日です」
ロタール修道士は息を切らしていた。
「灰の月の一日、大聖堂にて資格証の授与式。辺境伯さまのお申し出によりオルドの受付に銀の資格証を授ける、と。それから」
ロタール修道士は布告の最後の行を読み上げた。
「同じ席にて、枢機卿さまが王国の帳簿に関わる重大な布告をなさる」
私は書見台の端を握りしめた。
枢機卿さまに、まだ返事をしていなかった。
トマが彫りかけの札を膝に置いたまま私を見ていた。銀の札、と唇だけが動いた。その目は半分は嬉しそうで、半分は怯えていた。




