第十九章 取り下げ
銀の札は天秤の皿の上に載っていた。
灰の月の一日。大聖堂の身廊は人で埋まっていた。王宮の役人。司教たち。絹と毛皮の貴族たち。グリューネ伯爵夫人が最前列で扇を揺らしていた。辺境伯さまは祭壇のすぐ下に腕を組んで立ち、その隣に代官さまがいた。ロタール修道士とハルヴァンさんと、トマ。
時任先生も来ていた。聖医として呼ばれたのだろう。法衣を着て柱にもたれて、退屈そうに天井を見ていた。
ヤルナさんの姿は見えなかった。
何百本もの蜜蝋が灯されていた。甘い匂いが高い天井まで満ちていた。
私は大受領台の前に立たされていた。
台の左の皿に手のひらほどの銀の札が一枚。まだ何も刻まれていなかった。表面が蝋燭の光を映して、白く光っていた。
枢機卿さまが祭壇の高みに立っていた。
「これより、オルドの受付に資格証を授ける」
声が身廊に響いた。
「辺境の施療院の赤い札を消し、王立施療院の重なった施しを正した娘である。その働きに女神さまの子としての名をもって報いる」
拍手が起きた。伯爵夫人が扇を閉じて手を叩いていた。トマが最前列で、背伸びをして私を見ていた。
枢機卿さまが祭壇の階段を一段下りてきた。私の前で身をかがめ、目の高さを合わせた。初めて会った日と同じ仕草だった。
ほかの誰にも聞こえない声で、枢機卿さまは言った。
「まだ間に合いますよ」
穏やかな声だった。
「ニーナ・セラフと名乗りなさい。それだけでいい。そうすれば水晶には、私が名簿に書き戻した名が映ります。あなたは弟の姉として銀の札を受け取る。辺境には麦が届く」
私は枢機卿さまの目を見た。
何も言わなかった。
枢機卿さまはしばらく待った。それからほんの少しだけ目を伏せた。残念そうに。あるいはほっとしたように。
枢機卿さまは身を起こし、祭壇の高みへ戻った。
「名を刻む前に、教会の定めにより鑑定水晶にて資格を確かめる」
修道士が布に包んだ水晶を運んできた。ハルトの神殿で見たものより、ずっと大きかった。台の上で布がほどかれた。
「手を」
私は水晶に手を当てた。
冷たかった。
光がにじんだ。白い渦が文字の形に固まっていく。最初に【受付】の二文字。それから資格の枠。
枠の中は空だった。
名簿の名も台帳の名も、資格の欄も。
身廊がざわめいた。
「ご覧のとおりです」
枢機卿さまの声は静かだった。
「この娘の魂は王国のどこの名簿にも載っていない。女神さまの台帳にもない。空札です」
ざわめきが大きくなった。
「この娘はセグ村のニーナ・セラフを名乗ってきた。しかし名簿のニーナ・セラフは、実の月の十一日に死んでいる。死亡の印もある。この娘は死んだ娘の体を借りた、どこの誰とも知れぬ魂です」
枢機卿さまは哀れむように首を振った。
「死者の名を騙る者に、聖なる名を刻むことはできません」
身廊の空気が一瞬で冷えた。
伯爵夫人の扇が止まっていた。役人たちが顔を見合わせた。辺境伯さまが一歩前に出かけて、聖騎士に肩を押さえられた。
「姉ちゃん」
トマの声がした。
最前列で、トマが私を見上げていた。顔が真っ白だった。
「姉ちゃんじゃ、ないの?」
身廊じゅうの目がトマと私に集まった。
言わなければ。
違う、と言うのか。ごめんなさい、と言うのか。私はニナさんではない、と言うのか。あなたのお姉さんはあなたの後ろにいる、と。
唇が動かなかった。
トマの目から、涙がこぼれた。
「嘘つき」
トマは身を翻した。人の間をすり抜けて、身廊の大扉のほうへ走っていく。青い紐の人影がその後ろを追っていった。
「トマ」
声が出たのは、トマの背中が見えなくなってからだった。
伯爵夫人が扇を胸に当てたまま私を見ていた。
「ニナ……あなた、ニナではなかったの」
責める声ではなかった。ただ驚いていた。私は伯爵夫人にも何も答えられなかった。答えるべき名前を、私はこの身廊のどこにも持っていなかった。
◇
「続いて、王国の帳簿に関わる布告を申し渡す」
枢機卿さまは何事もなかったように続けた。
「王都の灰咳を鎮めるため、王国の帳簿を清める。オルドの施療院より女神さまに返されたる明細は、来る灰の月十日の締めにてすべて教会より取り下ぐ」
辺境伯さまが叫んだ。聖騎士が二人がかりで押さえた。
「また名簿の主として、癒し手の摘要による名の補いに異議を申し立てる。教会の名簿に載らぬ名をもって量りを受けることは、これを許さぬ」
セグでやったことが、すべて止められる。
「さらに。王国じゅうの行き場なき戻り人を、聖騎士は大聖堂前の広場へ導け。灰の月十日正午、聖火にて浄化す」
身廊の後ろのほうで、誰かが悲鳴を上げた。
「最後に。この空札の娘が辺境より持ち込んだ帳面は、教会の名簿を汚す異端の書である。王立施療院の書記室にあるものはすべて焼き払う」
受付簿。返戻台帳。改名録から書き写した八百組。死者の束。
枢機卿さまが私を見下ろした。
「死者を騙った罪により、この娘を捕らえよ」
聖騎士の手が私の両腕をつかんだ。
◇
大聖堂の裏手の坂を、私は聖騎士に引かれて下りた。
牢は丘のふもとにある、と聖騎士の一人が言った。王立施療院の裏を通る道だった。
坂の途中で、焦げた匂いがした。
王立施療院の西の棟から、煙が上がっていた。黒い煙だった。書記室のある棟だった。
「火を」
聖騎士の一人がつぶやいた。
「もう、つけたのか」
施療院の裏庭に、人が集まっていた。修道士たちが桶を持って走っていた。ロタール修道士が両手で頭を抱えていた。
その人垣を、誰かが押しのけた。
ハルヴァンさんだった。
曲がった背中で杖も持たずに、煙の上がる戸口へ向かっていた。大聖堂から私たちより先に駆け下りてきたのだ。
「爺さん、だめだ」
修道士が腕をつかんだ。ハルヴァンさんはそれを振り払った。老人とは思えない力だった。
「受付簿が。あの子の書いた名前が」
ハルヴァンさんは煙の中へ消えた。
足が勝手に動いた。聖騎士の手が腕に食い込んだ。振りほどけなかった。
「ハルヴァンさん」
喉が裂けそうだった。
「ハルヴァンさん、戻って。紙なんか置いて、逃げて!」
自分の声が坂に響いた。
その言葉がどこから来たのか、言ってから気づいた。喉の奥に焦げたゴムの味がよみがえった。
汐見総合病院の非常灯の緑。煙の医事課。四つん這いで机の間を進んだ夜。誰かがあのとき私に言ったのだ。煙の廊下を駆け抜けながら。懐中電灯の光で私の顔を照らして。紙なんか置いて逃げろ、と。
あれは時任先生の声だった。私はあのときも聞かなかった。
背後で、足音がした。
法衣の裾が私の横を駆け抜けた。時任先生だった。大聖堂から追ってきたのだ。修道士の手から桶をひったくった。頭から水をかぶり、煙の戸口へ飛び込んでいった。
長い、長い時間に思えた。
実際にはほんのわずかだったのかもしれない。
煙の中から、二つの影がもつれて転がり出てきた。時任先生がハルヴァンさんを引きずっていた。ハルヴァンさんの白い髭が煤で黒かった。
時任先生はハルヴァンさんを裏庭の石畳に寝かせた。
胸に耳を当てた。顔を上げた。両手を重ねて、ハルヴァンさんの胸の真ん中に当てた。
押した。ためらいなく。
強く、速く、何度も。肘を伸ばし体重をかけて。修道士たちが息を呑んだ。この世界の誰も見たことのない手当てだった。
「一。二。三。四……」
時任先生は数えていた。前の世界の言葉で。三十まで数えてハルヴァンさんの顎を上げ、口に息を吹き込んだ。また胸を押した。
「聖騎士さん。お願いします」
私は腕をつかむ聖騎士を見上げた。
「あの人のそばに。少しだけ」
聖騎士は迷うように仲間と目を見交わした。それから黙って手をゆるめた。
私は石畳に膝をついた。
ハルヴァンさんの顔は、煤で黒かった。眼鏡がなかった。煙の中で落としたのだろう。墨で黒い三本の指が、何かを握っていた。
時任先生は胸を押し続けていた。額から汗が落ちた。
ハルヴァンさんの瞼が、かすかに動いた。
「ハルヴァンさん」
目が薄く開いた。焦点の合わない目が、私の顔を探した。
「……お前さんか」
かすれた声だった。煙を吸った喉の、ひび割れた声。
「受付簿は、もう、燃えとった。何も、持って出られなんだ」
「いいんです。そんなの、いいんです」
「わしは、な」
ハルヴァンさんの指が、私の手を探した。私はその手を握った。墨の指は熱かった。
「わしは二十年、黙った」
息が浅くなっていく。
「黙って、箱にしもうた。それで、何が守れた。何も」
「ハルヴァンさん」
「お前さんは」
握った手に、最後の力がこもった。
「……聞け」
それきりだった。
手から、力が抜けた。
時任先生が胸を押していた手を止めた。ハルヴァンさんの首筋に二本の指を当てた。長いあいだ、そのままでいた。
それから手を離した。
「……死亡確認」
前の世界の言葉だった。時任先生は自分の白衣の袖口を見た。腕時計はなかった。この世界にはなかった。
「時刻は……」
言いかけて、やめた。
ハルヴァンさんの指がほどけて、握っていたものが石畳に転がった。
蜜蝋だった。
通夜のためにハルトで買ったという三本のうちの、最後の一本。半分だけ使ったあとの短い蜜蝋。ハルヴァンさんは煙の中で受付簿の代わりに、これを握って出てきたのだ。
私はそれを拾った。手のひらの中で、まだ温かかった。
ロタール修道士がハルヴァンさんの傍らに膝をついた。煤だらけの手で、ハルヴァンさんの瞼をそっと閉じた。
「先生」
ロタール修道士は小さくそう呼んだ。王立施療院の書記長が、辺境の老書記をそう呼んでいた。ほんの十日前から。
◇
時任先生が立ち上がった。
膝が煤と血で汚れていた。私を見下ろしていた。
今まで一度もそんなふうに見られたことはなかった。通り過ぎる目でも鼻で笑う目でもなかった。何かを確かめようとする目だった。
「今の」
かすれた声だった。
「今、何と言った」
「……」
「坂の上で。紙なんか置いて、逃げろと」
私は答えなかった。
聖騎士の手がまた私の腕をつかんだ。立たされた。
「待て」
時任先生が言った。聖騎士は首を振った。
「枢機卿さまのご命令です、聖医さま」
私は引かれていった。振り返ると、時任先生はハルヴァンさんの亡骸の横に立ったまま動かずにこちらを見ていた。
王立施療院の西の棟が、まだ燃えていた。屋根が崩れる音がした。火の粉が空に舞い上がった。
私の書いた名前が燃えていた。
グスタ。ベッカ。ミラ。ウルラ。ヨル。ハルヴァン。
何千という名前が灰になって空へ昇っていった。
牢は丘のふもとの石の建物の地下にあった。湿った階段を下り、鉄の格子の扉の前で背中を押された。
扉が閉まった。
鍵の回る音がした。重い、錆びた音だった。
高いところに小さな窓が一つあった。そこから灰が舞い込んできた。白く、軽く、雪のように。
私の足元に、音もなく積もっていった。
私は手のひらを開いた。短い蜜蝋が一本、そこにあった。ハルヴァンさんの指の温もりは、もう消えていた。
トマはどこへ行ったのだろう。
青い紐の人影はちゃんとあの子についていっただろうか。




