第二十章 返戻事由
牢の床はセグの霊安所の石の台と同じくらい冷たかった。
私は壁にもたれて座っていた。膝を抱えて。灰の月の一日の夜だった。高い窓から入る灰は、もう止んでいた。代わりに冬の星が一つだけ見えた。
格子の向こうの廊下に、松明が一本燃えていた。番兵の足音がときどき遠くを行き来した。
手のひらに、短い蜜蝋があった。
火をつけるものはなかった。私はそれを指で転がした。蝋の表面に、ハルヴァンさんの指の跡が残っていた。墨の黒い跡だった。
数えることにした。
前の病院で査定の通知が来たときにしたように。何がいくつ失われたのかを、一つずつ。
ハルヴァンさんが死んだ。
受付簿が燃えた。三冊。三か月分の名前。
返戻台帳が燃えた。書庫で書き写した八百組も。
死者の束が燃えた。五百行。ニナさんの行も。
トマが行ってしまった。嘘つき、と言って。
ヤルナさんとはもう口をきいていない。
辺境伯さまは聖騎士に押さえられていた。
教会は名簿の主として異議を申し立てる。摘要による名の補いは、もう通らない。
十日の締めで、オルドの二十年が取り下げられる。
十日の正午に、戻り人が焼かれる。
時効まで、九日。
数え終えて、私は額を膝に押しつけた。
どの行も黒い線の札だった。
格子の向こうで、足音が止まった。
若い番兵だった。十七か十八くらい。鎖帷子が体に合わず、肩のところでずり落ちていた。手に木の椀と黒パンを一切れ持っていた。
「夕飯だ」
番兵は格子の下の隙間から椀を差し入れた。薄い豆の汁だった。冷めていた。
「……ありがとうございます」
番兵はすぐには立ち去らなかった。松明の明かりの中で、私の顔をじろじろと見ていた。
「空札って、本当にいるんだな」
「はい」
「死んだ娘の体を乗っ取ったって、ほんとか」
私は答えなかった。番兵は気まずそうに鼻をこすった。
「外は大騒ぎだよ。聖騎士が街じゅうの戻り人を集めてる。縄で囲って広場のほうへ追い立ててる。灰堀区なんか、どの路地にも一人はいたからな」
番兵は少し黙った。
「うちの婆ちゃんも、その中にいる」
私は顔を上げた。
「あんた、名前を直してくれるって本当か。辺境で戻り人を還したって。施療院の連中が噂してた」
「……まだ、わかりません」
「そうか」
番兵はうなずいた。それから思い出したように付け加えた。
「おれはペーター。……いや、ペトだ。婆ちゃんは、そう呼んでた」
番兵の頭の上に窓が浮かんだ。名簿の名はペーター・グラン。台帳の名はペト。不一致。
番兵は肩の毛布を外して、格子の隙間から押し込んだ。
「夜は冷える。返さなくていい」
足音が遠ざかっていった。
私は毛布を膝にかけた。羊の匂いがした。セグの施療院の、最初の夜の毛布と同じ匂いだった。
◇
どうして、こうなったのか。
前の病院では査定が来ると必ず理由を探した。事由を読んだ。カルテを読み、どこで何が漏れたのかを突き止めた。そうしなければ来月も同じ査定が来るからだ。
自分の行の事由を、探してみることにした。
最初の一行は名札だった。
七年間、裏を向いていた白い名札。直す暇があれば一件でも多くレセプトを見る。そう思っていた。本当は直す気がなかった。裏方に名前はいらないと思っていた。名前を見られるのが、怖かった。
次の行はひなたさんだった。
わかんないなら聞けばいいじゃないですか。そう言った後輩に、私は「自分で調べて」と言い続けた。聞くのは恥ずかしいことだと、私が思っていたからだ。
次は黄色い付箋。
時任先生の机に七年間貼り続けた。直接は言わなかった。言えなかった。付箋なら、無視されても私が傷つかずに済んだ。
次はヤマザキ様とヤマサキ様。
濁点を一つ間違えて、私は誰かをこの世から消しかけた。それ以来、間違えないことにした。間違えたら黙って直すことにした。黙っていれば、間違いはなかったことになる。
次はニナさんの名前。
トマの前で私は一度もそれを言えなかった。そうかもね、と言った。あの灰色の人影を、病気の抜け殻だと言うトマに。
次はカイ。
枢機卿さまの窓を見て、私は誰にも言わなかった。
次は書庫の取引。考えさせてください。
次は評議の間。机の向こうの人たちの前で、私の声は出なかった。
次は今日の身廊。まだ間に合いますよ、と言われて。トマに姉ちゃんじゃないのと聞かれて。
並べてみると、一本の線になっていた。
縦覧点検と同じだった。一つずつ見ていると気づかない。縦に並べて初めて、同じ事由が毎月続いているのが見える。
私はいつも黙っていた。
間違えないために。誰も傷つけないために。そう思っていた。
けれど黙っていたせいで、ニナさんは三か月さまよい続けた。トマは姉の魂を抜け殻と呼び続けた。灰堀区の人たちの名前は明細に載らなかった。ハルヴァンさんは二十年、箱の前で酒を飲んだ。
わしは二十年、黙った。それで、何が守れた。
何も守れなかった。
◇
窓から、何かが落ちてきた。
灰ではなかった。灰より重く、ひらひらと揺れながら私の膝の上に落ちた。
手のひらほどの、細長い紙片だった。
赤かった。
私はそれを拾い上げた。羊皮紙のように硬く、ほんのり温かかった。セグの祈りの部屋で最初の夜に拾ったのと同じ温かさだった。
表に、二文字。
返戻。
裏を返した。
受領台に落ちてくる札とは書いてあることが違っていた。施療院の名も月も、番号もなかった。
一行目に氏名、とあった。その横は空欄だった。
二行目に返戻事由、とあった。
本人申告未了。
私はその四文字を長いあいだ見つめていた。
本人の申告がまだ終わっていない。
本人がまだ名乗っていない。
松明の火が格子の影を床に長く落としていた。
死ぬ間際に聞いた、あの乾いた声がよみがえった。本件、返戻とする。事由――。
あの声の続きがこれだったのだ。
駐車場のアスファルトの上で、私は名乗ろうとした。水無瀬です、と。声の代わりに、咳が出ただけだった。
セグの霊安所で目を覚ました夜、水盥の前で私は唇を開きかけた。トマに呼ばれて飲み込んだ。
ヤルナさんに名前を聞かれた。ニナです、と言った。
辺境伯さまに聞かれた。ニナです、と言った。
伯爵夫人に聞かれた。ニナです、と言った。
書状の差出人の欄を、空けたままにした。
私の窓が空欄なのは、私の名前がどこにも載っていないからではなかった。
私が一度も名乗らなかったからだ。
前の世界でも。この世界でも。
女神さまの台帳は名前を本人の声で受け付ける。ヨルさんが「ヨル」と言ったように。ウルラさんが「ウルラ」と言ったように。グスタさんが何十年ぶりかで自分の名前を口にしたように。
私は毎日みんなにそれを頼んでいた。お名前を、ご自分の声で。
自分では一度もしていなかった。
手の中の赤い札が少しだけ重くなったように感じられた。
◇
黙っていれば、間違えずに済む。
そう信じていた。
けれど黙っていたこと自体が、いちばん大きな間違いだった。
返戻は終わりではない。直して出し直せばいい。セグの書記室で、私はハルヴァンさんにそう言った。
自分の札にも同じことが言えるはずだった。
直し方は裏に書いてある。本人申告未了。
名乗ればいい。自分の声で。
それだけのことだった。それだけのことが二十九年と三か月、できなかった。
私は赤い札を、蜜蝋と一緒に手のひらで包んだ。
時任先生の声を思い出した。紙に書いたら、あいつらが消えるんだよ。
私は書かなければ消えると思っていた。先生は書いたら消えると思っていた。どちらも半分だけ正しかった。
裏庭の石畳で先生は私を見下ろしていた。今、何と言った。紙なんか置いて、逃げろと。
あの目は何かに気づきかけていた。
駐車場で酸素マスクの下にいた、名前のわからない事務。先生はあの夜、私の名札をひっくり返そうとした。名前を聞いてるんだ、と怒鳴った。誰も答えなかった。
あの問いにも私はまだ答えていない。
名前は紙の上にだけあるのではない。
受付簿は燃えた。返戻台帳も書き写した八百組も。けれど名前は燃えていない。グスタさんはグスタだ。ウルラさんはウルラだ。あの人たちの口の中に、名前はまだある。
それに。
私は顔を上げた。
札は二つで一つだ。セグの広場で、トマにそう言った。木の札は本人が持つ。控えは受付簿に残す。片方をなくしてももう片方が残る。
控えは燃えた。
でも片割れは燃えていない。
トマが彫った千を超える木の札。二つの名前と番号を刻んだ診察券。それはオルドの村々の何千という人の帯や懐や戸口の釘に、今も下がっている。ウルラさんはヨルさんの札をお守りにすると言った。
王立施療院の書庫には、一枚もなかった。
枢機卿さまはそれを焼けなかった。
胸の奥で、何かがゆっくりと熱くなった。悲しみではなかった。もっと硬いものだった。
わしは二十年、黙った。お前さんは聞け。
あんたが間違えたって、誰も死なないよ。言えば一緒に見るのに。
わかんないなら聞けばいいじゃないですか。
三つの声が牢の冷たい空気の中で、一つに重なった。
聞け。言え。見せろ。
王都の広場に、戻り人たちが集められている。縄で囲われて。ペトさんのお婆さんも。ひょっとしたら、ニナさんも。
十日の正午まで。
照会だ、と思った。
前の病院で私が一番しなかった仕事。記録の持ち主に、記録の矛盾を確かめる。机の向こうの人に。いちばん高いところの人に。
この世界で名前の記録のいちばん高いところにいるのは、教会ではない。
天秤院だ。
問いの形を頭の中で組み立てた。前の病院で、医師に疑義照会の文面を考えたときと同じ手つきで。
改名令により名簿の名と台帳の名が異なる者がいる。その者の資格を、本人が自らの声で申告する古い名をもって台帳と突き合わせてよいか。名簿の主の異議があるときも、なお。
短く、はっきりと。答えがはいかいいえで返ってくるように。
天秤院は誰も見たことがない、とハルヴァンさんは言っていた。天秤院は量るだけで、地上に姿を見せない。言葉は札でしか届かない。
なら、こちらからも札で問えばいい。
◇
夜が更けた。冬の星が窓の端から消えた。
私は立ち上がり、格子の前まで歩いた。
名乗ろうと思えば、今ここでできた。誰も聞いていない牢の中で、自分の名前を口にすれば。
唇を開いた。
閉じた。
違う、と思った。
最初に聞いてもらうのは、ここではない。
私がいちばん長く嘘をついてきた相手。私が名前を言わなかったせいで、いちばん傷ついた相手。
その子に、最初に聞いてもらわなければならない。
私は格子を握った。鉄が指の骨に冷たく食い込んだ。
格子の向こうの松明が、いつの間にか燃え尽きかけていた。煤の匂いが廊下に溜まっていた。私は毛布を肩に巻き直し、手のひらの蜜蝋と赤い札を胸の前で握りしめた。
東の空が窓の向こうでかすかに白んでいった。
夜明けの鐘が鳴った。大聖堂の鐘だった。低く、長く。石の床を通って足の裏まで響いた。
鐘の余韻が消えたとき、廊下の奥で足音がした。
大人の番兵の、重い長靴ではなかった。
小さな、軽い足音だった。藁の草履が石の床をぺたぺたと叩く音。セグの施療院の廊下で毎朝、私の寝床まで駆けてきた音と同じだった。




