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第二十一章 本人確認

 格子の向こうに、トマが立っていた。

 灰色の上着の裾が膝のところで泥に汚れていた。目が腫れていた。ひと晩じゅう泣いたあとの目だった。両手を体の横で握りしめて、私をにらんでいた。

 その後ろに青い紐の人影がいた。

 トマのすぐ背中に寄り添うように。いつもと同じ距離で。

 廊下の角の暗がりに、もう一人いた。前掛けをつけた細い影。ヤルナさんだった。壁にもたれて腕を組み、こちらを見ていた。何も言わなかった。

「ヤルナさんが、行けって」

 トマが言った。声がかすれていた。

「聞きたいことは、本人に聞けって。受付みたいに」

 私は格子の前に膝をついた。

 トマの顔と同じ高さになった。セグの施療院の受付の机で、背の低い子どもに話しかけるときと同じように。

「姉ちゃんは」

 トマの唇が震えた。

「姉ちゃんは、誰なの」

 牢の空気がしんと止まった。

 私は手のひらの中のものを握りしめた。短い蜜蝋と赤い札。

 言わなければ。

 いや、違う。

 言いたかった。

 ずっと言いたかった。


「トマ」

 息を吸った。冷たい空気が喉の奥まで入ってきた。

「私は、ニナさんじゃない」

 トマの目が大きく見開かれた。

「水無瀬詩織といいます」

 声は震えていた。けれど途切れなかった。

「あなたのお姉さんの体をお借りしています」

 言った。

 二十九年と三か月。

 初めて自分の声で。


 手のひらの中で何かが温かくなった。

 赤い札だった。

 私は手を開いた。札の裏の空欄だった氏名の行に、墨がにじみ出ていた。誰も書いていないのに、字が一画ずつ浮かび上がっていく。

 水無瀬詩織。

 その下の返戻事由の行が、すうっと薄れて消えた。

 代わりに新しい一行が現れた。

 本人申告受付――審査中。

 私はそれを、しばらく見つめていた。


 トマは札を見ていなかった。私の顔だけを見ていた。

 ヤルナさんが暗がりから一歩出て、私の手元をのぞき込んだ。

「……字が、出てきた」

 ヤルナさんは字を追うのが遅い。それでも空欄に浮かんだ四文字が名前だということは、わかったようだった。

「それ、あんたの?」

「はい」

 指先から腕へ、何かがゆっくりと流れ込んでくるような感じがした。ヤルナさんの手が初めて金色に光った朝の言葉を思い出した。湯に浸けたみたいに温かい。体の芯にあった冷たい石が、少しだけ溶けた気がした。


   ◇


 トマが格子に手をかけた。指の関節に、まめと切り傷がいくつもあった。

「ゆうべ、どこにいたの」

 聞くと、トマは目をそらした。

「大聖堂の裏の階段の下。暗くて、寒くて。姉ちゃ……あれも、ついてきた」

 トマは顎で後ろの人影を示した。

「ヤルナさんが見つけてくれた。熱の部屋に連れてってくれて、毛布をかぶせてくれた。朝までなんにも聞かなかった」

 暗がりのヤルナさんは、そっぽを向いていた。

「ミナセ……シオリ」

 トマがつぶやいた。知らない国の言葉を、舌の上で転がすように。

「どこの人」

「ずっと遠いところ。山の向こうよりも、海の向こうよりも遠いところ」

 私は話した。

 ゆっくりと。言葉を選びながら。トマにわかるように。

 前の世界のこと。病院という施療院のような場所で働いていたこと。受付と、明細を書く仕事をしていたこと。火事があったこと。煙の中で、紙を取りに戻ったこと。そのまま、息ができなくなったこと。

 目を覚ましたら、セグの霊安所の石の台の上にいたこと。

「トマが飛び込んできて、姉ちゃんって呼んだの」

 トマは黙って聞いていた。

「本当のことを言わなきゃいけなかった。最初の夜に。でも言えなかった。言ったら、トマが独りになると思った。お姉さんを二度失うことになると思った。だから、黙ってた」

 喉の奥が熱くなった。

「それはトマのためじゃなかった。私が怖かっただけ。本当のことを言って、トマに嫌われるのが」

 私は格子に額をつけた。鉄が冷たかった。

「ごめんなさい」

 トマの拳が格子を叩いた。

 鈍い音がした。もう一度。もう一度。小さな拳が鉄の棒を何度も叩いた。

「ずっと、嘘ついてた」

「うん」

「おれ、姉ちゃんが生き返ったと思って。うれしくて。札だって、いっぱい彫って」

「うん」

「ずっと、嘘ついてた」

 トマの拳が止まった。格子をつかんだまま、トマは額を鉄に押しつけた。格子を挟んで、私の額と指一本分の距離だった。

 トマの肩が震えていた。


 しばらくしてトマが顔を上げた。

「じゃあ」

 鼻をすすった。

「じゃあ、姉ちゃんはどこ」

 私はトマの後ろを見た。

 青い紐の人影がそこにいた。

「あなたの後ろに」

 トマがゆっくりと振り返った。

「最初の夜から、ずっと。トマのそばにいた」

 灰色の人影は動かなかった。輪郭がぼやけていた。顔のあるはずの場所は、霧のようにかすんでいた。

 けれど肩にかかる髪の先にひとすじの青があった。

 トマがそれを見た。

 息を呑む音がした。

「……紐」

 トマの声がひどく小さくなった。

「姉ちゃんの紐だ。母ちゃんが、市場で買ってきた。二本買って。一本は姉ちゃんの髪に、一本は」

 トマは自分の上着の襟元を引っぱった。首に、細い紐が一本巻いてあった。同じ青だった。

「おれのとおそろいなんだ。姉ちゃん、気に入ってた」

 トマが人影に手を伸ばした。

 指が灰色の霧の中を素通りした。何もつかめなかった。トマはそれでも手を引っ込めなかった。霧の中に手を差し入れたまま指を動かした。そこにあるはずの何かを撫でるように。

「姉ちゃん」

 人影の、顔のない顔がトマのほうへわずかに傾いた。

「抜け殻なんて言って、ごめん。病気の殻だなんて言って。ずっと、そこにいたのに。おれ、ずっと見ないようにしてた」

 トマは泣いていた。声を上げずに。

 私も泣いていた。

 牢の床に、二人ぶんの涙が落ちた。灰の上に小さな黒い点が増えていった。


   ◇


 どれくらいそうしていたのか、わからない。

 高い窓の外で、鳩が一羽鳴いた。朝の光が灰の積もった床に細く落ちていた。

 トマが袖で顔をごしごしと拭いた。それから私のほうに向き直った。

 目がまだ赤かった。けれど、もうにらんではいなかった。

「シオリ」

 初めてその名前で呼ばれた。

 この世界で、初めて。


「姉ちゃんの名前、ちゃんと出してやって」

 トマの声が少しだけ震えた。

「焼かれる前に。ヨル爺みたいにちゃんと還れるように」

「……うん」

「約束」

 トマが格子の隙間から、小指を突き出した。

 私はその小指に自分の小指を絡めた。子どもの指は冷えていて、木屑の匂いがした。

「約束する」

 暗がりから、足音がした。

 ヤルナさんが腕組みをほどいて歩いてきた。トマの頭に手を置いて、それから格子の前にしゃがんだ。

「やっと言えたね」

 ヤルナさんの声はぶっきらぼうだった。けれど目の縁が赤かった。

「……ヤルナさん。回廊で、言われたこと」

「あれは言いすぎた」

「いいえ」

 私は首を振った。

「言ってもらえて、よかったです。言ってもらわなかったら私、きっとまだ黙ってました」

 ヤルナさんは鼻を鳴らした。それから格子に顔を近づけた。

「もう一回、言って」

「え」

「名前。トマにだけ言って、あたしには言わないつもり?」

 私はヤルナさんの目を見た。

「水無瀬詩織です」

「ミナセ、シオリ」

 ヤルナさんは一音ずつ確かめるように繰り返した。

「長い。シオリでいい?」

「はい」

「なんで、もっと早く言わなかったの。ほんとに、なんで」

 ヤルナさんは笑った。泣きながら、笑っていた。初めて会った夜、私の脈をとって「なんで?」と言ったときと同じ顔だった。


   ◇


 階段の上が騒がしくなった。

 重い長靴の音。鎧の擦れる音。それからよく響く低い声。

「辺境伯ディートリヒ・グラウだ。開けろ」

 番兵が慌てて駆けてきた。ゆうべ毛布をくれたあの若い番兵だった。後ろに、熊のような大男が立っていた。辺境伯さまだった。その隣に代官さまが革の鞄を抱えて立っていた。

「辺境伯さま、ここは大聖堂の牢で」

「わかっている。代官」

 代官さまが鞄から羊皮紙を一枚取り出し、番兵の目の前に広げた。王家の印が押してあった。

「王国の法により辺境の民が罪に問われたときは、その身柄を領主が引き取る。そして領主の法廷にて裁く。国王陛下の御名による辺境伯の古い権利だ」

「ですが、この娘は空札でどこの民でも」

「民だ」

 辺境伯さまが遮った。

「ハルトの神殿で、セグの書記ハルヴァンがこの娘を預かると申し出た。司祭オズワルは、勝手にしろと言った。それ以来、この娘はセグの施療院で働いた。俺の施療院だ。俺の領民だ」

 辺境伯さまは私を見た。

「違うか」

 私は立ち上がった。毛布が肩から滑り落ちた。

「違いません」

 声が出た。

「セグ施療院の、受付です」

 番兵は代官さまの羊皮紙と辺境伯さまの顔と私の顔とを順に見た。それから腰の鍵束を外した。


「……ペトです。おれの名前」

 番兵は鍵を回しながら小さく言った。

「婆ちゃんの名前も直してくれるなら」

 鍵の回る音がした。ゆうべ聞いたのと同じ、重い錆びた音だった。

 扉が開いた。

 私は格子の外へ出た。トマが私の腰にしがみついた。ヤルナさんが私の肩をつかんだ。青い紐の人影がトマのすぐ後ろに立っていた。


 辺境伯さまが私を見下ろした。

「で、どうする。時効まで八日だ。教会は取り下げと浄化を布告した。お前の帳面は燃えた。俺の騎士は二十人しかいない。大聖堂の聖騎士は二百だ」

 私は手のひらの赤い札を見た。

 本人申告受付――審査中。

 審査をしているのは教会ではない。


「辺境伯さま」

 私は顔を上げた。

「天秤院に照会を出します」

「照会?」

 辺境伯さまが眉を寄せた。

「記録に疑問があるとき、その記録の持ち主に確かめることです。前に私がいたところでは疑義照会と呼んでいました」

「天秤院が記録の持ち主か」

「名前の記録のいちばん上の持ち主です。教会の名簿より上の」

「天秤院に問いを出した者など、聞いたことがないぞ」

「はい。だから誰も答えをもらったことがないんだと思います」

 辺境伯さまはしばらく私を見ていた。それから牢の天井に向かって、あの大きな笑い声を上げた。番兵のペトさんがびくりと肩をすくめた。

「書類の不備の次は、書類の問い合わせか。いいだろう。やってみろ」


 牢の階段を上がると、外は冬の朝の光だった。目が痛かった。

「ハルヴァンさんは」

 私はヤルナさんに聞いた。

「施療院の礼拝堂。ロタールさんが寝かせてくれてる。顔の煤も、きれいに拭いてくれた」

 ヤルナさんは前を向いたまま言った。

「お別れは、終わってからにしな。爺ちゃん、きっとそう言う」

「……はい」

 私は手のひらの蜜蝋を懐の奥にしまった。


 照会にはもう一つ要るものがあった。

 前の病院でもそうだった。事務がどれだけ記録の矛盾を見つけても、医学的な判断は書けない。照会の書面には医師の意見が要る。この施しが必要だったと。この名前のこの人を確かに診たと。

 この世界でそれを書けるのは、癒し手だ。

 ヤルナさんがいる。けれど王都で灰堀区の人たちを診てきたのは、ヤルナさんではない。

 まず、会わなければならない人がいた。

 灰堀区の獣脂のランタンの小屋に。

 まだ一度も名乗ったことのない人に。


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