第二十二章 疑義照会
獣脂のランタンの下で、時任先生は眠っていた。
灰の月の二日、日暮れ。灰堀区の路地の奥のあの小屋だった。戸板の診察台の脇に木箱を置き、そこに腰かけたまま壁にもたれていた。白衣の袖に、乾いた血と煤がこびりついていた。昨日、ハルヴァンさんを煙の中から引きずり出したときのものだろう。
路地の入口でヤルナさんとトマが待っていた。
「一人で行く」
路地の入口で、私はそう言った。ヤルナさんは何か言いかけて、黙ってうなずいた。トマは私の袖を一度だけ強く握ってから、放した。
小屋の隅で腰の曲がった老婆が膿盆を洗っていた。私を見て、手を止めた。
「先生は寝てるよ。ゆうべも一睡もしてない」
「待ちます」
私は戸板の診察台の脇に立った。
時任先生の寝顔を、見下ろしていた。
前の病院で七年間、私はこの人の背中ばかり見ていた。医事課の島の端で査定の通知を振る背中。廊下を足早に去っていく背中。寝顔を見たことは、一度もなかった。
眉間に深い皺が刻まれていた。眠っていても何かに怒っているような顔だった。疲れきった顔だった。
ランタンの芯がぱちりとはぜた。
時任先生の目が開いた。
しばらく焦点が合わなかった。それから私の顔をとらえた。
「……空札か」
かすれた声だった。
「牢を出たのか」
「辺境伯さまが身柄を引き取ってくださいました」
時任先生は体を起こした。首を回し、肩を揉んだ。それから私をじっと見上げた。
「昨日」
低い声だった。
「坂の上で、お前は言ったな。紙なんか置いて、逃げろと」
「はい」
「あれは、俺の言葉だ」
時任先生の目がランタンの光を映していた。
「俺が前の世界で一度だけ言った言葉だ。煙の廊下で。医事課の戸口に突っ立ってた事務に」
小屋の空気が止まった気がした。
老婆が膿盆を持ったまま動かなくなっていた。
私は息を吸った。
牢の中で、トマに言えた。ヤルナさんにも言えた。辺境伯さまの前でも言えた。セグ施療院の受付です、と。
今度はこの人の前で。
机の向こうの人の前で。
「汐見総合病院、医事課」
声が少しだけ震えた。
「外科担当の水無瀬詩織です」
時任先生は動かなかった。
「十月九日の夜。五一二号室の田辺キヨ様。夜八時の緊急入院の紙の入院受付票。それを書いたのは、私です」
時任先生の唇がわずかに開いた。
「先生の机に毎月黄色い付箋を貼っていたのも、私です」
◇
長い沈黙だった。
時任先生は私の顔を見ていた。ニナさんの顔を。栗色の髪と、そばかすの散った十七歳の少女の顔を。その奥にある別の何かを探すように。
「……顔が、違う」
「この体は、借りているので」
「声も、違う」
「はい」
「なのに」
時任先生は両手で顔を覆った。
大きな手だった。前の世界で何百人もの体を開いて、縫い合わせてきた手。その指の間からくぐもった声が漏れた。
「田辺キヨは、助かった」
私は息を止めた。
「五一二から消防が運び出した。酸素ボンベごと。肺炎を起こしかけてたが、持ち直した。二週間後に施設へ退院した」
時任先生は手を下ろした。目が赤かった。
「退院の日に看護師に聞いたらしい。あの夜、紙を持ってきてくれた人は誰ですかと。礼を言いたいと。誰も答えられなかった。医事課の子だとしか」
私の膝から、力が抜けた。
診察台の端に手をついて、どうにか立っていた。
助かった。
田辺様は助かった。
あの夜、駐車場のアスファルトの上で私は窓の光を数えようとした。五一一、五一二。指が動かなかった。その先をずっと知らなかった。
「翌週、院内の通達が回ってきた」
時任先生は膝の上で拳を握っていた。
「医事課の職員一名、火災により殉職。名前が書いてあった。聞いたはずだ。読んだはずだ。偲ぶ会の知らせも来た。俺は手術が入ってると言って行かなかった」
時任先生の声が途切れた。
「覚えて、いなかった」
ランタンの火が揺れた。
「名前を。七年間、俺の机に紙を貼り続けた人間の名前を。俺の患者のために煙の中に戻った人間の名前を。俺は、一度も聞かなかった。通達で読んでも頭に残らなかった」
時任先生はゆっくりと顔を上げた。
「……先に、名前を聞くべきだった」
私は何も言えなかった。
何か言えば、泣き出してしまいそうだった。
「紙なんか置いて逃げろ、と言った」
時任先生は続けた。
「言って、そのまま通り過ぎた。腕をつかんで引きずり出せばよかったんだ。あの戸口から。そうすれば」
「先生」
私は首を振った。
「田辺様が助かったのは、先生が叫んでくださったからです。五一二。酸素。歩けない。そう叫んでくださったから。消防の人に。私が紙を取りに戻ったからじゃない。先生が、すぐに動いてくださったから」
「お前が紙を持ってこなかったら、俺は五一二を知らなかった」
「私が先生に渡さなかったら、紙はただの紙でした」
時任先生は私を見た。
それからほんの少しだけ、口の端を歪めた。笑ったのかもしれなかった。
「……事務の理屈だな」
「はい。事務の理屈です」
膿盆を持った老婆が何も言わずに戸口から出ていった。
「先生はどうしてこちらに」
聞くと、時任先生は天井の煤けた梁を見上げた。
「火事からひと月くらいあとだ。夜中の緊急手術が三件続いて、当直室で仮眠をとった。目を開けたら大聖堂の床の上だった。白衣のまま。ポケットにペンが二本と名札が一つ」
時任先生は胸の名札を指で弾いた。
「死んだのかと思った。死んでなかった。坊主どもが周りを囲んで、聖医さまだと拝んでた」
「……名札、表を向いてますね」
「は?」
「いえ。何でもないです」
◇
「先生。照会させてください」
私は懐から羊皮紙を一枚取り出した。辺境伯さまの宿で昼のうちに書いておいたものだ。
時任先生が眉を上げた。
「照会」
「はい。先生がいちばん嫌いな、あれです」
時任先生は鼻を鳴らした。それでも手を伸ばして羊皮紙を受け取った。
ランタンの明かりにかざして読んだ。
天秤院への疑義照会。
改名令により、教会の名簿の名と女神の台帳の名が異なる者がいる。その者の資格を本人が自らの声にて申告する古い名をもって、台帳と突き合わせてよいか。名簿の主の異議あるときも、なお。
「天秤院に問いを出すのか」
時任先生の目が紙の上の文を何度も往復した。前の病院で私の付箋を丸める前に一瞬だけ目を走らせた、あの目つきとは違った。手術の前にカルテを読むときの目だった。
「名簿の主の異議、とは何だ」
「教会が昨日の布告で申し立てたものです。摘要で名前を補っても、教会が異を唱えれば通らない。天秤院の定めにそう書いてあります」
「その上を行けるか、と聞くわけか」
「はい」
「答えが来るのか」
「わかりません。誰も問いを出したことがないので」
時任先生は羊皮紙の下のほうを指で叩いた。そこだけ空けてあった。
「ここは」
「癒し手の意見の欄です」
私は言った。
「前の病院でも疑義照会の書面には医師の意見が要りました。事務がどれだけ記録の矛盾を見つけても、医学的な判断は書けません。この人を確かに診た、この施しは必要だった。そう書けるのは医師だけです」
「辺境の癒し手がいるだろう」
「ヤルナさんはオルドの人を診てきました。でも王都の灰堀区の人たちを診てきたのは、先生です。名前も聞かずに。記録も残さずに」
時任先生の目が羊皮紙から私に移った。
「この照会が通れば、本人が自分の声で名乗った名前がそのまま女神さまの台帳と突き合わされます。教会の名簿を通さずに。灰堀区の人たちは教会に名前を知られずに、施しを受けた記録を残せるんです」
紙に書いたら、あいつらが消える。
書記室で、時任先生はそう言った。
「書いても、消えなくなります」
時任先生は長いあいだ黙っていた。
小屋の外で、子どもが咳をした。路地のどこかで犬が吠えた。
「……意見を書けばいいのか」
「はい」
「何と書けばいい」
「先生が見たことを。先生の言葉で」
時任先生は白衣の胸ポケットから黒いペンを抜いた。前の世界のペンだった。インクがまだ残っていたらしい。
羊皮紙を診察台の上に置き、空いた欄に向かった。
ペン先が紙の上で一度止まった。
「……摘要なんか、何年ぶりに書くんだろうな」
それから書き始めた。
迷いのない字だった。カルテに書くときと同じ右上がりの、少し荒っぽい字。
灰堀区にて自ら施したる夜の施し、百四十二件。頸部の膿瘍。腕の骨折。胸の咳。熱。いずれも施しを要したり。いずれも自らの名を名乗らんとしたり。教会の名簿の名と異なれど、施しを受けし者はその者なり。その名をもって量られたし。
最後に名前を書いた。
聖医、とまず書きかけてペンが止まった。その二文字に線を引いた。
その横に書き直した。
外科医、時任将臣。
時任先生はペンを置いた。羊皮紙を私のほうへ押しやった。
「これでいいか」
「……はい」
声がかすれた。
「ありがとうございます、先生」
時任先生は答えなかった。代わりに羊皮紙の私の書いた部分を指さした。差出人の欄だった。
「お前のほうはまだ空いてるぞ」
私はペンを受け取った。
差出人の欄に書いた。
セグ施療院、受付。水無瀬詩織。
自分の手で自分の名前を書いたのは、この世界に来て初めてだった。
◇
小屋を出ると、路地の入口でヤルナさんとトマが待っていた。
ヤルナさんは時任先生を見て腕を組んだ。
「あんた、やっと書いたんだ」
「書かされた」
「誰に」
時任先生は顎で私を示した。ヤルナさんは私を見て、それからふんと笑った。
「やるじゃない、シオリ」
時任先生の足が一瞬止まった。シオリ、と口の中で繰り返したように見えた。何も言わずにまた歩き出した。
大聖堂の正面の扉は夜でも開いていた。
祭壇の前の数本の蜜蝋だけが灯っていた。大受領台の脇に聖騎士が二人立っていた。
「聖医さま」
聖騎士が時任先生を見て姿勢を正した。それから後ろの私を見て、顔をしかめた。
「その娘は昨日の空札では」
「俺の連れだ」
時任先生は聖騎士の前を通り過ぎた。
「聖医が夜の祈りに来て、何が悪い」
聖騎士は顔を見合わせた。止めなかった。
私は大受領台の前に立った。
白い大理石の天秤。側面の刻文。量りは名をもってす。
羊皮紙を天秤の皿の上に置いた。
遠くで鐘が鳴り始めた。
一つ。二つ。三つ。
十二の鐘が鳴り終わったとき、羊皮紙の縁から光の粒が立ちのぼった。粒は紙を包み、天井の闇へ吸い込まれていった。
皿の上には何も残らなかった。
そのとき祭壇の奥の聖歌隊席の暗がりで、何かが動いた。
赤い衣の裾だった。
枢機卿さまがそこに座っていた。いつからいたのかわからなかった。蝋燭の明かりの届かない席だった。膝の上で手を組み、こちらを見ていた。
何も言わなかった。止めもしなかった。ただ光の粒が天井へ消えていくのを、最後まで見上げていた。
私が頭を下げると、枢機卿さまはゆっくりと立ち上がった。祭壇の奥の扉の向こうへ消えた。
時任先生が隣で息を吐いた。
「……受け取られたのか」
「はい。たぶん」
大聖堂の高い窓の向こうで日付が変わっていた。
灰の月の三日。
時効まで、あと七日。




