第二十三章 回答
白い札が降ってきた。
灰の月の三日、夜明けの鐘のあとだった。私は大受領台の前の石段に座ったまま、夜を明かしていた。トマが私の膝に頭をのせて眠っていた。時任先生は夜半に灰堀区へ戻っていった。
天井の闇から紙片が一枚、ひらひらと舞い落ちてきた。
赤ではなかった。
雪のように白かった。
札は大受領台の天秤の皿の上に、音もなく着いた。
私はトマを起こさないように膝を抜き、皿の前に立った。手に取った。羊皮紙のように硬く、ほんのり温かかった。赤い札と同じ温かさだった。
表に、二文字。
回答。
裏を返した。
照会に回答する。本人、自らの声にて申告せる名をもって台帳と突き合わすを認む。名簿の主の異議あるときも、また同じ。名は名乗る者のものなり。
期限。灰の月十日、終の鐘。
その下に小さな字で一行だけ、添えてあった。
照会には常に答えてきた。問う者がなかっただけだ。
私はその一行を何度も読んだ。
前の病院で七年間、私は照会をしなかった。付箋を貼って、それで済ませた。聞けば答えてもらえたかもしれないことを、聞かずに黙って直した。
答えはいつでもあったのだ。
問わなかったのは、私だった。
「……シオリ?」
トマが目をこすりながら起き上がった。私の手の中の白い札を見て、目を丸くした。
「白い」
「うん」
「赤くない」
「うん。答えが来たの」
トマは札をのぞき込んだ。字を一つずつ指でたどった。名は名乗る者のものなり。そこで、指が止まった。
「姉ちゃんの名前は、姉ちゃんのもの」
「そう」
トマは顔を上げた。
「じゃあ、姉ちゃんが自分で言えばいいんだ」
「そう。自分の声で」
トマの口元がゆっくりとほころんだ。
◇
辺境伯さまの宿は王都の東門のそばの古い館だった。
朝のうちに、広間に人が集まった。
辺境伯さま。代官さま。ヤルナさん。トマ。王立施療院のロタール修道士。薬師ギルドのオーデさんが分厚い帳簿を三冊、風呂敷に包んで抱えてきた。牢の番兵のペトさんも非番だと言って来ていた。
時任先生は少し遅れて来た。白衣のまま。袖に、また新しい血がついていた。
それから見知らぬ若い女の人が一人。
金色の髪をきっちり結い上げ、冒険者ギルドの紋章の入った紺の上着を着ていた。腰に、革の小袋を下げていた。
「ギルド本部の受付、ミレイユです」
女の人は私の前に立って腕を組んだ。
「辺境伯さまのご依頼で、伝声石をお持ちしました。あなたが辺境で受付をやってたっていう子?」
「はい。水無瀬詩織です」
ミレイユさんは私を頭のてっぺんから爪先まで眺めた。
「受付なら、ギルドが本家よ。依頼の受付。素材の買い取り。身分証の発行。毎日三百人はさばいてるわ」
「すごいですね」
「……素直ね。張り合いがないわ」
ミレイユさんは小袋から、握りこぶしほどの青い石を二つ取り出した。滑らかに磨かれていて、表面に細かな模様が刻んであった。
「対になってる。片方に話しかければ、もう片方から声が出る。山の向こうまで届くわ。ハルトのギルドの出張所にも同じ対の片割れがある」
私は広間の大きな卓の前に立った。
卓の上に白い札を置いた。
みんなの目が私に集まった。
机の向こうの人たちの前で、私は話し始めた。
◇
「天秤院の回答です」
声が広間に響いた。
「本人が自分の声で名乗った古い名前を女神さまの台帳と突き合わせてかまわない。教会が異議を申し立てても、それは変わらない。期限は灰の月十日の終の鐘です」
辺境伯さまが白い札を手に取った。目を細めて読んだ。
「名は、名乗る者のものなり、か」
「はい。だからやることは一つです。改名令で名前を変えられた人に一人残らず、古い名前を自分の声で名乗ってもらう。受付がそれを書き留める。癒し手が署名する。その訂正の束を十日の終の鐘までに受領台に納める」
「一人残らず、とは」
「オルドの村々と王都の灰堀区。それから」
私は広間の高窓に目をやった。その向こうに、大聖堂の丘が見えていた。
「広場に集められている戻り人たちです」
広間がしんとした。
「戻り人は、口がきけないと聞くぞ」
「ヨルさんは、名乗りました」
私は言った。
「奥さんのウルラさんに古い名前で呼ばれて。ヨル、と。自分の声で」
ヤルナさんが小さくうなずいた。あの夜、書記室で署名をしたのはヤルナさんだった。
「戻り人の多くは、二十年前の改名令のころに亡くなった人たちです。いちばん古い返戻の行の持ち主です。時効がいちばん近い人たちです」
私は卓の上に羊皮紙を広げた。ゆうべ大受領台の前で書いた段取りの表だった。
「だから順番はこうです。時効の古い順。二十年前の灰の月の行から。死んだ人と年寄りが先です」
時任先生が腕を組んだまま私を見ていた。
「助かる見込みの順、じゃないのか」
「切り捨てる順番ではありません」
私は時任先生の目を見て言った。
「間に合わせる順番です」
時任先生はしばらく黙っていた。それからふっと息を吐いた。
「トリアージの軸を時間に変えたのか」
「事務の理屈です」
「……ああ。事務の理屈だな」
時任先生の口の端がまた少しだけ歪んだ。
◇
段取りを、一つずつ決めた。
オルドの村々は、ヤルナさんが受け持つ。辺境伯さまの早馬を宿場ごとに乗り継げば、峠を越えて三日でハルトに着く。六日の夕方。そこから十日の終の鐘まで四日。
「四日でオルドじゅう回れるの?」
ヤルナさんが聞いた。
「回らなくていいんです」
私は言った。
「セグとハルトの施療院に受付の机を出してください。代官さまに触れを出してもらって、みんなに来てもらう。札を持って」
「札?」
「トマが彫った診察券です。二つの名前と番号が刻んであります。王都の書記室の控えは燃えました。でも、片割れは燃えていません。みんなの帯や懐に今もあります」
トマが背筋を伸ばした。
「ウルラさんにも手伝ってもらってください。セグの昔のことなら、何でも覚えている人です。徒弟の子たちも札の字なら読めます。ガルドさんには、列の整理を」
ヤルナさんは私の顔をじっと見ていた。
「シオリ。あんた、全部考えてたんだ」
「ゆうべ時間があったので」
「牢でも、考えてたでしょ」
私は答えなかった。ヤルナさんは鼻を鳴らして笑った。
王都の灰堀区は時任先生が受け持つ。
「署名は全部俺がする」
時任先生が言った。
「灰堀区の連中には俺が声をかける。名前を言っても教会には渡らない、女神に直接届くと。俺が言えば、あいつらは来る」
ロタール修道士が手を挙げた。
「王立施療院の修道士たちに受付の書き取りをさせましょう。十二人います。ハルヴァン先生に名前の欄の書き方を教わった者たちです」
オーデさんが風呂敷の帳簿を卓に置いた。
「灰堀区の客の名前なら、ここに三年分ある。名乗ったまんまの名前がね。戻り人の家族を探すのに使っとくれ」
ペトさんがおずおずと言った。
「広場の戻り人の見張りは、大聖堂の番兵と聖騎士です。おれの仲間にも婆ちゃんや爺ちゃんが広場にいるやつがいる。話してみます」
ミレイユさんが伝声石の片方をヤルナさんに渡した。
「ハルトの出張所の石と、これと本部の石。三つで話せるわ。オルドで何人名乗ったか。王都で何人名乗ったか。逐一知らせて」
「数を合わせるのは、受付の仕事ですから」
私が言うと、ミレイユさんは目を細めた。
「……やっぱり張り合いがあるわ、あなた」
◇
「もう一つお話ししなければならないことがあります」
段取りが一通り決まったところで、私は言った。
喉が少しだけ詰まった。けれど、もう黙らないと決めていた。
「枢機卿さまのことです」
辺境伯さまの眉が上がった。
「アウレリオ枢機卿さまが名乗ったとき、私には窓が見えました。名簿の名はアウレリオ・ルクス。女神さまの台帳の名は」
一度息を吸った。
「カイ、です」
広間の空気が変わった。
「書庫に五十年前の孤児の一覧がありました。国境の焼き討ちのあと教会が保護した子どもの。セグ村のカイ、八歳。聖名アウレリオを授く、と」
「セグの……」
辺境伯さまが低くうなった。
「なんで、今まで言わなかったの」
ヤルナさんが言った。責める声ではなかった。
「言うべきかどうか、わかりませんでした。人の名前を、本人のいないところで言いふらしていいのか」
私は白い札を見た。名は名乗る者のものなり。
「今も言いふらすつもりはありません。でも、皆さんには知っていてほしいと思いました。枢機卿さまも改名令で名前を変えられた人の一人なんです。たぶん、いちばん最初の」
トマが目を丸くしていた。
「ウルラ婆ちゃんなら知ってるかも。セグの昔の人の名前、なんでも覚えてるもん」
時任先生は何も言わなかった。腕を組んだまま、高窓の向こうの白い塔をじっと見ていた。
◇
ヤルナさんは昼前に発った。
東門の外で辺境伯さまの騎士が栗毛の馬の手綱を引いていた。ヤルナさんは前掛けを外して鞍の後ろに結びつけた。懐に、伝声石を入れた。
「シオリ」
馬にまたがる前に、ヤルナさんが振り返った。
「黙るなよ」
「はい」
「黙ったら、石越しに怒鳴るからね」
「はい」
ヤルナさんは馬にまたがった。騎士が鞭を入れた。蹄の音が東の街道を遠ざかっていった。
◇
午後は宿の広間で受付簿を作った。
ロタール修道士が連れてきた若い修道士たちが、長い卓に並んで座った。私は羊皮紙を一枚取り、縦に三本の線を引いた。
「欄は四つです」
左から順に指でたどった。
「名簿の名。台帳の名。申告の声を聞いた受付の名前。署名した癒し手の名前」
「受付の名前まで書くのですか」
いちばん若い修道士が目を丸くした。
「書きます。誰が聞いたのかわからない記録は、あとで誰にも確かめられません」
修道士は少し考えてからうなずいた。ハルヴァン先生も同じことをおっしゃっていました、と小さな声で言った。
私は返事ができなかった。黙って次の紙に線を引いた。
日が傾いたころ、卓の端に置いた伝声石がぼうっと青く光った。
『……聞こえる? ねえ、これほんとに聞こえてんの?』
ヤルナさんの声だった。少し割れていた。
「聞こえます」
『一つ目の宿場。馬を替えた。尻が二つに割れそう』
ミレイユさんが噴き出した。修道士たちが顔を見合わせた。
『笑ったの誰。聞こえてるからね』
「ギルド本部の受付です」
『あんたか。……シオリ、そっちは』
「受付簿を作っています。欄は四つ」
『四つね。こっちも四つにする』
石の光がすうっと消えた。
ミレイユさんが目尻を指で拭いながら言った。
「あの人、いい受付になるわよ」
◇
その夜、大聖堂の鐘が鳴った。聖騎士の触れ役が街の辻ごとに布告を読み上げた。
灰の月十日、正午。大聖堂前広場にて戻り人の浄化を執り行う。王国の帳簿を清め、灰咳を鎮めるために。
宿の窓から大聖堂の丘が見えた。
丘のふもとの広場に、松明が何十本も灯っていた。その光の輪の中に灰色の人影が集まり始めていた。路地から。川岸から。街の門から。縄で囲われた広場の中に一人、また一人と。
トマが私の隣で窓枠にしがみついていた。
その背中のすぐ後ろで青い紐の人影が動いた。
初めてだった。
トマのそばを離れた。
窓をすり抜けるように夜の通りへ。広場のほうへ。ほかの灰色の人影たちと同じ方向へ、滑るように遠ざかっていく。
「姉ちゃん」
トマが窓から身を乗り出した。
「姉ちゃん、だめ。そっちは」
青い紐は松明の光の輪の中へ、静かに吸い込まれていった。




