第二十四章 大締め
灰の月の十日は霜で明けた。
大聖堂前の広場の石畳が一面白く凍っていた。縄で囲われた内側に灰色の人影がひしめいていた。三百か四百か。数えようとして、やめた。顔のない顔がどれも東の空のほうを向いていた。
縄の外側を、聖騎士が等間隔に囲んでいた。手には長い松明。聖火だった。
正午まで、あと六つの鐘。
終の鐘まではまだ遠い。けれど広場にいる人たちには、正午までしかなかった。
この七日のあいだに、灰堀区の小屋の前には毎晩列ができた。時任先生が路地を一本ずつ回って声をかけたからだ。名前を言っても教会には渡らない。女神さまに直接届く。俺が署名する。修道士たちが書き取り、先生が署名した。九日の夜までに二千十一行になった。
伝声石からはヤルナさんの数が届いた。
六日の夕方にハルトに着いた。七日の朝、セグとハルトの施療院に机が出た。代官さまの触れで村々から人が歩いてきた。首や帯にトマの彫った札を下げて。札を持たない人の名は、ウルラさんが覚えていた。九日の夜、石の向こうの声は四千三百と言った。
残りは広場の戻り人だった。
◇
私は縄の外に、受付台を据えた。
宿の納屋の戸板を一枚と、空の樽を二つ。セグの施療院の最初の朝と同じだった。ペトさんと番兵の仲間たちが、樽を転がして運んでくれた。
戸板の上に受付簿を広げた。四つの欄。名簿の名。台帳の名。受付。署名。
隣に時任先生が座った。白衣の胸ポケットから黒いペンを抜いた。
トマは台の端に立っていた。首の青い紐をずっと指でいじっていた。
ロタール修道士と十二人の修道士が後ろに長い卓を並べた。オーデさんは帳簿を三冊抱えてその端に陣取った。辺境伯さまの騎士たちが私たちの背中を守るように立った。二十人。向こうの聖騎士はここだけで五十はいた。
銀の兜をかぶった大男が、縄の内側から歩いてきた。灰色の髭が霜で白くなっていた。
「聖騎士団長、ヴェルナーだ。何の真似だ」
「受付です」
「戻り人に受付など」
「布告には、受付をしてはならないとは書いてありませんでした」
ヴェルナー団長の眉が動いた。
その後ろで若い聖騎士が一人、松明を持ったままうつむいていた。ペトさんが目で合図すると、その聖騎士は小さくうなずいた。
「……おれの爺ちゃんも、中にいるんです」
若い聖騎士が言った。団長は振り返らなかった。長いあいだ私の受付簿をにらんでいた。
「正午までだ」
団長は言った。
「正午の鐘が鳴ったら、どけ」
夜明けの鐘が鳴った。
縄の外にはもう人が集まり始めていた。灰堀区の人たち。川岸の人たち。戻り人の家族。私は台の前に立ち、広場に向かって声を張った。
「受付を始めます!」
声が凍った石畳を渡っていった。
「縄の中に、ご家族がいる方。お名前を呼んであげてください。生まれたときの、古いお名前で。返事があったら、ここに来てください」
◇
最初はペトさんだった。
縄の前に立ち、何度も唇をなめてから叫んだ。
「婆ちゃん! リタ婆ちゃん!」
灰色の人影の群れが、さわりと揺れた。
小さな影が一つ、人垣を抜けて縄のそばまで来た。腰の曲がった、肩の細い影だった。顔のない顔がペトさんのほうへ傾いた。
「……リタ」
かすれた声だった。冬の枯れ葉がこすれるような。
その頭の上に、窓が浮かんだ。名簿の名はロザリア・グラン。台帳の名はリタ。
私は書いた。名簿の名、ロザリア・グラン。台帳の名、リタ。受付、水無瀬詩織。
時任先生が署名の欄にペンを走らせた。
行がふっと光った。
ペトさんが縄を握ったまま泣いていた。若い聖騎士が自分の松明を少しだけ遠ざけた。
それから次々に名前が呼ばれた。
「ヘンネ!」
「ベン爺!」
「母ちゃん、ゾラ母ちゃん!」
呼ばれた影が縄のそばへ来る。囁く。窓が浮かぶ。私が書く。先生が署名する。行が光る。
オーデさんが帳簿をめくって叫んだ。
「灰堀区の三番路地、鍋直しのトーベ! うちで膏薬を買ってた!」
片腕の影が振り向いた。
「……トーベ」
修道士たちが私の書いた行を写して束ね、紐で縛った。昼までに束は七つになった。
伝声石がときどき光った。
『セグとハルト、合わせて四千五百を越えた。ハルトは列が街道まで』
ヤルナさんの声の後ろで、人のざわめきが聞こえた。札を掲げる、木の触れ合う音も。
『みんな、札を持ってきてる。トマに言っといて。千と三百枚、一枚もなくしてないって』
トマが顔を上げた。唇を噛んで何度もうなずいた。
◇
間違えたのは、三つ目の鐘のあとだった。
灰堀区の男が縄の前で小柄な影を呼んだ。風が強かった。男の声は半分ちぎれて聞こえた。影が囁いた。私はそれを聞き、書いた。
オダ。
時任先生が署名した。
行が光らなかった。
私は手を止めた。もう一度書いた字を見た。窓を見上げた。台帳の名の欄がゆらゆらと揺れていた。
オーダ。
長く伸ばす音を、私は落としていた。オルドの言葉では伸ばすかどうかで別の名前になる。セグの施療院で何百回も聞いてきたのに。
指が冷たくなった。
机の端に、小刀があった。羊皮紙の字を削って直すための刃。
手が勝手にそれを取った。
刃を羊皮紙に当てた。かり、と小さな音がした。
『シオリ』
伝声石が光った。
『今、削ってるでしょ』
私は息を止めた。
『その音、知ってる。セグの書記室で、夜中に聞いた』
ヤルナさんの声は低かった。石の向こうで、ざわめきが少し静まった気がした。
『黙って直すな』
刃が羊皮紙の上で止まった。
『黙ったら、怒鳴るって言ったよね』
時任先生が横で私を見ていた。トマも見ていた。修道士たちも縄の前の男も。
私は小刀を置いた。
戸板の上に、片足をかけた。
樽がぐらりと揺れた。ペトさんが慌てて押さえてくれた。私は戸板の上に立ち上がった。広場じゅうの顔が見えた。生きている人の顔も、顔のない顔も。
「私が、間違えました!」
声が霜の空にはね返った。
「今のお婆さんのお名前を、私は書き間違えました。オダか、オーダか。伸ばすのか伸ばさないのか。ご存じの方はいませんか!」
一瞬、広場が静まり返った。
それからどこかで声が上がった。
「オーダだ!」
「伸ばすんだよ! 川岸の洗濯場の、オーダ婆さんだ!」
「あたしの産着、洗ってもらったよ!」
三人、四人、十人。声がばらばらに重なった。
小柄な影が縄のそばで揺れた。
「……オーダ」
今度ははっきり聞こえた。
私は戸板から降り、新しい行に書き直した。オーダ。間違えた行は削らなかった。線を一本引いて、横に小さく書き添えた。受付の誤記。訂正。
時任先生がもう一度署名した。
行が光った。
その瞬間から、広場が変わった。
「そっちの、杖の爺さんはハンだ!」
「その隣の背の高いのは、靴屋のデナだよ!」
「ベル! ベルだろ、あんた!」
家族のいない影の名前を、知らない誰かが叫び始めた。隣に住んでいた人。同じ井戸で水を汲んだ人。一度だけ鍋を直してもらった人。
縄の外の人垣が二重になり三重になった。
間違えたと言ったら、人が集まってきた。
私はそれを知らなかった。二十九年と三か月、一度も試したことがなかった。
◇
正午の鐘が鳴った。
ヴェルナー団長が縄の内側から歩いてきた。
「時間だ。どけ」
聖騎士たちが松明を構え直した。広場がざわめいた。縄の外の人たちが私の受付台のまわりに押し寄せてきた。
大聖堂の正面の扉が開いた。
赤い衣の人が石段を下りてきた。
枢機卿さまだった。銀髪が冬の日を受けて光っていた。後ろに香炉を下げた修道士が二人。広場の端で群衆が左右に割れた。
枢機卿さまは私の受付台の前で足を止めた。
台の上の受付簿を見た。光っている行の列を。それから私を見た。身をかがめて目の高さを合わせた。初めて王立施療院で会った日と同じように。
「受付の方」
穏やかな声だった。
「浄化の時刻です。お下がりなさい」
私は下がらなかった。
台の前に立ったまま、受付簿の新しい行に指を置いた。
「枢機卿さま。浄化の前に、受付をお願いできますか」
「私の?」
「はい」
私はセグの広場で毎日言ってきた言葉を言った。
「お名前を、ご自分の声で教えてください」
枢機卿さまの目がわずかに細くなった。
広場が静かになった。
「アウレリオ・ルクス」
窓が浮かんだ。名簿の名はアウレリオ・ルクス。台帳の名はカイ。不一致。
私は名簿の名の欄にアウレリオ・ルクスと書いた。
台帳の名の欄は空けておいた。
「台帳のお名前の欄が、空いています」
それだけ言った。
枢機卿さまは何も答えなかった。
そのとき受付台の端で伝声石が光った。
『……シオリ。ウルラ婆ちゃんが、話したいって』
ヤルナさんの声のあとに、がさがさと石を持ち替える音がした。
それから別の声がした。
『そこに、誰かいるのかい』
しわがれた、ゆっくりした声。セグの広場で、私に夫の名前を教えてくれた声だった。
『ヤルナから聞いたよ。王都の偉い人にね、セグの子がいるって』
枢機卿さまの肩がかすかに動いた。
『カイ坊かい』
広場の冬の風が一瞬止んだ気がした。
『羊飼いのトビと、機織りのエルマのとこの。村が焼けた日、井戸の中に隠れて三日出てこなかった子だよ。修道士さまに抱えられて、やっと上がってきた。あたしはあのとき、二十八だった』
石の向こうでウルラさんが息をついた。
『エルマはね、あたしの嫁入りに帯を織ってくれた。青い帯だよ。今も締めてる。ヨルの札を結んでるのも、この帯さ』
枢機卿さまは動かなかった。
『カイ坊。あんた、生きてたんだね』
長い沈黙だった。
聖騎士の松明がぱちぱちと鳴った。トマが私の袖を握っていた。時任先生はペンを持ったまま息を詰めていた。
枢機卿さまの唇が開いた。
閉じた。
また開いた。
五十年かかったのだ。この人がこの口を開けるまでに。
「……カイ」
かすれた声だった。広場の戻り人の囁きと、ほとんど同じ声だった。
「オルドの、セグ村の、カイだ」
窓の、台帳の名の欄が揺れた。
私は空けておいた欄に書いた。カイ。
時任先生が署名した。
行が光った。
枢機卿さまはその光をしばらく見下ろしていた。
「五十年」
ぽつりと言った。
「誰も、私に名前を聞かなかった。……私も、誰にも聞かなかった」
それからゆっくりと体を起こした。ヴェルナー団長のほうを向いた。
「団長。聖火を下ろしなさい」
「猊下、浄化は」
「取りやめます。取り下げも、出しません」
団長は口を開けたまま、しばらく動かなかった。
枢機卿さまは続けた。
「地下書庫の改名録を、ここへ。箱ごとすべて。持ち出しを許します」
団長の目が枢機卿さまの顔と私の受付簿とを往復した。
それから片手を上げた。
広場を囲んでいた松明が一本、また一本と下ろされた。火が石畳に向けられ、遠ざけられた。若い聖騎士が真っ先に松明を地面に置いた。
◇
午後、聖騎士たちが箱を運んできた。
一つ。二つ。十。二十。地下書庫の黴の匂いが広場の冷たい空気に混じった。
修道士たちが改名録を開き、黒線の引かれた古い名を一つずつ読み上げた。
「ヨゼフ・セラフ、古き名ゼフ!」
「アンナ・ドール、古き名アネ!」
縄の中から、囁きが返ってくる。窓が浮かぶ。私が書く。先生が署名する。
聖騎士たちが束を運ぶ役を引き受けた。さっきまで聖火を持っていた手で。
日が傾くころ、時任先生のペンが止まった。
先生はペン先を何度も羊皮紙にこすりつけた。字が出なかった。
「……インクが、尽きた」
前の世界から持ってきたペンだった。もう一本はとうに書けなくなっていた。先生はそれをしばらく見つめていた。それから黙って白衣の胸ポケットに戻し、修道士から羽根ペンを受け取った。
また書き始めた。
字が少しずつ震え始めた。夕方の鐘のころには、先生は左手で右の手首を押さえながら書いていた。
「先生、少し休んで」
「締めの日に休む事務を、俺は一人も知らない」
先生は顔を上げずに言った。
「事務が休まないのに、医者が休めるか」
伝声石からは数字が届き続けた。
『セグとハルト、合わせて六千二百。村の年寄りが、全部来た。最後の一人まで、自分の声で言った』
日が落ちた。
広場が闇に沈んだ。私は懐の奥から短い蜜蝋を取り出した。ハルヴァンさんの指の跡が残る、最後の一本。
火がなかった。立ちつくしていると、隣に赤い衣の裾が見えた。
枢機卿さまが聖騎士の松明を一本、手に持っていた。
黙ってそれを傾けた。
聖火が蜜蝋の芯に移った。
小さな炎が受付簿の上で揺れた。ハルヴァンさんの墨の跡が、蝋の表面で黒く光った。
「ありがとうございます」
枢機卿さまは何も言わずに松明を上げ、台の脇に立った。それから夜が更けるまでそこを動かなかった。
◇
最後の一人は縄のいちばん奥にいた。
夜の鐘が鳴り、十一の鐘が鳴った。終の鐘まで、あと一つ。
トマが縄の前に立った。
懐から木の札を取り出した。この七日、宿の隅で毎晩少しずつ彫っていた札だった。表に、ニナ。裏に、ニーナ・セラフ。番号はなかった。
「番号は、いらない」
トマは言った。
「姉ちゃんは、姉ちゃんだから」
トマは札を両手で掲げた。
「姉ちゃん」
息を吸った。
「ニナ姉ちゃん!」
灰色の群れの奥で、青いものが揺れた。
影が一つ、ゆっくりと人垣を抜けてきた。肩にかかる髪の先に、ひとすじの青い紐。
縄のこちら側と向こう側で、二本の青い紐が向かい合った。
「……ニナ」
囁きだった。
けれどトマのそばで三か月さまよい続けた声だった。
窓が浮かんだ。名簿の名はニーナ・セラフ。台帳の名はニナ。
私は書いた。手が震えた。蜜蝋の炎が揺れた。名簿の名、ニーナ・セラフ。台帳の名、ニナ。受付、水無瀬詩織。
署名の欄で、ペンが止まった。
時任先生が私を見た。
「この子を診たのは、俺じゃない」
伝声石が光った。
『あたしが診た』
ヤルナさんの声だった。
『実の月の十一日。胸の咳。夜中に息が止まった。間に合わなかった』
声が少しだけ途切れた。
『署名、ヤルナ。……声で言った。書いて、シオリ』
私は書いた。癒し手ヤルナ、伝声にて。
行が光った。
トマが札を胸に抱いたまま縄にしがみついていた。
受付簿の、最後の行の下に余白があった。
私は羽根ペンを取り直した。
受付担当、水無瀬詩織。
書き終えて、顔を上げた。広場じゅうの人がこちらを見ていた。ペトさん。オーデさん。修道士たち。辺境伯さま。枢機卿さま。トマ。縄の中の、何百もの顔のない顔。
時任先生も。
「受付担当の」
声が出た。
「水無瀬詩織です」
懐の奥が温かくなった。
赤い札を出すと、それは白くなっていた。
本人申告――受理。
◇
束を抱えて走った。
受付台から大聖堂の石段まで。石段を駆け上がった。開いたままの扉をくぐり、暗い身廊を抜けた。後ろにトマの足音と先生の足音がついてきた。
大受領台の前で、膝が笑った。
汐見総合病院の医事課の島が頭に浮かんだ。半分だけ点いた蛍光灯。冷めた缶コーヒー。送信ボタンの上のカーソル。
二十三時四十分。
私は束を、天秤の皿の上に置いた。
鐘が鳴り始めた。
一つ。二つ。三つ。
伝声石からヤルナさんの声がした。
『こっちも、置いた』
十二の鐘が鳴り終わった。
束の縁から光の粒が立ちのぼった。粒は束を包み、天井の闇へ吸い込まれていった。
私は天井を見上げて待った。
赤い札は落ちてこなかった。
代わりに光が降ってきた。
雪のように。いや、雪よりずっと静かに。天井の闇から金色の粒が身廊いっぱいに降りそそいだ。粒は床に落ちても消えず、扉の外へ流れ出していった。石段を下り、広場へ。
扉の向こうで、どよめきが上がった。
広場の戻り人たちが、光っていた。
一人残らず。灰色の輪郭の内側から、ランタンを灯したように。
時任先生が私の隣で自分の右手を見ていた。羽根ペンを握りすぎて指が白く固まっていた。その手のひらが金色に光っていた。前の世界の手術室の無影灯よりも、強く。
トマが扉の外を見つめていた。
そのとき天井の闇から紙片が一枚だけ降ってきた。
白い札だった。
大受領台の皿の上に、音もなく着いた。
私はそれを手に取った。温かかった。
受領。
裏を返した。
夜明けに、門を開く。




