第二十五章 診療情報提供書
時任先生は夜明けまで紹介状を書いていた。
大受領台の前の石段に羊皮紙を何十枚も並べていた。羽根ペンを握る右手を左手で支えながら。
前の病院では紹介状のことを診療情報提供書と呼んだ。患者さんが別の病院へ移るとき、主治医が書く書面だ。病名。これまでの経過。どんな手術をして、どんな薬を出したか。受け取った先の医師がその患者さんを一から知り直さなくて済むように。
医事課はその書面を受け取って写しを取る。宛先を確かめて送り出す。医師に書いてくれるよう頼みに行くのも事務の仕事だった。
時任先生の紹介状は、いつも遅かった。私は付箋を貼り続けた。
その人が今、一枚ずつ書いていた。
宛先は王立施療院の書記長、ロタール修道士。夜明け前に蝋燭を持って来て、先生の隣で書き上がった紙を一枚ずつ束ねていた。灰堀区で診てきた人たちの一人ずつについて。
三番路地の鍋直しの娘、ハナ。古い腕の骨折。冬に痛む。
川岸の男の子、ピム。頸部の膿瘍を切開。傷は閉じた。熱が出たら、すぐに見せること。
摘要は全部先生の字だった。
「……誰が見るんだ、こんなもの」
先生は書き終えた一枚を脇に置きながら言った。
「ロタールさんが見ます。それから、次に診る癒し手さんが」
「俺が帰ったら、か」
「はい」
先生は黙った。羽根ペンの先が羊皮紙の上で止まった。
大受領台の皿の上に昨夜の白い札がまだ載っていた。夜明けに、門を開く。
門が開けば、何が起きるのか。誰にもわからなかった。けれど先生は何かを知っているような手つきで書いていた。
私も書いていた。
先生の隣で、一枚だけ。
宛先。汐見総合病院医事課、小森ひなた様。
紹介元。セグ施療院受付、水無瀬詩織。
◇
最初に気づいたのは、トマだった。
石段の端で毛布にくるまって眠っていたトマが、跳ね起きた。
「床が」
大受領台の足元の石の床に、細い光の線が走っていた。
線は四角を描いていた。人が五人並んで通れるほどの、大きな四角。その縁から白い光が湯気のように立ちのぼっていた。
身廊の奥の暗がりで、灰色の修道服の人が立ち上がった。
赤い衣は脱いでいた。銀髪だけがほの白く光っていた。
「天秤の門です」
その人は言った。昨日まで枢機卿さまと呼ばれていた人だった。
「大受領台の下にある、と古い書には書かれています。天秤院へ通じる門だと。開いたという記録は、どこにもありません」
石の床が音もなく沈んでいった。
四角い穴の底に、白い光でできた階段が現れた。どこまでも下へ続いていた。
大聖堂の正面の扉の向こうで、ざわめきが起きた。
広場の戻り人たちが動き始めていた。
縄はもう、誰も握っていなかった。光る人影が一人、また一人と石段を上がってくる。扉をくぐって身廊を進む。私たちの前を通り過ぎ、門の階段を下りていく。
光の中で、顔が戻っていた。
腰の曲がったリタさんがペトさんに手を振った。しわだらけの、笑った顔だった。オーダさんが洗濯で荒れた手を胸の前で合わせた。片腕のトーベさんは自分の行に署名した人のほうを見た。首をかしげるように会釈した。
ペトさんが扉の脇で声を上げて泣いていた。若い聖騎士がその肩を叩いていた。自分も泣いていた。
辺境伯さまが扉の柱にもたれて腕を組んでいた。頬の刀傷が朝の光で白く見えた。今朝は笑わなかった。光る人影が通るたびに、一人ずつ小さくうなずいていた。
伝声石が光った。
『シオリ。セグの受領台の下の床が、光ってる』
ヤルナさんの声だった。
『戻り人が、みんな降りてく。ウルラ婆ちゃんが手を振ってる』
石の向こうのざわめきが少しだけ遠ざかった。
『……ヨルの札、帯から外さないって。お守りにするって』
◇
最後の一人が身廊を歩いてきた。
青い紐の人影だった。
光の中で輪郭がはっきりしていった。肩にかかる栗色の髪。そばかすの散った頬。少し上を向いた鼻。
私は息を止めた。
水盥で毎朝見ている顔だった。私が借りている顔。
ニナさんは門の手前で立ち止まった。
トマのほうを見た。それから私のほうを見た。
初めて、目が合った。
灰色の目だった。トマと同じ色の。
ニナさんの唇が動いた。
「トマを」
囁きではなかった。少しかすれた、まっすぐな声だった。十七歳の少女の。
「お願い」
一度だけ。それきりだった。
喉の奥が熱くなった。何か言わなければと思う前に、口が開いていた。
「お体、お借りします」
ニナさんの目が私を見ていた。
「お名前は、お返しします」
ニナさんは少しだけ笑った。トマが何かをごまかすときと同じ笑い方だった。
それから手を伸ばして、私の髪に触れた。
指が髪を結んだ青い紐を軽く引いた。ゆるんでいた結び目を、きゅっと締め直した。
温かい指だった。
「姉ちゃん」
トマが走った。
ニナさんの胸に飛び込んだ。
今度は腕が霧の中を素通りしなかった。トマの小さな腕が姉の背中にしっかりと回った。
ニナさんがトマの頭を抱いた。首の青い紐に、自分の髪の青い紐を重ねるように頬を寄せた。
トマは声を上げて泣いた。三か月ぶんの声だった。
ニナさんは何も言わなかった。弟の背中をゆっくりと二度叩いた。
それから腕をほどいた。
トマの手から木の札がこぼれ落ちそうになった。ニナさんがそれを受け止め、トマの手に握らせ直した。表に、ニナ。裏に、ニーナ・セラフ。
ニナさんは振り返らずに、門の階段を下りていった。
青い紐の先が白い光の中に見えなくなるまで。
トマは札を握ったまま立っていた。
私はトマの隣に膝をついた。何も言わなかった。言うことは、もう一つもなかった。トマが私の肩に額を押しつけてきた。
大受領台の白い大理石に、私の顔がぼんやり映っていた。栗色の髪。そばかす。さっき門を下りていった人と同じ顔だった。
水盥をのぞくたびに、私はこの顔に謝ってきた。黙って借りていることを。
今朝、初めて謝らずに見た。青い紐の結び目が少しだけきつくなっていた。
◇
門の光が強くなった。
階段の底から風が吹き上げてきた。紙の匂いのする、乾いた風だった。
「……来たな」
時任先生の声がした。
振り向くと、先生の足元の石の床に別の光の線が浮かんでいた。円と、その中の細かな文字。大聖堂の身廊の真ん中に、いつからか描かれていた模様。
「召喚の陣です」
灰色の修道服の人が言った。
「先月、私が描かせました。加護が満ちれば、陣は向こうへも開くと書にあった。……満ちることがあるとは、思っていませんでしたが」
先生の白衣の裾が光の中で揺れていた。
先生は自分の両手を見下ろした。それから石段に並べた紹介状の束を拾い上げ、ロタール修道士に渡した。
「ピムの傷は、あと十日見てやってくれ。膿が戻ったら切り直せ」
「承りました」
ロタール修道士は束を胸に抱いた。
「先生のお名前で、写しを取っておきます。次の癒し手が迷わないように」
「……聖医、とは書くなよ」
「はい。外科医、時任将臣と」
先生は少しだけ口の端を歪めた。
私は自分の書いた一枚を折りたたんだ。
先生の前に立った。
「先生。一通だけ、お願いできますか」
「何だ」
「紹介状です。向こうの医事課へ」
先生は羊皮紙を受け取った。宛名を読んだ。
小森ひなた様。
「……あの派遣の子か」
「はい。中身は、読まないでください」
「読むか」
先生はそれを白衣の内ポケットにしまった。名札の裏側の、胸のところに。
陣の光が先生の膝まで上がってきた。
先生はしばらく私を見ていた。
何かを言いかけて、やめた。
それから背筋を伸ばした。前の病院の医事課の島で査定の通知を振っていたときと同じ姿勢だった。けれど紙は持っていなかった。
「水無瀬詩織さん」
初めて、その名前で呼ばれた。
七年と、三か月。
おい、事務。ではなく。
「……ありがとうございました」
先生は頭を下げた。
短い一礼だった。外科医が手術を終えて執刀助手に下げる角度だった。
「摘要は」
顔を上げて、先生は言った。
「これから、自分で書きます」
私は何も言えなかった。
胸のあたりで首の木札を押さえた。「受」の一字だけの札。前の病院で名札を下げていたのと同じ場所だった。
「はい」
やっとそれだけ言った。
「お待ちしています。……いえ」
首を振った。
「もう、お待ちしません。先生の机には、付箋は貼りません」
先生の目がわずかに見開かれた。
それから笑った。
前の世界でもこの世界でも、見たことのない顔だった。眉間の深い皺が少しだけほどけていた。
「そうしてくれ」
光が先生の胸まで上がった。
白衣の裾が光の粒になってほどけていった。羊皮紙が燃える前の、最後の一瞬のように。
「トマ」
先生が言った。
トマが顔を上げた。
「姉ちゃんの札、なくすなよ」
トマは札を握ったままうなずいた。
光が先生の顔を包んだ。
まばたき一つの間だった。
陣の中にはもう誰もいなかった。石の床の上に、何か小さなものが一つだけ落ちていた。
黒いペンだった。インクの尽きた、前の世界のペン。
私はそれを拾い上げた。軸に小さく刻印があった。汐見総合病院。病院の売店で売っていた、ありふれたペンだった。
手のひらに、ペン先を当ててみた。
何も出なかった。かすれた線の跡さえ残らなかった。
それでも私はそれを前掛けの物入れにしまった。
「先生、どこ行ったの」
トマが陣の消えた床を見つめたまま聞いた。
「前の病院に」
私は言った。
「転院みたいなもの。紹介状を持って」
「紹介状って、さっきの紙?」
「そう。次のところの人が、一から知り直さなくて済むように」
トマは少し考えてから、うなずいた。
「じゃあ、姉ちゃんの紹介状は、これだね」
トマは胸の内側の札を上着の上から押さえた。
私は答えられなかった。トマの頭に、手を置いた。
◇
門の光がゆっくりと沈んでいった。
石の床が持ち上がった。四角い線が細くなり、消えた。大受領台は何事もなかったようにそこに立っていた。
扉の向こうから朝の光が差し込んできた。広場は空っぽだった。縄が一本、石畳の上にとぐろを巻いていた。
灰色の修道服の人が、しばらく門のあった床を見下ろしていた。
「父も母も、ここを通ったのでしょうか」
ぽつりと言った。
「台帳に、お名前があれば」
私が答えると、その人は小さくうなずいた。
「エルマ。……トビ」
口の中で二つの名前を確かめるように言った。それから身廊の奥へ、ゆっくりと歩いていった。
伝声石が光った。
『シオリ。灰堀区は』
ヤルナさんの声だった。
『こっちは、咳が止まった。熱の部屋の子が、みんな起きて粥を欲しがってる。……そっちは』
私は扉の外の朝の街を見た。灰堀区の屋根の煙突から炊事の煙が細く上がっていた。灰色ではない、白い煙だった。
「同じです」
『そっか』
石の向こうでヤルナさんが長い息を吐いた。
『早く帰ってきな。机が足りない』
「はい」
光が消えた。
トマが私の袖を引いた。
「シオリ。帰ろう、セグに」
「うん」
トマはニナさんの札を首の青い紐に通し、胸の内側にしまった。
それから私に背中を向けて、上着の物入れに何かを押し込んだ。
木の札だった。
半分だけ彫りかけた、まだ字の入りきらない札。最初の一画だけがはっきりと刻まれていた。
トマはそれを私に見えないように隠したつもりらしかった。




