第二十六章 受付
十一月十日、午後十時。水無瀬さんの席には今夜も誰も座っていない。
医事課の島の、窓のない端の机。パソコンは片づけられた。引き出しにはまだ黄色い付箋の束が残っている。誰も捨てられなかった。
外科の担当は先月から私になった。
派遣の二年目で外科を持つのは早い、と課長は言った。でも、ほかにいなかった。水無瀬さんの七年ぶんの仕事を誰も知らなかったから。
画面には外科の入院の明細が並んでいる。手術料。麻酔料。材料。摘要の欄。
また、空だった。
時任先生の症例だった。
私は付箋を一枚はがしかけて手を止めた。水無瀬さんの付箋と同じ黄色だった。
ドアが開いた。
白衣の裾が見えた。部屋に残っていた三人がいっせいに背中を固くした。あの声が来る。おい、事務。
「小森さん」
時任先生が私の名前を呼んだ。
私は顔を上げた。先生は私の机の横に立っていた。目の下にひどい隈があった。白衣の袖口に焦げたような小さな穴があいていた。
「摘要、書いておいた」
先生はカルテの印刷の束を机に置いた。一枚目の摘要の欄に右上がりの荒っぽい字があった。
「今月の外科の分は、全部だ。足りなければ聞きに来てくれ。手術中なら、看護師に伝言でいい」
「……はい」
「それから」
先生は白衣の内ポケットから何かを取り出した。
折りたたんだ紙だった。紙というより、皮のような。端がけば立っていて、かすかに蜜蝋と煙の匂いがした。
「預かりものだ」
先生は言った。
「紹介状だそうだ。お前宛ての」
それだけ言って、先生は部屋を出ていった。ドアの閉まる音がいつもより静かだった。
私は紙を開いた。
見覚えのある字だった。毎月、時任先生の書類箱の中で見ていた字。几帳面で少し右に傾いた字。
紹介先。汐見総合病院医事課、小森ひなた様。
紹介元。セグ施療院受付、水無瀬詩織。
傷病名。本人申告未了。治癒。
経過。七年間、聞くべきことを聞かずに黙って直してきました。あなたは「わかんないなら聞けばいい」と言ってくれました。私は「自分で調べて」と言い続けました。間違っていたのは、私のほうでした。
紹介目的。
聞いていいです。照会は恥ではありません。私はずっと、それができませんでした。
あなたの名札は表を向いていますか。
私は自分の胸元を見た。
首から下げた白い名札が、くるりと裏を向いていた。クリップがゆるんでいるのだ。
私はそれを表に直した。医事課、小森。
付箋の束を引き出しに戻した。
立ち上がってカルテの束の二枚目を持った。摘要に一か所だけ読めない字があった。
廊下の先で、先生の白衣の背中が角を曲がろうとしていた。
「先生!」
声が思ったより大きく出た。先生が振り向いた。
「小森です」
私は言った。
「照会させてください」
◇
実の月の九日、午後。私の名札は今日も表を向いていた。
首から下げた、木の札だった。
表に、シオリ。裏に、水無瀬詩織。番号はない。
去年の冬、セグに帰る荷車の上でトマが渡してくれた。王都の大聖堂で隠していた、あの彫りかけの札だった。最初の一画だけだった字は、帰り道の船と荷車の上で全部彫り上がっていた。
「姉ちゃんの札と、おんなじ木だから」
トマはそう言って、そっぽを向いた。前の「受」の札は書記室の釘に掛けてある。
銀の資格証はもらわなかった。
春の初め、セグの受領台に天秤院から白い札が一枚落ちてきた。本人申告受理。資格、受付。それで十分だった。名を名乗る者の札は、名乗る声と同じ重さを持つ。辺境伯さまはそれを読んでまた大笑いした。
教会は改名令を取り消した。
布告に署名したのは、新しい枢機卿さまだった。前の枢機卿さまは冬のうちに赤い衣を返していた。
◇
セグ施療院の門の前には、今朝も列ができていた。
押し合う人の群れではない。札を手にした人たちが日向に並んで順番を待っていた。
受付台はもう戸板と樽ではなかった。ガルドさんが猪一頭と引き換えに隣村の大工から買ってきた本物の机だった。脚が一本だけ短くて、トマが木っ端を噛ませてある。
机の向こう側に、私が座っている。
隣に、新しい受付が二人。
一人はルッツという若者だった。去年の冬まで、王都の大聖堂で聖騎士をしていた。広場で真っ先に松明を地面に置いた、あの若い聖騎士だ。お爺さんを門の向こうへ見送ったあと、鎧を返してセグまで歩いてきた。
「字が書けないので、名前を聞く仕事ならできるかと思って」
最初の日、ルッツはそう言った。今は自分の名前と百ほどの古い名を書ける。
もう一人は白い髪の人だった。
書記室の奥の机で受付簿の写しを作っている。灰色の上着の袖をまくって、一字ずつゆっくりと。手が少し震えるので羽根ペンを短く持つ。
カイさんだった。
去年の冬、雪の峠を越えて一人でセグに来た。施療院の門の前に立って私に言った。
「書記の見習いを、雇っていただけますか」
ウルラさんがその場で泣き出した。それからカイさんの背中を力いっぱい叩いた。
カイさんは今、ウルラさんの家の離れに住んでいる。夜になると、ウルラさんが村の古い名前を一つずつ話して聞かせる。カイさんはそれを書き留める。羊飼いのトビ。機織りのエルマ。井戸の隣の家の、誰それ。
焼かれた戸籍の代わりに、もう一冊の台帳ができつつあった。
「ミナセさん」
カイさんが書記室の戸口から顔を出した。
「ここの字は、セグの読み方でよろしいですか。長く伸ばすほうで」
「はい。伸ばすほうです」
「ありがとうございます」
カイさんはほんの少しだけ笑った。それから机に戻った。
施療院の奥からヤルナさんの声が聞こえた。
「なんで? なんで薬草、勝手に煎じてんの。あたしに聞けって言ったよね」
「聞いたら、自分で調べろって言われそうで」
「言うわけないじゃん。……なんで笑ってんの、シオリ」
私は笑っていないふりをした。
門の脇の日だまりでは、トマが木っ端に小刀を当てていた。十一歳になった。春から隣村の木工の親方のところに通い、本物の徒弟になった。それでも締めの前の日だけは帰ってきて番号札を彫る。首の青い紐にはニナさんの札が通してある。
◇
昼過ぎ、列の最後に女の子が一人並んだ。
十二、三歳くらい。痩せていて、裸足だった。手に何も持っていなかった。札も籠も。両手を体の前でぎゅっと握りしめて、机の前で立ち止まった。
山向こうの訛りだった。霜の月から峠を越えてくる人が増えていた。
女の子は私の顔を見なかった。机の端の木目だけを見ていた。
唇が震えていた。何か言わなければいけないと思っている顔だった。言ったら、何かを取り上げられると思っている顔だった。
私は知っていた。その顔を。
セグの施療院の水盥で、毎朝のぞいていた顔だった。
私は首の札を少しだけ前に引いた。表の字が女の子に見えるように。
「受付の、水無瀬です」
女の子が顔を上げた。
「お名前を、ご自分の声で教えてください」
長い沈黙だった。
日だまりで、トマの小刀の音が止まった。
「……アン」
小さな声だった。
「アン、です」
女の子の頭の上に窓が浮かんだ。名簿の名の欄は空っぽだった。台帳の名の欄に、アン。
「アンさん」
私は受付簿に書いた。台帳の名、アン。
「ようこそ。お待ちしていました」
トマが立ち上がって日だまりから木っ端を一枚持ってきた。小刀の先ですぐに彫り始めた。
◇
夜、書記室に灯りをともした。
獣脂ではなく、蜜蝋だった。辺境伯さまが王都から箱で送ってくれたものだ。
その夜の最初の一本は施療院の裏の丘に持っていった。
ハルヴァンさんのお墓だった。
石には名前が一つだけ彫ってある。ハルヴァン。名簿の名は彫らなかった。カイさんが石を選び、トマが字を彫った。
私は墓の前に蜜蝋を立てて火をつけた。
月に一度、締めの前の夜にそうしている。
「今月も、締めます」
声に出して言った。風が炎を少し揺らした。
「明日の終の鐘までに」
書記室に戻ると、机の上に受付簿が積んであった。今月の施療明細の下書きがその横に並んでいた。
ヤルナさんが向かいの席で頬杖をついていた。カイさんが写しの最後の頁をめくっていた。ルッツは隅の藁の上でもう眠っていた。トマも。
私は総括表を作った。
今月、九百十二行。月遅れ、なし。
一行ずつ受付簿と突き合わせていった。帳面の行がほの白く光っていく。
四百行目のあたりで、指が止まった。
光らない行が一つあった。
番号が一つずれていた。私の字だった。昼間、アンさんの札の番号を書くときに前の人の番号を写してしまったのだ。
机の端に、小刀があった。
私はそれに手を伸ばさなかった。
代わりに顔を上げた。
「すみません、間違えました」
ヤルナさんが頬杖をついたまま目を開けた。カイさんがペンを止めた。
「確認させてください。アンさんの札の番号、トマは何番で彫りましたか」
「起こす?」
ヤルナさんが言った。
「起こさなくていいです。札の控えが、ここに」
私は控えの箱を開けた。トマの彫った木札の、片割れ。いちばん上に昼間の一枚があった。
「千八百九十一」
「そっか。じゃあ、そこだけ直せばいいね」
ヤルナさんはそれきりまた目を閉じた。
間違えた行に線を一本引いた。その横に正しい番号を書いた。受付の誤記。訂正。
カイさんが向かいの机からそれをのぞき込んでいた。
「黙って直さないのですね」
「はい」
私は言った。
「黙って直すと、誰も一緒に見られないので」
カイさんはしばらく私の書いた線を見ていた。それからゆっくりとうなずいた。自分の写しの中の一行に同じように線を引いた。
総括表のいちばん下の欄に数を書いた。
返戻の見込み、なし。
受付簿を閉じた。書記室の小窓の向こうで、丘の上の蜜蝋がまだ小さく灯っていた。
◇
十日の終の鐘で、明細の束は光の粒になって天井へ消えた。
翌朝、夜明けの鐘のあとだった。
祈りの部屋の受領台に、紙片が一枚落ちてきた。
赤かった。
ルッツが真っ青な顔で書記室に駆け込んできた。その手の中で札がひらひらと揺れていた。
「一枚だけ?」
ヤルナさんが粥の椀を持ったまま聞いた。
「一枚だけです」
私は札を受け取った。羊皮紙のように硬く、ほんのり温かかった。
一年前の実の月にも、私は同じ温かさの札を拾った。この施療院の祈りの部屋で。目を覚ましたばかりの夜に。あのときは何が書いてあるのかもわからなかった。
裏を返した。
氏名、アン。
返戻事由。山向こうの者、資格の確認を要す。
カイさんが私の肩越しに札をのぞき込んだ。
「山向こうの名簿は、王国の教会にはありません。どうなさいますか」
「アンさんに、もう一度来てもらいます」
私は言った。
「生まれた村の名前と、お母さんの名前を。ご自分の声で」
「天秤院には」
「照会を出します。山向こうの人の資格は、本人の申告で突き合わせてよいか」
カイさんは目を細めた。それから小さくうなずいて、書記室の奥の棚から新しい羊皮紙を一枚出してきた。
ヤルナさんが粥をすすりながら笑った。
「なんで嬉しそうなの」
「嬉しくはないです」
「顔が嬉しそうなんだよ」
日だまりのほうからトマの小刀の音が聞こえてきた。新しい札を彫る音だった。
私は赤い札を、書記室の机の真ん中に置いた。みんなに見えるように。
それから声に出して言った。
「今月の返戻、一件。――直して、出し直します」




