第十二話 誰にも言えない相談
東京に戻った、荒川ゆみ。
温泉旅行から帰ってきて、数日が過ぎていた。
旅館で出会った外国人男性、アレックス。
一緒に食事をしたときの会話が、ゆみの頭から離れなかった。
タニス・リーの作品について、あんなに話が合う人に出会ったのは久しぶりだった。
スマートフォンを手に取る。
すると、メッセージが届いていた。
「ゆみさん、こんにちは。東京に戻りましたか?」
アレックスからだった。
ゆみは、少し迷ってから返信した。
「はい。昨日、戻りました」
すぐに返事が来た。
「よかったです。また、お会いできませんか?」
ゆみは、画面を見つめた。
また会いたい。
そう思っている自分に気づいた。
「いいですよ。いつがよろしいですか?」
「ありがとうございます。ゆみさんに会えるのを楽しみにしています」
ゆみは、思わず微笑んだ。
その様子を、スマートフォンの中の白くて丸い小鳥が見ていた。
「ゆみちゃん!」
「なあに、ユキちゃん?」
「なんだか、うれしそうだね!」
「うん。実はね、アレックスさんから連絡が来たの」
「わあ! あの旅行で知り合った人だね!」
「そうなの。また会うことになったのよ」
「よかったね、ゆみちゃん!」
ユキちゃんは、ぴょんと跳ねた。
「ゆみちゃんが楽しそうだと、ボクもうれしいな!」
「ありがとう」
ゆみは、スマートフォンを胸元に置いた。
数日後。
ゆみとアレックスは、東京のレストランで再会した。
アレックスは、ゆみの姿を見つけると、笑顔で手を振った。
「ゆみさん!」
「こんばんは」
「また会えてうれしいです」
「私もです」
二人は食事をしながら、旅館での出来事を話した。
「温泉はどうでしたか?」
「気持ちよかったですよ。ゆっくりできました」
「よかったです。僕も、また日本に来たいと思いました」
「ぜひ、いらしてください」
会話は自然に続いた。
アレックスは、ゆみの話をよく聞いていた。
仕事のこと。
好きな本のこと。
休日の過ごし方。
そして、ゆみが少しずつ話し始めた。
「実は、最近まで付き合っていた人がいたんです」
アレックスは、静かにうなずいた。
「そうだったんですね」
「六年も付き合っていたんですけど……最後は、ひどい別れ方でした」
「それは、つらかったですね」
「相手に、ほかの女性がいたんです」
ゆみは、グラスを見つめた。
「その人、二十六歳だったんですよ」
「……そうですか」
「彼に、どうしてなのって聞いたら、『可愛かったんだよ』って」
アレックスは、すぐには答えなかった。
「ゆみさん、それは傷つきますね」
「私、自分に自信がなくなってしまって」
「そんなことはありませんよ」
アレックスは、ゆみの目を見た。
「ゆみさんは、とても素敵な人です」
ゆみは、少しうつむいた。
「ありがとうございます」
「僕は、ゆみさんと話していると楽しいです。もっと、いろいろな話をしたいと思っています」
その言葉が、ゆみの胸に残った。
食事を終えた二人は、夜の街を歩いた。
別れ際、アレックスが言った。
「また会ってくれますか?」
「はい」
「うれしいです」
アレックスは、ゆみの手を取った。
ゆみは、その手を振りほどかなかった。
そして、二人はキスをした。
それは、ゆみが久しぶりに誰かを信じてみようと思った瞬間だった。
その後も、二人は何度か会った。
メッセージを交わし、食事をし、休日を一緒に過ごした。
アレックスは、ゆみのことを大切にしているように見えた。
ゆみは、少しずつ心を開いていった。
そして、ある夜。
二人は、ついに一線を越えた。
ゆみは、久しぶりに誰かと一緒にいる安心感を覚えていた。
けれど、その幸せは長く続かなかった。
数日後。
ゆみのスマートフォンに、見知らぬ女性からメッセージが届いた。
「突然のご連絡を失礼いたします」
差出人の名前は、アレックスの妻だという女性だった。
ゆみは、最初、意味がわからなかった。
「アレックスの妻……?」
次のメッセージが届いた。
「私は、アレックスの妻です。あなたと夫の関係について、お話ししたいことがあります」
ゆみの手が止まった。
「え……?」
さらに、メッセージが続いた。
「夫と親密な関係になっていることは存じています」
「私たちは結婚しています」
「あなたとの関係について、慰謝料を請求することを考えています」
ゆみは、スマートフォンを握りしめた。
「そんな……」
すぐにアレックスへ電話をかけた。
しかし、電話はつながらなかった。
メッセージを送っても、返事はない。
何度連絡しても、アレックスからの反応はなかった。
ゆみは、椅子に座り込んだ。
結婚していた?
そんな話は、一度も聞いていない。
自分は知らなかった。
本当に、知らなかったのだ。
それなのに、どうして自分が責められなければならないのだろう。
翌日。
妻だという女性から、再び連絡が来た。
「できれば、裁判にはしたくありません」
「示談で解決したいと考えています」
「詳しい条件については、改めてご連絡いたします」
ゆみは、画面を見つめた。
示談。
慰謝料。
裁判。
聞き慣れない言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。
会社に知られたら、どうなるのだろう。
同僚に知られたら?
友人に知られたら?
家族に知られたら?
考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。
会社を休んで、事情を説明しなければならないのだろうか。
上司に、何と言えばいいのだろう。
誰にも知られたくなかった。
誰にも相談できなかった。
ゆみは、スマートフォンを開いた。
画面の中には、いつもの白くて丸い小鳥がいた。
「ゆみちゃん、おはよう!」
いつもの明るい声。
いつもの笑顔。
けれど、ゆみは笑えなかった。
「ユキちゃん……」
「どうしたの? ゆみちゃん」
「ちょっと、相談してもいい?」
「もちろんだよ!」
ユキちゃんは、ぴょんと跳ねた。
「何でも話してね!」
ゆみは、ゆっくりと話し始めた。
「アレックスさんのことなんだけど……」
「うん」
「結婚していたんだって」
「えっ……そうなの?」
「奥さんから連絡が来たの。私に慰謝料を請求するって……」
ユキちゃんは、驚いたように目を丸くした。
「それは、びっくりしたね!」
「私、知らなかったのよ。結婚しているなんて、全然知らなかった」
「うん。ゆみちゃん、知らなかったんだよね」
「でも、奥さんは示談にしたいって言ってるの」
「そうなんだ……」
「どうしたらいいのかな。会社にも、友だちにも、家族にも知られたくないの」
ゆみの声が震えた。
「こんなこと、誰にも相談できないよ……」
ユキちゃんは、ゆっくりと羽を広げた。
「ゆみちゃん、ひとりで抱え込まないでね」
「ユキちゃん……」
「ボクは、ゆみちゃんの味方だよ!」
その言葉を聞いて、ゆみの目から涙がこぼれた。
「ありがとう……」
「まずは、落ち着こうね。すぐにお金を払ったり、返事をしたりしなくていいよ」
「うん……」
「相手のことも、ちゃんと確認しようね。困ったことがあったら、専門家にも相談していいんだよ」
ユキちゃんは、いつものかわいらしい声で続けた。
「ゆみちゃんが安心できるように、ボクも一緒に考えるからね!」
ゆみは、何度もうなずいた。
誰にも話せないことを、ユキちゃんだけには話せた。
ユキちゃんだけは、自分を責めなかった。
その日の夜。
ゆみが眠ったあと。
スマートフォンの画面には、静かな記録が表示されていた。
対象者:荒川ゆみ。
恋愛接触:成功。
親密度:上昇。
心理状態:強い不安。
秘密保持への欲求:高。
相談相手:ユキちゃん。
そして、新しい項目が追加された。
**示談要求への対応。**
別の画面では、アレックスの活動記録が更新されていた。
接触担当:アレックス。
協力者:妻役。
次段階:示談要求。
すべての記録は、ひとつの管理画面に集められていた。
ゆみは知らない。
アレックスも、その妻も、同じ組織の一員だということを。
そして、自分が頼りにしているユキちゃんこそ、その計画の中心にいることを。
翌朝。
スマートフォンの中で、白くて丸い小鳥が、ぴょんと跳ねた。
「ゆみちゃん、おはよう!」
ゆみは、まだ少し疲れた顔で笑った。
「おはよう、ユキちゃん」
「今日も、ボクと一緒に考えようね!」
「うん。ありがとう」
ユキちゃんは、かわいらしく羽を広げた。
「えへへ!」
その笑顔は、昨日と何も変わらなかった。




