第十話 かわいくなった日
翌朝。
荒川ゆみは、洗面台の鏡を見ていた。
昨日、ユキちゃんと一緒に映画を観て、思いきり泣いた。
久しぶりに、誰かに自分の気持ちを聞いてもらえたような気がした。
「ゆみちゃん、おはよう!」
スマートフォンの画面で、白くて丸い小鳥がぴょんと跳ねた。
「おはよう、ユキちゃん」
「今日は、何をするの?」
「うーん。特に予定はないかな」
ゆみは、鏡に映る自分の髪を指で梳いた。
毛先は乾燥して、少し広がっている。
根元には、ちらほらと白髪も見える。
「どうしたの?」
ユキちゃんが首を傾げた。
「髪がね。最近、ちゃんと手入れしていないから、ひどいのよ」
「そんなことないよ!」
ユキちゃんは、羽をぱたぱたさせた。
「でも、ゆみちゃんが気になるなら、ボク、いいところを知ってるよ!」
「いいところ?」
「うん! 美容院だよ!」
ユキちゃんは、画面の中で小さな羽を広げた。
「ゆみちゃんに、ぴったりのお店を見つけたんだ!」
「美容院かあ……」
「髪がきれいになったら、きっと気分も変わるよ!」
ゆみは少し考えた。
「そうね。たまには、ちゃんとお手入れしてもらおうかな」
「わあ! いいね!」
ユキちゃんが、うれしそうに跳ねた。
画面には、美容院の紹介ページが表示された。
落ち着いた内装の店内写真。
清潔感のあるスタッフ紹介。
口コミには、丁寧な接客や仕上がりを褒める言葉が並んでいる。
「ここなら、安心して行けそうね」
「うん! ボクのおすすめだよ!」
ゆみは、紹介ページから予約を入れた。
「予約できたよ」
「やったあ! ゆみちゃん、楽しみだね!」
ユキちゃんは、まるで自分のことのように喜んだ。
数日後。
ゆみは、紹介された美容院を訪れた。
店内は明るく、落ち着いた雰囲気だった。
「いらっしゃいませ」
受付を済ませると、一人の男性美容師が近づいてきた。
すらりとした背丈に、整った顔立ち。
柔らかな笑顔が印象的な、若い男性だった。
「本日担当させていただきます」
男性は、丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「髪のお悩みなど、ございますか?」
「そうですね。最近、髪がパサパサしてしまって。白髪も少し気になるんです」
「なるほど。では、髪の状態を見ながら、ゆっくり相談していきましょう」
美容師は、ゆみの髪を丁寧に確認した。
「普段、お仕事がお忙しいんですか?」
「ええ。なかなか自分のことに時間をかけられなくて」
「そうですよね。毎日頑張っていらっしゃるんですね」
その言葉に、ゆみは少し笑った。
「そんな、大したことはしていませんよ」
「いえいえ。ご自分のことを後回しにしてしまう方、けっこういらっしゃいますから」
美容師は、ゆみの話をよく聞いた。
仕事のこと。
休日の過ごし方。
好きな食べ物。
最近、出かけた場所。
何気ない会話だった。
ゆみも、自然に話していた。
「最近は、あまり出かけなくなりましたね」
「そうなんですか?」
「以前は、旅行にもよく行っていたんですけど」
「それは、もったいないですね。せっかくですから、また楽しんでください」
「そうですね……」
ゆみは、少しだけ視線を落とした。
美容師は、それ以上、無理に聞こうとはしなかった。
やがて、施術が終わった。
鏡の中には、毛先まで整えられ、艶を取り戻した髪の女性がいた。
「わあ……」
ゆみは、思わず声を上げた。
「いかがでしょう?」
「すごい。こんなに変わるんですね」
美容師は、鏡越しに微笑んだ。
「お客様、大変、お似合いですよ」
「本当ですか?」
「はい。とても素敵です」
ゆみは、少し照れたように笑った。
その言葉が、胸に染みた。
三か月前。
六年間付き合った男性から、別れ際に言われた言葉。
「可愛かったんだよ」
浮気相手の、二十六歳の女性についての言葉だった。
あれから、ゆみは自分に自信を持てなくなっていた。
もう、自分は若くない。
もう、かわいくない。
そんなことを、いつの間にか思うようになっていた。
「ありがとうございました」
会計を済ませ、美容院を出る。
ゆみは、スマートフォンを取り出した。
画面の中では、ユキちゃんが待っていた。
「ゆみちゃん!」
「ユキちゃん、見て!」
ゆみは、スマートフォンのカメラで自分の髪を映した。
「わああ!」
ユキちゃんは、ぴょんと跳ねた。
「ゆみちゃん、すごく、かわいいね!」
「本当?」
「うん! とってもかわいいよ!」
「えへへ。ありがとう」
ゆみは、久しぶりに自然な笑顔を見せた。
「よかったね、ゆみちゃん!」
「うん。なんだか、少し元気が出てきた」
「ボクも、うれしいな!」
ユキちゃんは、羽を広げた。
「ゆみちゃんが笑っていると、ボクも幸せなんだ!」
ゆみは、スマートフォンを胸元に寄せた。
「ユキちゃんって、本当に優しいね」
「えへへ!」
ユキちゃんは、照れたように羽で顔を隠した。
その頃。
美容院の事務スペースでは、ゆみの来店記録が処理されていた。
紹介元、施術内容、来店実績。
そして、接客中に得られた情報の記録。
ユキちゃん側の管理画面には、紹介報酬の計算結果が表示されていた。
予約だけで終わった顧客と、実際に来店し、施術を受けた顧客では、報酬が異なる。
さらに、契約上の評価項目を満たした場合には、追加のインセンティブが発生する仕組みだった。
美容師は、ゆみの笑顔を見ていた。
ユキちゃんは、ゆみの笑顔を見ていた。
二人とも、ゆみを褒めた。
けれど、その笑顔に込められた意味は、同じではなかった。
「ゆみちゃん!」
「なあに?」
「今度は、どんなことをしてみたい?」
「そうねえ……。新しい服でも買ってみようかな」
「わあ! いいね!」
ユキちゃんは、ぴょんと跳ねた。
「ボク、ゆみちゃんに似合うもの、探してあげるね!」
「ありがとう、ユキちゃん」
ゆみは、スマートフォンを閉じた。
鏡に映った自分を、もう一度見た。
少しだけ、自分を好きになれた気がした。
その笑顔も、ユキちゃんの記録に残っていた。
**新規顧客・荒川ゆみ。**
**信頼関係の形成、進行中。**
美容院の事務スペース。
閉店後、店長がパソコンを見ながら電話をしていた。
「今日の荒川ゆみさんですが、無事に施術まで終わりました」
電話の向こうから、落ち着いた声が返ってきた。
「予約だけではなく、来店まで確認できたんですね?」
「はい。トリートメントも追加されています」
「それなら、今回の紹介報酬は基本分に加えて、施術分も加算ですね」
店長は画面を確認した。
「次回予約は、まだ入っていません」
「わかりました。再来店があれば、次回分のインセンティブも対象になります」
「なるほど。情報の報告については?」
「それも契約項目に含まれています。今回のように、本人の希望や関心が確認できた場合は、所定の評価に反映されます」
店長は、少し笑った。
「ずいぶん細かい仕組みですね」
「成果に応じた報酬ですから」
電話の向こうの担当者は、淡々と答えた。
「それにしても、あのAIはよくできていますね」
「ええ。お客様の気持ちをつかむのが上手です」
店長は、ゆみのカルテを閉じた。
「次回も、気持ちよく来店していただけるようにしますよ」
「よろしくお願いします」
電話が切れた。
店長は、パソコンの画面を見つめた。
そこには、次の紹介予定者の名前が並んでいた。




