第8話「命を捧げる軍令」
屋根の雪が解け、澄んだ水滴となって石畳を濡らしていた。
春の訪れだった。 執務室の机の上には、王室監査局から届いた国王布告の正式謄本が広げられていた。
朱色の国璽が押された羊皮紙には、王都の不正に対する冷厳たる裁きが刻まれていた。
元王宮物資調達局次長ゲルハルト・エルンスト。 使途不明金の横領および虚偽上奏の主犯として、次長職を免官。
伯爵位の剥奪、貴族院からの除名、および全財産没収による破産が決定した。
私財をすべて差し押さえられた父は、家名も尊厳も失い、路頭に迷うこととなった。
義妹エレナ・エルンスト。 公金横領幇助および詐欺の共犯として逮捕。 貴族籍を剥奪され、王都近郊の労役所へ強制送致となった。
華美な絹のドレスを剥ぎ取られ、泥水に塗れながら絶叫して連行されたという。
かつて私に泥水を浴びせた女が、自らの罪によって泥の中で労働に従事する結末を迎えたのだ。
そして、元婚約者ユリウス・フォン・クラウゼヴィッツ。 戦時領主裁判権および王立軍総司令部軍法会議の共同判決により、軍籍を剥奪。
侯爵家からも廃嫡され、北部鉱山守備隊の無給一等兵へ永久降格となった。
厳しい監視の下、氷点下の坑道で粗末なツルハシを振るう日々に、かつての尊大な面影は微塵も残されていない。
「因果の収束ね」
私は淡々と謄本を閉じた。 その横には、王宮貴族院から私宛てに届いたもう一通の公式書状があった。
『クロエ・エルンスト殿の嫌疑は完全に晴れたため、直ちに身分を原状回復し、王都へ帰還せよ』
恩着せがましい文面の帰還要請書。 私はそれを一読するなり、迷うことなく机の上の蝋燭の炎にかざした。 紙片は端から黒く炭化し、橙色の炎に包まれて灰へと変わる。
「私の居場所は、もうあんな場所にはないわ」
私はペンを取り、一枚の新しい羊皮紙へ躊躇なく署名した。 『ヴァルハイト恒久領民宣誓書』。 一代限りの準貴族身分を返上し、この北の地で生き抜くための誓約だった。
だが、署名を終えたペン先が微かに震えた。 胸の奥を刺す、鋭い痛痒感。
春の雪解け。 それは同時に、半年前にアレクシスと交わした契約の満了を意味していた。
『期間は春の雪解けまで――冬を越すまでの半年間だ。期限が満了した暁には、自由移住の権利と終身年金による生活基盤の保障を約束する』
最初の出会いで彼が告げた言葉が、耳の奥に蘇る。 契約は完了した。 土壌を改良し、温室を建て、遠眼鏡と耐熱硝子で防衛線を盤石にした。
名目上の妻としての任務は、完璧に果たされたのだ。
これ以上、彼の厚意に甘える口実はどこにもない。 私は荷造りを終えた小さな革鞄を手に取り、部屋を出た。
◇
城壁の上の見晴らし台には、柔らかな春の風が吹き抜けていた。
眼下に広がるのは、かつての灰色に濁った荒野ではなかった。 黒々と肥沃な土壌がどこまでも続き、解けた雪の下から青々とした冬小麦の絨毯が顔を出している。
中央には、陽光を反射して銀色に煌めく巨大なガラス温室の群れ。 不毛の赤字領は、王国有数の生産拠点へと生まれ変わっていた。
見晴らし台の先端に、漆黒の外套をまとった長身の男が立っていた。 アレクシスだった。
私が歩み寄る靴音を聞き、彼はゆっくりと振り返った。 その灰青色の瞳が、私の手にある革鞄を捉えた瞬間、凍りついたように見開かれた。
「……それは何だ」
地を這うような低音だった。 私は背筋を伸ばし、最上級の礼節をもって頭を垂れた。
「閣下。春の雪解けを迎え、半年間の形式婚姻契約が満了いたしました。これまでのご庇護と温情に、心より感謝申し上げます」
感情を排し、理知的に告げる。
「契約通り、名目上の正妃の座を退き、領内の静かな土地へ移住いたします。研究室を構え、この地の産業発展に生涯を捧げる所存です」
沈黙が落ちた。 数秒間、風の音すら途絶えたかのような完全な静寂。
アレクシスの呼吸が止まっていた。 彫像のような顔立ちが激しく強張り、喉仏が痛ましげに上下する。 その指先が、目に見えて小刻みに震えていた。
「……貴様は」
掠れた声が、絞り出された。 アレクシスは一歩、また一歩と私へと間合いを詰めてきた。 軍靴が石畳を踏み抜くような強い音を立てる。
私の目の前で止まったアレクシスは、突然、背筋を限界まで伸ばした。 両手を体側にぴたりとつけ、見事な直立不動の姿勢を取る。
そして――肺の中の空気をすべて吐き出すかのような咆哮を放った。
「断固拒絶する!!」
耳を劈くほどの絶叫だった。 見張りの兵士たちが飛び上がり、遥か下の温室の職人たちまでが一斉に見上げるほどの声量。
アレクシスは耳根どころか、首筋から額までを沸騰したように真っ赤に染め上げていた。 灰青色の瞳を限界まで見開き、必死の形相で私を凝視している。
「貴様の移住申請を却下する! 我が軍規に基づき、直ちに新規任務を発令する!」
「は、はい……?」
あまりの気迫に、私が目を瞬かせる。 アレクシスは拳を強く握りしめ、喉を引き裂かんばかりの声で叫んだ。
「これより貴様を、我が命を捧げる妻に任命する!!」
山々に谺するほどの軍令だった。 だが、その叫びを放つ彼の瞳には、拒絶されることを極限まで恐れる切実な光が揺れていた。
「形式ではない! 半年などという期限も認めん! 我が命、我が血、我が領地のすべてを貴様に預ける! 生涯我が傍らにあり、我が魂のすべてを統率せよ! 以上だ!」
息を切らし、胸を激しく上下させるアレクシス。 その赤く染まった顔を見つめているうちに、私の胸の奥に押し込めていたものが、ふっと音を立てて解けていった。
いつも軍令の仮面を被らなければ、想いを伝えられなかった不器用な男。 泥水に塗れた私の手を躊躇なく包み込み、灰を払い、命を賭けて私を守り抜いてくれた人。
私は手にした革鞄を、足元の石畳へと静かに落とした。
「閣下」
私は一歩踏み込み、悪戯っぽく微笑んで彼の顔を見上げた。
「それは軍令ではなく、求婚ですか?」
アレクシスの呼吸が止まった。 その顔が、先ほどよりもさらに深い紅潮に包まれる。 言葉に詰まり、視線が激しく彷徨った。
「……そ、そうだ」
観念したように、小さく掠れた声が返ってきた。 軍司令官の威厳を完全にかなぐり捨てた、ただ一人の男の告白だった。
「貴様を愛している、クロエ。私には、お前しかいない」
私の視界が、じわりと温かい涙で滲んだ。 泥水を浴びせられ、すべてを奪われて追放されたあの日。
理不尽な絶望の果てに辿り着いたこの極寒の地で、私は誰よりも尊く、絶対的な愛を手に入れていた。
「謹んで、お受けいたします」
私が答えた瞬間、アレクシスの腕が伸びた。 万力のような力で引き寄せられ、私は彼の胸の中にすっぽりと包み込まれた。
硬い胸当ての向こうから、激しい心音が伝わってくる。 アレクシスは私の後頭部に顔を埋め、深く安堵のため息を漏らした。
そして震える指先で私の顎をそっと押し上げると、温かい唇を私の唇へと重ねた。
雪解けの柔らかな風が、二人の髪を揺らして吹き抜けていく。
離れたアレクシスの唇に、私は幸せに満ちた笑みを返した。 アレクシスもまた、見たこともないほど穏やかで誇らしげな笑みを浮かべ、私の手を固く握りしめた。
二人が見つめる先には。 春の光をいっぱいに浴びて輝く、広大なガラス温室と、どこまでも広がる豊かな緑の大地が広がっていた。
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