第7話「王都査察使」
蹄の音が、凍てついた中庭の静寂を乱暴に踏み荒らした。
現れたのは、金糸の刺繍で飾られた豪奢な騎馬隊だった。 先頭で白馬の手綱を引く男の顔を見て、私は冷ややかに目を細めた。
王立防衛軍の正装に身を包んだ男――ユリウス・フォン・クラウゼヴィッツだ。
「ヴァルハイト辺境伯領に告ぐ! 王宮より特命を帯びた査察使である!」
ユリウスは中庭に馬を乗り入れ、尊大に顎を跳ね上げた。 手には王宮の印章が押された書状が握られている。
「此度の夜間迎撃において、当領が禁忌の違法兵器を密造し、軍事物資を不正横領したとの疑いが生じた! 直ちに立ち入り査察を開始する!」
名目は査察だが、その実態は手柄の横奪と自己保身だ。 自らの兵站崩壊を隠蔽し、辺境の急成長を叩き潰すための言いがかりに過ぎない。
「ようこそおいでくださいました、ユリウス卿」
私は作業場から歩み出て、一分の隙もない礼法で頭を垂れた。 一代限り準貴族身分としての、冷静かつ儀礼的な挨拶だ。
ユリウスは私の顔を見るなり、嘲笑の笑みを浮かべて馬から飛び降りた。
「ふん、寒さで野垂れ死んでいるかと思えば、相変わらず無駄に頑丈な女だな。だがそれもここまでだ、クロエ」
ユリウスは私を押し退けるようにして、中庭の奥へと足を踏み入れた。 その視線の先にあるのは、太陽光を浴びて銀色に輝く巨大なガラス温室だった。
「な、何だこれは……!?」
温室の二重扉を押し開けた瞬間、ユリウスは絶句して足を止めた。 外の吹雪を忘れさせる柔らかな熱気。
無色透明の板ガラス越しに差し込む陽光と、畝を埋め尽くす青々とした冬野菜の群生。
そして壁際には、整然と並べられた兵站管理台帳が山積みされていた。
「貴様、これをどこから盗み出した!? 中央の物資を横領して建てた魔術工房か!」
「魔術など一切介在しておりません」
私は平然と台帳の一冊を手に取り、ユリウスの目の前で開いてみせた。
「これは光の放射熱と熱伝導率の遮断を利用した、完全な物理的温室です。建材の板ガラスは領内の珪砂と石灰から自給精製し、費用は辺境軍の正規防衛予算内で完全に黒字化しております」
仕入れ値、配合比率、熱効率の計算式、日照時間ごとの収穫予測。 すべてが寸分の狂いもない数値で記録されていた。
前世の化学プラント管理の精密さをそのまま落とし込んだ帳簿だ。
「ぐっ……そ、そんな出鱈目な計算が通るか!」
ユリウスは顔を真っ赤にして台帳を払いのけようとした。 不正の証拠を掴むどころか、辺境伯領の経営が完璧な健全性を示していたのだ。
焦燥に駆られたユリウスは、周囲の兵士が見ていない隙を見計らい、私の間合いへと踏み込んできた。
「……おい、クロエ。取引をしよう」
低く濁った囁きが耳元に届いた。
「あの千里を見通す筒の製造図面を僕に渡せ。あれを防衛軍の機密兵器として僕の名で中央に上奏する。そうすれば、僕が父上に取り成して横領の容疑を晴らし、お前を正妻として王都に迎え直してやってもいい」
見下したような、哀れみを含んだ提案だった。 身代わりとして追放しておきながら、利用価値を見出すや否やすり寄ってくる。
その浅ましさに、私は侮蔑の笑みすら浮かばなかった。
「お断りいたします、ユリウス卿」
私は一歩も退かず、氷のような眼差しで元婚約者を見据えた。
「私と貴殿の婚約は、王命によって破棄されました。そして現在の私は、ヴァルハイト辺境伯の正式な契約正妃です。貴殿の要求は、国家機密の強奪および停戦条約への重大な内政干渉に該当します」
「黙れ! たかが身代わりの人質女が図に乗るな!」
激昂したユリウスが、私の肩を乱暴に掴もうと手を伸ばした。
「そこまでだ、クラウゼヴィッツ侯爵令息」
冷徹な声が、査察団の隊列の最後尾から響いた。 質素な黒い外套を脱ぎ捨てた中年の男が、懐から金色の菊花紋章が刻まれた牌を掲げた。
「王室監査局特命監察官である。当方、辺境軍の正規急報により送付された極秘告発状に基づき、貴殿の随行員として潜入捜査を行っていた」
「な……か、監査局だと!?」
ユリウスが凍りついた。 監察官は手元の革袋から、あの日私が持ち出した「改ざん前の調達原本帳簿」を取り出した。
「クロエ殿が作成した原本帳簿と、現地の温室台帳の突合は完了した。辺境伯領における物資横領および違法兵器製造の嫌疑は、完全に事実無根である。同時に、王都における調達局の不正横領および虚偽上奏の主犯が、エルンスト伯爵と貴殿である動かぬ証拠も確保した」
「う、嘘だ……そんな帳簿、あの女が持ち出しているはずが……!」
ユリウスの顔から完全に血の気が引いた。 過去の抑圧者を、感情論ではなく冷厳たる法と帳簿の数値によって完全に論破した。
私の胸の奥に、研ぎ澄まされた刃のような痛快な爽快感が満ちていく。
だが、追いつめられたユリウスは狂乱し、腰のサーベルの柄に手をかけた。
「認めん……! こんな不毛の地の蛮族どもに、僕が失脚させられてたまるか!」
抜刀しようとした、その刹那だった。
背後の木製扉が粉砕され、嵐のような殺気が温室内に雪崩れ込んできた。
閃光のような抜剣音。 銀色の軌跡が空を裂き、次の瞬間には――冷たい刃の切っ先が、ユリウスの喉仏へ寸分違わず突きつけられていた。
「ひっ……!」
ユリウスの喉から、みじめな悲鳴が漏れた。 刃を突きつけたのは、漆黒の軍服をまとったアレクシスだった。 その灰青色の瞳は、
絶対的な死を宣告する処刑人のように冷酷に濁っていた。
「貴様、誰の許可を得て我が領土に土足で踏み込んだ」
地熱の底から響くような低音が、ユリウスの鼓膜を震わせる。 アレクシスは切っ先を喉皮一枚に押し当てたまま、容赦のない軍令を告げた。
「国境侵犯、職権濫用による虚偽査察、および戦時軍事機密奪取未遂の現行犯と判断する。貴様を直ちに拘束し、戦時領主裁判権に基づき処断する!」
「あ、ぎ……」
ユリウスは恐怖で全身を痙攣させ、青ざめてガチガチと歯を鳴らした。 誇り高き中央貴族の威厳など、跡形もなく消え失せていた。
アレクシスはユリウスを一瞥する価値もないゴミのように切り捨てると、左手を伸ばした。 そして、茫然と立ち尽くす私の右手を取り――。
ユリウスの目の前で、私の手の甲へと、熱い唇を深く落とした。
チュ、と静かな吸熱音が温室に響く。 アレクシスは私の指を包み込んだまま、鋭利な視線でユリウスを射貫いた。
「我が唯一の至宝に、その汚らわしい指で二度と触れるな」
静まり返った温室に、アレクシスの絶対的な宣戦布告が叩きつけられた。




