第6話「硝子と防毒」
静まり返った深夜、けたたましい半鐘の音が鳴り響いた。
闇を切り裂く金属音が、城塞の空気を震わせる。 敵軍の越境だった。 吹雪が収まった新月の闇に紛れ、国境の尾根を越えてきたのだ。
通常であれば、闇夜の奇襲は防ぎようがない。 だが今回は違っていた。
「見張り塔より伝令! 北西の谷間に敵影! 遠眼鏡にて松明の光を確認!」
配備されたばかりの遠眼鏡が、暗闇の中で微小な光を捉えていた。 数キロ先を進軍する敵歩兵の隊列は、完全に把握されていた。
奇襲はその瞬間、単なる無謀な突入へと成り下がったのだ。
「全軍、迎撃配置につけ!」
アレクシスの咆哮が城内に轟き、漆黒の騎兵部隊が夜の荒野へと出撃していく。
私は即座に踵を返し、城内の一角に急設された野戦病院へと走った。 戦いは前線だけで行われるわけではない。
負傷兵の致死率を跳ね上げる最大の敵は、外傷そのものではなく、その後に訪れる術後感染症だ。
当時の医療現場では、煮沸消毒の概念が存在しない。 薬品の保管容器も密閉性の低い素焼きの陶器ばかりで、薬液は揮発し、雑菌に汚染されていた。
「これを使ってください!」
私は木箱から、透明なガラス瓶を次々と取り出した。 耐熱ガラスで吹き上げた密閉薬瓶だ。
高濃度の蒸留酒を再蒸留して精製した消毒用エタノールが、コルクと蝋で厳重に封じ込められている。
「布と刃物はすべて熱湯で煮沸し、この薬液で傷口を洗い流します。創傷の腐敗――細菌感染を防ぐためです」
衛生兵たちが目を見張る中、私は手際よく処置の手順を指示した。 ガラスの滑らかな表面は汚れを吸着せず、煮沸による滅菌処理にも耐えうる。
化学と衛生管理が、命を繋ぎ止める防壁となるのだ。
だがその時、野外から鋭い金属音が響いた。
「敵の別働隊だ! 工房の裏手に回り込まれたぞ!」
叫び声とともに、矢が風を切って壁に突き刺さった。 視界不良の闇を利用し、数十名の敵兵が城塞の裏手――ガラス工房の至近にまで肉薄していたのだ。
警備兵が抜剣して立ち塞がるが、人数差は歴然だった。 黒い毛皮の外套をまとった敵兵が、野戦病院の扉へと迫る。
私は息を呑み、作業台の上の重い鉄製火箸を握りしめた。 指先が冷たく凍りつく。 だが、恐怖で足を止めるわけにはいかなかった。
扉が蹴破られようとした、まさにその瞬間だった。
雷鳴のような蹄の音が響き渡り、闇の中から漆黒の巨躯が躍り出た。 アレクシスだった。
大振りの軍刀が一閃し、先頭の敵兵の槍を叩き折る。 返しの刃が鎧の隙間を裂き、敵を薙ぎ倒した。
本隊の奇襲を返り討ちにし、別働隊の動きを遠眼鏡で察知して急行してきたのだ。
「我が妻に刃を向けるか、賊徒どもが!」
怒気を孕んだアレクシスの咆哮が夜空を圧する。 背後から雪崩れ込んだ辺境軍の精鋭が、別働隊を瞬く間に包囲した。
抵抗の余地はなかった。 完全に退路を断たれた敵兵たちは、次々と武器を捨てて膝をついた。
戦死者は皆無。 敵部隊の完全包囲と無力化が、完璧な形で完了した。
◇
その頃、王都の王立防衛軍副隊長室。
深夜の執務室に、急報を携えた伝令が転がり込んできた。
「ユリウス卿! 北部国境より緊急報告です! 越境した敵奇襲部隊が、ヴァルハイト辺境軍によって一人残らず捕縛されました!」
珈琲を飲んでいたユリウスは、カップを取り落として床に砕いた。
「な、何だと……!? 夜間奇襲を完璧に迎撃しただと!?」
ユリウスの顔から血の気が引いていく。 防衛軍副隊長としての彼の見立てでは、物資不足の辺境軍は壊滅的な被害を受けるはずだったのだ。
それが、一人の死者も出さずに敵を撃退したという。
「あり得ない……あの極寒の貧乏領地に、そんな軍事力があるはずがない!」
ユリウスは爪を噛み、青ざめた瞳を血走らせた。 このまま辺境伯の手柄が中央に伝われば、資材を横領し兵站を混乱させている自らの無能が浮き彫りになる。
「禁忌の兵器だ……そうだ、違法兵器に違いない!」
ユリウスは机の上の書類を掻き乱し、狂気じみた笑みを浮かべた。
「あの野蛮な辺境伯が、他国と内通して違法な魔導兵器を密造しているのだ! 僕自ら査察に赴き、現場を押さえてやる……!」
自らの破滅を糊塗するため、ユリウスはさらなる泥沼へと足を踏み入れていた。
◇
夜が明けたヴァルハイト城の野戦病院。
運ばれた負傷兵たちの処置は、すでに完了していた。 密閉ガラス瓶のエタノールと煮沸滅菌された包帯により、傷口の化膿は完全に防がれていた。
重傷者も含め、熱病や壊疽を引き起こした者は一人もいなかった。
「奇跡だ……負傷者が誰も高熱を出していない……」
老衛生兵が震える声で祈りを捧げていた。 知識が命を救ったのだ。 私は作業台に手をつき、安堵の息を静かに吐き出した。
その時、病院の扉が激しい勢いで押し開かれた。
朝の光を背負って立っていたのは、アレクシスだった。 黒鉄の甲冑には返り血がこびりつき、肩の毛皮には霜が張り付いている。
軍刀を腰に差したまま、彼は血の気配も払わずに一直線に私へと大股で歩み寄ってきた。
「閣下、お怪我は――」
私が問いかけた言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
アレクシスの鉄の手甲が、私の後頭部を抱え込んだ。 引き寄せられた私の身体は、硬く冷たい彼の胸当てへと深く埋もれた。
「……っ」
衝撃で息が止まる。 アレクシスはなりふり構わず、腕の中に私を閉じ込めていた。 甲冑の隙間から伝わってくるのは、尋常ではない速度で脈打つ激しい心音だった。
トクン、トクン、と胸骨を突き破らんばかりの拍動。 そして、私の耳元に吹きかかる、激しく乱れた呼気。
アレクシスの全身が、目に見えて震えていた。 戦場で一歩も退かない歴戦の武将が、ただ私を失う恐怖だけに打ちのめされて震えていたのだ。
「無事だな……無事だな、クロエ」
掠れた低音が、私の髪を揺らした。 抱きしめる腕の力が、骨がきしむほどに強くなる。
その不器用で必死な熱量が、私の冷えた皮膚の奥深くまで焼き付くように浸透していった。




