第5話「千里の光筒」
血の混じった雪を踏み、担架が次々と中庭へ運び込まれた。
「衛生兵、急げ! 止血帯を締めろ!」
緊迫した怒号が、冷え切った城内に木霊する。 国境を警備する哨戒部隊が、敵偵察兵の奇襲を受けたのだ。
担ぎ込まれた兵士たちの鎧は切り裂かれ、激しい出血で顔面を蒼白に染めていた。
吹雪の荒野では、肉眼による索敵限界はせいぜい数百メートルだ。 起伏の多い岩陰に潜む敵を事前に察知することは、現在の光学技術では不可能だった。
防げたはずの奇襲により、有能な兵士たちが命の危機に瀕している。
「視界の解像度を物理的に拡張するしかないわね」
私は即座に踵を返し、ガラス工房へと走った。 選んだ手段は、無色透明ガラスの精密研磨による光学機器――軍用遠眼鏡の製造だった。
前世の知識を総動員する。 凸レンズと凹レンズを組み合わせた屈折式望遠鏡。 だが、その製造は土壌改良や板ガラスの成形よりも遥かに繊細な精度を要求された。
作業台に、純度の高いソーダ石灰ガラスのインゴットを据える。 鉄の皿に研磨砂を敷き、水で濡らしながらガラスの表面を円運動で削り込んでいく。
「奥方様、手のひらの皮が剥けております! ここは我らが……」
見かねたガラス職人が声を上げて駆け寄ってくる。 私の指先は摩擦熱と寒気で感覚を失い、手のひらには赤い擦過傷が滲んでいた。
「だめです。曲率半径の狂いは焦点の歪みに直結します。手作業の感覚でしか微調整ができません」
凸レンズで光を集め、凹レンズで正立像を結ばせる。
球面収差と色収差を抑えるため、研磨粉の粒度を粗目から極微粒子へと段階的に変え、気の遠くなるような研ぎ出しを繰り返した。
「……何の真似だ」
背後から、氷のように冷たい声が工房の空気を裂いた。 振り返ると、アレクシスが軍刀の柄に手をかけたまま立っていた。
その灰青色の瞳には、鋭利な刃物のような警戒が宿っている。
「王都の伯爵令嬢が、なぜ軍事機密に匹敵する工芸品を自作できる? 貴様の目的は何だ。敵国への内通か、あるいは実家への手土産か」
厳しい詰問だった。 停戦条約に基づく人質婚姻。
王都から送られてきた令嬢が、戦局を左右する兵器の試作を行っていれば、防諜上の疑念を抱くのは軍総司令官として当然の判断だ。
私は作業を止め、研磨したばかりの二枚のレンズを真鍮の筒に組み込んだ。 そして姿勢を正し、アレクシスと真正面から視線を合わせた。
「目的は一つです、閣下。私の生存確率を極大化させるためです」
感情を排し、平然とした敬語で事実を告げる。
「この地が敵の奇襲で陥落すれば、契約上の妻である私の安全も失われます。兵士の早期索敵能力を高め、防衛線を維持することは、春までの半年間を生き延びるための合理的防壁に他なりません」
アレクシスは無言で私を見据えた。 数秒の張り詰めた沈黙の後、私は組み上げた真鍮の筒を彼へと差し出した。
「城塞の最上階へ参りましょう。論より証拠です」
◇
見張り塔の頂上は、肌を裂くような暴風が吹き荒れていた。
「これを覗いてみてください。筒の長さを前後にスライドさせて、焦点を合わせます」
私はアレクシスに筒を手渡した。 アレクシスは疑念を捨てきれない表情のまま、片眼鏡のように真鍮の筒を目元に当てた。 そして、北の国境地帯へと筒先を向ける。
直後、アレクシスの呼吸が喉の奥で止まった。
「……なっ」
彫像のような顔が、劇的に凍りついた。 筒を握る分厚い手袋の指先が、目に見えて硬直する。
肉眼ではただの白い吹雪にしか見えない五キロ先。 切り立った岩山の窪みに身を潜める、敵偵察兵の黒い毛皮の外套。
その手元に握られた短弓の鏃、吐き出される白い息の輪郭までもが、目の前にあるかのように鮮明に結像していた。
「千里先まで……見通せるというのか……!」
アレクシスは筒を下ろし、信じられないものを見る目で自らの肉眼と筒を交互に見比べた。
有史以来、軍事の基本原則だった索敵の距離限界が、この小さな筒一つで何倍にも延伸されたのだ。
奇襲は不可能となり、伏兵は無力化される。
アレクシスは筒を握りしめたまま、勢いよく私へと向き直った。
ザッ、と軍靴が雪を踏みしめ、間合いが一瞬でゼロになる。 アレクシスの両手が伸び、私の細い両肩を鷲掴みにした。
「あっ……」
万力のような強い力が肩に食い込む。 だが、その手は微かに震えていた。 至近距離で見上げるアレクシスの灰青色の瞳は、狂おしいほどの真剣さと焦燥に揺れていた。
「クロエ」
初めて、肩書きではなく私の名前が呼ばれた。 低く掠れた、魂の底から絞り出されたような声音だった。
「貴様を、絶対に死なせはせん。何があろうと、我が命に代えてもだ」
それは軍司令官の号令ではなかった。 ただ一人の男が、すべてを懸けて誓う祈りのようだった。
肩に食い込む指の熱さと、彼の乱れた呼気が私の額にかかる。 私はアレクシスの真意を測りかね、ただその射抜くような視線を見つめ返すことしかできなかった。
◇
その頃、王都の王立防衛軍副隊長室では、ユリウスが優雅に珈琲を口に運んでいた。
ノックとともに、配下の情報将校が入室してくる。
「ユリウス卿、北部の辺境伯領より不穏な噂が届いております。辺境軍が謎の新規資材を導入し、異常な速度で軍備を拡張しているとのことですが……」
差し出された報告書を、ユリウスは目もくれずに手で払いのけた。
「ふん、あの極寒の不毛の地で軍備拡張だと? 笑わせるな」
ユリウスは嘲笑を浮かべ、足を組んだ。
「飢え死に寸前の蛮族どもが、薪でも集めて気勢を上げているだけだろう。あの生意気なクロエも、今頃は寒さに震えて僕に許しを請う手紙でも書いているに違いない。無駄なあがきだ、握り潰しておけ」
「は、はっ……」
将校は躊躇いながらも一礼し、下がっていった。 ユリウスは自らの地位と中央の権威に慢心し、迫り来る破滅の足音に気づくことすらできなかった。
◇
その日の夜、ヴァルハイト城の執務室。
アレクシスは机に向かい、遠眼鏡の正規配備を命じる軍令書に署名捺印していた。 その傍らに、私は一通の封書を差し出した。
「閣下、辺境軍の正規公用便――至急の早馬をご手配願えますか」
「公用便だと? 宛先はどこだ」
「王都の王室監査局です」
私が差し出した封筒の隙間から、古びた革表紙の帳簿が覗いていた。 王都を出るあの日から、私の肌身離さず隠し持っていた「改ざん前の調達原本帳簿」だ。
エルンスト伯爵とエレナが犯した、莫大な公金横領の全記録。 そして、私に罪を擦り付けた虚偽告発の動かぬ証拠。
「遠眼鏡の正規配備申請書と共に、この極秘告発状を同封してください。中央の不正を断ち切るための、決定的な一手となります」
アレクシスの瞳に、冷徹な理解の光が宿った。 彼は迷うことなく重厚な蝋を垂らし、ヴァルハイト辺境伯の公印を強く押し当てた。
片道二日。 最速の軍用急報が、王都の腐敗を撃ち砕く矢となって放たれようとしていた。




