第十話 始まる日を知らない
誰も笑わなかった日から、季節がひとつ進んだ。
初夏の朝の光は、温室の硝子を通さないぶん、まっすぐだった。
公爵邸の控えの間には、婚礼の衣装が広げてある。侍女が三人がかりで裾を整えていた。
レティシアは卓の上を見ていた。
たたんだ手袋が置いてある。薄手の白で、手首に細い縫い取りがある。
その脇に、藍色の包み紙と銀の紐が、皺を伸ばして畳んであった。冬に六度目を受け取ってから、七度目は届いていない。
届く季節ではなかった。
手袋に指を通した。
季節外れであることは、鏡を見なくても分かった。
────これは、要る。
要らないものを、要ると決めて嵌める。それだけを、三月かけて覚えた。
扉が鳴って、ミレイユ・ダンヴィエが入ってきた。
参列の支度をすでに済ませている。髪に挿しているのは、生花ではなく細い銀の飾りだった。
「レティシア様。本日は、心よりお慶び申し上げます」
「ありがとう。来てくださって」
ミレイユが目を丸くした。
「わたくし、あの噂を止めて回っておりましたでしょう」
「ええ」
「あれ、途中から誰も相手にしてくださらなくて。しつこい令嬢だと、東棟で名が知られてしまいましたの」
言いながら、ミレイユは肩を落としてみせた。
レティシアは笑った。
作らずに笑ったので、左の口角がどう動いたかは分からなかった。
「無理をなさらないで、と申しましたね」
「仰いました」
「あれは、断ったつもりでした」
「存じております」
ミレイユは首をかしげた。
「ですから、やめなかったのです」
そう言って、裾を持ち上げて出ていった。
オレールが入れ替わりに入ってきた。
この半年で、また背が伸びている。目の高さは、もう完全に越された。
弟は卓の上を見た。畳んだ包み紙と、銀の紐が置いてある。
「姉上」
「なんですか」
「もう数えていませんね」
レティシアは手袋の指を揃えた。
揃えて、それから、揃えるのをやめた。
「数えていません」
「そうですか」
オレールはそれだけ確かめて、扉のところまで下がった。
下がってから、思い出したように言った。
「膝掛けは、まだ僕の部屋にあります。返しませんので」
「返さなくていいですよ」
弟が出ていったあと、レティシアは銀の紐を指で伸ばした。
伸ばして、畳んで、抽斗に入れた。
送り出しの支度が整ったのは、日が高くなってからだった。
玄関広間には、荷はもう置かれていない。冬至の朝に運ばれていって、そのまま王宮にある。
公爵が階段の下に立っていた。
外套はなく、礼装の胸に家紋の留め具だけをつけている。
「支度は済んだか」
「はい」
レティシアは階段を下りた。最後の一段の手前で、父が手を差し出した。
手袋越しに、その手を取った。
「お父さま」
呼び方は、あの日から戻していない。戻さないでいることに、まだ慣れていなかった。
父は広間の扉のほうを見た。馬車の音がしている。
「レティシア」
「はい」
「その日は、お前の終わりの日ではない。私が決めた婚礼の日だ。」
冬至の夜、執務室で聞いたのと同じ言葉だった。
同じ言葉なのに、今日は日付が合っている。
────ああ、そういうことだったのね。
あの夜、この一言をレティシアは受け取れなかった。受け取る場所がなかった。線を潰し終えた手帳しか持っていなかったから。
いまは、手袋を嵌めた手で受け取れる。
「参ります」
父は手を離した。
扉が開いて、外の光が入ってきた。
馬車の脇に、アルベールが立っていた。
迎えに来る決まりはない。決まりがないことをしている人の立ち方だった。
近づくと、この人は手を差し出さなかった。差し出しかけて、下ろした。
レティシアのほうから、指を乗せた。
温かかった。
手袋の布が間にあって、それでも上ってくる。上ってくるものを、今日は途中で止めなかった。
「アル様」
呼ぶと、この人は前を向いたまま、少しだけ間を置いた。
「はい」
「五年前から決めていらしたこと。あれは、日取りのことだけですか」
「いいえ」
「では、伺わせてください」
「道々に」
馬車が動き出した。
車窓を、王都の景色が後ろへ流れていく。冬至の夜に見たのと同じ道だった。同じ道を、同じ速さで進んでいる。
進む先だけが、違っていた。
あと何日、とはもう数えない。今日から、わたしの世界が始まる。




