第九話 三ヶ月後、温室
三月かかって、わたしはようやく、手袋を自分から嵌めた。
春の温室は、冬より明るい。硝子越しの光が鉢の列に落ちて、土の色を薄くしていた。
季節外れの手袋だった。
薄手の白で、手首に細い縫い取りがある。嵌めても暑くはない。ただ、要らないものではあった。
要らないものを、要ると思って嵌めた。
────それだけのことに、三月。
冬至の夜から、レティシアは数えていなかった。
数える先がなかったからではない。数えようとして、数えるための日付が一つも思いつかなかったからだった。
初夏の婚礼までの日数なら、数えられたはずだ。
数えなかった。
かわりに、この三月のあいだ、ずっと同じことを考えていた。
告発は三年前に処理されていた。日取りは五年前に押さえられていた。手袋は六度贈られていた。
どれ一つ、こちらが知らなかっただけだ。
知らされなかったのではない。知らされる前に、荷を減らしていた。
────わたしが、手放せずにいたのは。
断罪ではなかった。
断罪なら、日付があって、順番があって、終わりがある。終わりのあるものは、数えられる。
数えられるかぎり、立っていられた。
手放せなかったのは、あの手帳のほうだった。
八十本の線を引いた朝、レティシアは自分の位置を決めた。決めてしまえば、あとは減らしていくだけでよかった。
減らす作業を取り上げられたとき、立っていられなかった。
前の晩に、手紙を書いた。
初夏の婚礼までに一度、王宮へ伺いたいという内容だった。用件はそれだけで、便箋は一枚で足りた。
署名の前に、宛名をもう一度見た。
殿下、と書いた文字を線で消して、書き直した。
アル様、と。
ご学友の一人がそう呼んでいるのを、学院の中庭で一度だけ聞いたことがある。使ったのは、これがはじめてだった。
朝いちばんに、家令へ渡した。
温室の扉が鳴った。
公爵が入ってきて、鉢の列の間を歩いてくる。手には何も持っていない。
「精が出るな」
「見ているだけでございます」
「そうか」
父は隣の鉢の前で足を止めた。ミレイユ様が育て方を教えてくれた、冬に咲く花だった。花はもう終わって、葉だけが残っている。
レティシアは手袋の指を、揃えた。
「閣下」
「うん」
「なぜ、訊いてくださらなかったのですか」
言ってから、声が思ったより低いことに気づいた。
父は花の残りを見ていた。
「訊けば、お前は先に消えただろう」
そのとおりだった。
訊かれた日のことを、レティシアは覚えている。オレールに数えるのはやめてと言われた翌日、箱を一つ増やした。
隠すために増やした。
「調べは三年前に済んでいたと、伺いました」
「調べはな」
父はこちらを向いた。
「待ったのは二年だ。お前が数えはじめたのに気づいてからは」
「二年」
「間違えたかもしれん」
言い方が、あまりに普通だった。
「伝えれば早く済んだ。伝えなかったから、お前は七十八日を数えた。どちらが正しかったかは、いまも分からん」
「閣下は、迷われなかったのですか」
「迷った」
父は花のない鉢の縁に手を置いた。
「迷えばいい。何度でも。わたしも迷った。これからも迷う。お前が迷ったところで、この家は何も減らん」
減らん、と父は言った。
減るものを数えて生きてきた三月が、その一語で、行き場をなくした。
顔が、保てなかった。
────ああ、崩れる。
左の口角が遅れる。その直し方を、レティシアは母を送った年から知っていた。十年になる。
知っていて、今日は間に合わなかった。
息が喉で引っかかった。
手袋の甲で目を押さえた。布が濡れて、押さえるほど濡れて、それでも手を離せなかった。
声が出た。
言葉になっていない声だった。夜会でも、署名の間でも、一度も出さなかった声で、幼子が出すのと同じ形をしていた。
膝が折れて、鉢の縁に肩がぶつかった。土がこぼれた。
「お父さま」
そう呼んだ。
母を送った日から、そう呼んでいなかった。呼んだあと、続く言葉は何もなかった。
父は何も言わなかった。
かがんで、こぼれた土を手で寄せた。それだけをしていた。
温室の扉が、もう一度鳴った。
オレールが入ってきて、膝掛けを持っていた。畳んだまま抱えている。
弟は何も訊かなかった。
肩に膝掛けを掛けて、少し離れたところに立った。
レティシアは膝掛けの端を掴んだ。掴んだ手には、まだ手袋が嵌まっていた。
濡れた布は冷たいはずだった。
冷たくなかった。
お父さま、と呼んだ声は、みっともなく震えていた。それでも誰も、わたしを笑わなかった。




