第八話 父と王太子
姉上が執務室を出ていく足音を、僕は廊下で聞いていた。
角を曲がったのを確かめてから、書庫の扉を押した。
先に入っていたアルベール殿下が、椅子の背に体を預けて、式服の襟をようやく外した。留め具が卓の上に転がる。
しばらくして父が来た。
入るなり、燭台の火を一つ吹き消して、暗いほうの椅子に腰を下ろす。
「湯は」
「支度させました」
家令が答えて、扉を閉めていった。
三人になった。
「訊かれましたか」
殿下が先に口を開いた。
「いつ送られるのか、と」
父は膝の上で手を組んだ。
「二年前からです」
僕は暖炉の脇に立ったまま、そう言った。
「姉上が数えはじめたのは。手帳に線を引いて、朝に一本ずつ潰していました」
「気づいていたか」
「部屋の本が減っていましたから」
父は頷いた。それだけだった。
「わたしも同じ頃だ。夏の終わりに、あれが家令に寄贈の目録を渡した」
「殿下には」
「二年前に伝えた」
父はそう言って、暖炉のほうを見た。
「訊かれなかったのですね」
「訊けば、あの子は先に消える」
父の声は低かった。
「行き先を決めていない娘ではない。修道院の名まで調べていた。こちらが気づいたと分かれば、その日のうちに発つ」
僕もそう思っていた。
姉上に「どうして減らしているのか」と訊いた日、あれは何も答えなかった。答えないまま、次の日には箱が一つ増えていた。
訊いたぶんだけ、姉上は早くなる。
だから僕は、数えるのはやめて、としか言えなかった。
命令にしたら、姉上は従う。従って、そのぶん深く隠す。
「殿下は、いつからでいらっしゃいますか」
「五年前の初雪の日です」
殿下は卓の留め具を指で回した。
「王宮の茶会で、あの人が手袋をしていなかった。侍女に訊いたら、持っていないのではなく、嵌めないのだと」
「それで、毎冬」
「六度目です。五度は棚に積まれていました」
積まれているのを知っていて、六度目を贈った人だった。
「今年は、冬至まで届けずにおきました」
「なぜ今夜に」
「契約の署名がありますから。手袋を外して、また嵌める。冷たさが戻るのを、あの人自身に確かめさせたかった」
父が短く息を吐いた。
「よく待たれた」
「待ったのは公爵も同じでしょう」
「三年待った」
父は書棚の暗がりに目をやった。
「告発の材料が学院に出回ったのが、三年前だ。調べさせて、事実無根と結論した。王家も同じ結論だった」
「その時点で、姉上に伝えるという道はあったはずです」
僕はそう言った。ずっと言いたかったことだった。
「伝えれば、あれは自分が疑われたことを知る」
父はこちらを見なかった。
「疑いは晴れても、疑われた事実は残る。あの子はそれを、出ていく理由に足す」
足す、という言い方が正確だと思った。
姉上は理由を集める人だった。集めた理由を全部数えて、合計が出たところで支度をはじめる。
「ダンヴィエ嬢は」
殿下が言った。
「あの方は、何もご存じない」
「存じません。ただ、噂を消して歩いておられます」
「頼まれてですか」
「いいえ」
殿下は首を振った。
「一度もこちらから頼んでいません。学院の東棟で賭けが立ったとき、真っ先に止めに入ったのがあの方だと聞きました。しつこいと嫌われながら、半年続けておられる」
温室に来た日のことを、僕は思い出した。
姉上は「無理をなさらないで」と言った。あれは、たぶん、断ったつもりだった。
「善意で動く人ばかりで、あの子には一つも届かない」
父がそう言った。
届かないのは、姉上が受け取り口を塞いでいるからだ。塞いだのは姉上で、塞がせたのは筋書きのほうだ。
僕たちは誰も、その筋書きを見たことがない。
「これから、どうなさいますか」
僕は殿下に訊いた。
殿下は留め具を卓に置いて、立ち上がった。
「何もしません」
「何も」
「今夜、公爵が事実を告げられた。あの人はそれを、まだ受け取っていないでしょう」
窓の外が、わずかに白みはじめていた。
「受け取るまで、こちらから何も足しません。手を伸ばして掴んだら、あの人は自分で選んだことにできなくなる」
「時間がかかりますよ」
「かけます」
殿下は扉のほうへ歩いて、そこで一度だけ振り返った。
「五年待ちました。あと少し待って、あの人が自分から手袋を嵌める日まで、私は何もしない」
僕たちは、姉上が自分で気づくのを待つことにした。三月かかった。




