第47話 後回しにしない選択
王都を横断する巨大な運河。その要衝に位置する古い水門設備の前に、数人の若者と、厳しい目をした試験官たちが集まっていた。
本日は、教会の公認資格である『技能記録士』の正式な登用試験の日である。
「――以上で、第三区画の歯車群の点検と、作業員の技能連携に関する安全評価を終わります」
ルカ・ヴァルトは、試験官へ向けて分厚い記録用紙を提出し、一礼した。
十五歳の少年であるルカの顔には、緊張が残っていた。紙の端を握る指を開き、次の指示を待った。
「ふむ。五つの項目に分けて技能を分析し、さらに作業員同士の『連携欄』まで設けるとは。……ヨハン・エーベル殿が提唱した新しい様式だな。実に理にかなっている」
試験官が感心したように顎を撫でる。
ルカは誇らしげに胸を張った。ヨハンの元で、何十人もの能力の条件を整理し、ひたすらに清書を続けてきたのだ。現場における「安全な限界値」を見極める眼力は、ここまでの実習で、少しずつ身についてきた。
「よし。ルカ受験生、引き続き第四区画の点検記録を担当したまえ。作業の指揮は現場責任者が執る。これが終われば――」
試験官が次の指示を出そうとした、その時だった。
ギィィィン……ッ! と、水門の根元から黒板を爪で引っ掻くような不吉な金属音が響き渡った。
「な、なんだ!?」
運河の水を堰き止めている、巨大な鉄製の支柱。その中腹にある古い接合部から、バチバチと音を立ててボルトが弾け飛んだのだ。
長年の水圧と魔力負荷に耐えきれず、老朽化していた設備が突発的な崩壊の危機に陥った。
「マズい! あの支柱が折れれば、水門が崩れて濁流が押し寄せるぞ!」
「誰か、仮止めできる技能を持っている者はいないか!」
現場責任者が上流側の遮断を命じた。作業員が走る一方、支柱の下に残って鎖を掛けようとする者がいた。
ルカは支柱の脇の退避線で、足を止めた。
(僕なら、少しだけ時間を――)
初夏の大聖堂の待機場が、脳裏へ浮かんだ。老人を引き起こした時、梁と木箱の間に肩が挟まった。痛みがないまま、身動きが取れなかった。
ミラが重さを分け、セラが救出の手を入れた。治療師の待つ場所で解除すると、胸へ苦しさが戻ってきた。
あの六分足らずは、何人もの手で作られていた。
今、支柱の下には、鎖を掛けようとする作業員がいる。水の音で、上流からの返事も聞こえない。
ルカの頭に、自分で書いた記録票の欄が浮かんだ。
『対象:自分に生じる一つの結果』
『代償・例外:【仮説・試験禁止】致死級の結果を保持できる時間は未確認。軽い傷での実測値を当てはめない』
身体を支柱に変える技能ではない。保持できたとしても、傷は戻る。助け出す手順も、ここにはない。
ルカは出かけた足を戻し、息を吸った。
「全員、作業を中止してください! 直ちに現場から退避!!」
「な、何を言っている! 今すぐ止めないと水門が……」
「仮止めできる技能があっても、この質量の前では安全を担保できません! 人を支えにしてはいけません! 水門より、命を優先してください! 退避!!」
試験官が警笛を鳴らし、責任者も退避を復唱した。ルカは残っていた作業員を呼び、人数を数えながら指定の高所へ走った。
直後、限界を迎えた鉄の支柱がへし折れ、水門の一部が崩壊して運河の水が流れ込んできた。
上流側の遮断で流入は抑えられ、下流へも警報が伝わった。退避先で点呼すると、全員がいた。ルカは二度数えてから、膝の震えを止められなくなった。
数時間後。
水門の応急処置が完了し、落ち着きを取り戻した試験会場の広場。
「試験は中断する。合否は、ここまでの課題と後日の確認で判断する」
試験官から告げられ、ルカは頭を下げた。
「……よろしいのですか。僕はあの時、水門を守ることを放棄しました。何かできたのではないかと、まだ考えてしまいます」
「だからこそだよ」
試験官は、真剣な顔でルカを見つめた。
「技能記録士の仕事は、魔法の奇跡を起こすことではない。能力の限界を正しく見極め、やってはならないことを『止める』ことだ。君は自身の能力に溺れず、正確なリスク評価に基づいて安全停止の判断を優先した。……それは、何よりも得難い資質だ」
翌日、事故の振り返りと残りの筆記確認を終え、ルカは合格を告げられた。銀の徽章を受け取る手には、まだ昨日の震えの記憶が残っていた。
「――おめでとう、ルカ」
試験会場の門を出ると、そこには第一等級の標準技能班長である兄、レオン・ヴァルトが立っていた。
彼はわざわざ勤務の合間を縫って、弟の試験結果を見に来ていたのだ。
「兄上……」
「聞いたぞ。水門での見事な状況判断だったそうだな」
レオンは、かつてルカの第五等級を「我が家には役割不足だ」と冷たく見なしていた頃の顔ではなく、一人の実務家として、頼もしい同僚を見るような目で弟を見ていた。
「退避の訓練は、うちの班でも繰り返している。それでも現場では、止める声を上げるのに勇気が要る。君のように、能力の限界を理解し、危険な時は『止める』決断を下せる記録士は、現場の人間にとって何よりもありがたい存在だ。……立派になったな」
兄からの、初めての完全な承認。
ルカは鼻の奥がツンとするのを感じながら、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
その時、広場に豪奢な馬車が停まり、中から一人の威厳ある初老の男が降りてきた。
ルカとレオンの父親である、ヴァルト侯爵だった。
「ルカ。正式に資格を得たそうだな」
「……父上」
ルカは姿勢を正した。
父親は、ルカの胸に光る銀の徽章を一瞥し、重々しく口を開いた。
「技能記録士は、これからの教会において重要な地位を占めることになるだろう。お前がその若さで資格を得たことは、我が家の面目躍如だ。……どうだ、ルカ。以前の廃嫡を取り消す手続きを、改めて相談したい。家へ戻り、その仕事を続ける気はないか」
父の声は落ち着いていた。ルカには、それが自分への言葉なのか、胸の徽章への言葉なのか、まだ分からなかった。
だが、ルカは迷うことなく、静かに首を横に振った。
「申し訳ありません、父上。……僕は、戻りません」
「なに?」
「僕は、家の評価のために記録士になったわけではありません。危険な能力に振り回される人たちを助けるため、僕自身の意志でこの職を選びました。だから、僕は僕の仕事場へ帰ります」
父は口を開きかけ、何も言わなかった。
馬車へ戻る前に、一度だけ振り返った。その視線が顔を見たのか、徽章を見たのか、ルカには分からない。
ルカは答えを待たず、兄に別れを告げた。工房に置いてきた記録票を、明日の朝までに綴じなければならなかった。
翌日。
地方聖堂の個別技能解析室へ戻り、ヨハンに徽章を見せて合格の報告を済ませたルカの元に、マティアスが慌ただしい足取りで入ってきた。
「ヨハン殿。ついに、決定しました」
マティアスは手にした公式な教会の布告状を、ヨハンたちの前に広げた。
「デルムント枢機卿の失脚後、調整が難航していましたが……最高会議が、ついに新制度の『正式施行日』を確定させました」
「施行日は、いつですか?」
「十日後です。全国の受付と支援確認を始め、専門試験は指定拠点へつなぐ運用になります」
マティアスが告げたその日に、ヨハンとルカは顔を見合わせた。
第一から第五までの等級が「標準化難度」という本来の意味を取り戻し、解析と生活支援がセットになった新しい制度が、ついに王国全土で幕を開ける。
ルカは布告状の「全国」の二文字を見た。研修に来られなかった聖堂へ、手順書が届くまで何日かかるだろう。




