第45話 私にしか読めなくても
ヨハンは黒板へ二つの言葉を書いた。
《注釈》と、五項目試験。
間を矢印で結ぼうとして、チョークを止めた。
「同じ物ではありません」
第一期の研修生たちが顔を上げる。
「私には、本人の同意と技能の顕現があれば、構造を早く読めるという利点があります。ただし、それを言葉へ直すのは私です。読み違いも、用途を考え違えることもある」
黒板に、今度は二本の矢印を書いた。どちらからも、もう一方へ向いている。
「試験なら、私の解釈が現場で成り立つか確かめられる。逆に、試験では危険で確かめにくい制約を、照合で見つけられることもある。ただし、どちらも、あらゆる例外を知った証明にはなりません」
「では、先生がいない場所では、どこで完成にすればいいのでしょう」
新しく来た神官が尋ねた。
「全部が分かった時、ではなく、その用途を試してよい範囲を説明できた時です。分からない部分は残します」
ルカが黒板の下へ『完成しても更新する』と書き足した。
午後は、《色移し》を持つ染物職人に協力してもらった。
五年前、手紙を受け取った一人である。教材にしてよい範囲と、工房の秘密を分け、本人の希望で仕事場ではなく解析室を使った。
ヨハンは既に能力を知っている。知らないふりをするのではなく、当時の記録を先に封じ、研修生の試験結果と後で比べることにした。
試験の安全計画には、事前に目を通してある。
「布から布へ色を移すなら、元の布の色は消えるはずですね」
若い神官が言った。
トーマは、すぐには記入しなかった。
「名前からはそう思います。でも、確かめましょう」
小さな赤い布と、同じ繊維の無染色の布を隣に置く。職人が触れると、赤い方の色が薄くなり、隣の接触部分へ赤みが移った。
完全に白くなるまでとは限らない。生地の地色や残る染料も、見たまま書く。
次は同じ色の小さな試料で、木、金属、革への移動を試した。今回の試料には変化がない。
「布だけ、と断定はできません。今は、この三種類には反応しなかった、と」
ルカが確認した。
異なる色を同時に扱う試験では、片方の色しか移せなかった。染料の相性か、技能の制約か。職人の経験も聞き、混色を狙う用途は未確認として外す。
面積を少しずつ広げると、疲れ方が増した。限界まで使わせず、そこで終了した。
「結論です」
トーマが持ってきた紙には、空欄がいくつも残っていた。
確かめた布と染料。移せた範囲。実施しなかった試験。作業に使う前に親方と確認する項目。
ヨハンは封じた記録を開いた。そこには『布地・繊維類』『単色の移動』『面積に応じた消耗』と、自分の字で書いてある。
研修生の紙は、同じ答えを言い当てた紙ではなかった。どの観察から、どこまで言えるのかが残っていた。
「以前の私の記録より、理由がよく分かる」
ヨハンが言うと、職人が紙をのぞき込んだ。
「この欄、増やせますか。洗った後に色がどう残るか、仕事ではそっちが大事なんです」
トーマが椅子を引く。
「教えてください」
話は、ヨハンへ戻ってこなかった。職人と研修生が同じ紙へ向かい、ルカが新しい欄を作っている。
少し寂しい。
そう感じた自分がおかしくて、ヨハンは机の下で手を握った。望んでいたはずなのに、望んだことが起きると、胸に小さな隙間ができた。
「ヨハンさん。予備の紙、どこでしたっけ」
「右の引き出し」
「ありがとうございます」
必要なくなったわけではない。ただ、全部に自分の答えが要るわけではなくなった。
夕刻、マティアスが通達を持ってきた。
北、西、南の三拠点で、来月から解析室の受入れを始める。研修者と設備の確認が済んだ所から順に、という条件つきだった。
「すべて、同じ日に開けるわけではないのですね」
「間に合わない設備のある所は、受付と紹介を先に始めます。看板だけ先に掛けても意味がない」
ヨハンは通達を机へ置いた。
遠い場所に、まだ会ったことのない子がいる。その子は、自分に会わなくても相談できるかもしれない。
翌朝の研修に使う紙を、いつもより少し多く揃えた。




