第44話 個別技能解析室
王都の大聖堂における歴史的な決着から、数週間の時が流れた。
ヨハン・エーベルが所属する地方聖堂の片隅。かつては古い長椅子や備品が詰め込まれていた薄暗い物置部屋は、今や壁が白く塗り直され、真新しい長机と複数の椅子が並ぶ、明るく整然とした空間へと生まれ変わっていた。
入り口の扉には、真新しい木製のプレートが掲げられている。
『個別技能解析室』
これが、ヨハンが予算と研修計画を添えて申請し、創設が承認された専門部署だった。
「……いよいよ、今日からですね、ヨハン様」
窓を開けて風を通していた若い神官、トーマが振り返って言った。
彼は本人の希望と所属聖堂の承認を経て、この解析室の『第一期研修生』として配属されていた。六年前の受取人の一人が、今は教える側としてこの部屋に立っている。
「ああ。今日からはもう、人目を避ける必要はない。むしろ、手順を見てもらう。裏でこっそり紙切れを渡すこともない」
ヨハンは、自らの新しい神官服――通常の儀式用ではなく、袖口が絞られた実務用の『技能解析官』の制服の襟を正した。
「堂々と、この明るい部屋で、彼らの能力を記録するんだ」
午前十時。
解析室の扉を控えめにノックする音が聞こえた。
「どうぞ、入ってください」
トーマが扉を開けると、そこにはひどく緊張した面持ちの十五歳の少年と、その両親が立っていた。
冬に入って最初の授与式で、現行基準における第五等級を告げられたばかりの家族だ。
「あの……こちらで、外れスキルの使い道を調べていただけると聞いて……」
「外れ、ではありません。共通の使い方を作りにくい『非標準技能』です」
ヨハンが穏やかな笑顔で迎え入れ、三人を机の前の椅子へと促した。
「さあ、始めましょうか。……トーマ。今日の解析は、君に任せる」
「えっ、私がですか?」
「そうだ。私は君の検証のサポートに回る。君自身の手で、仮説を立てて実証してみなさい」
ヨハンは記録用の席へと一歩退いた。
トーマは少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに姿勢を正し、ルカが作成した分厚い『五項目記録マニュアル』を手元に置いた。
「わかりました。……では、君の授能板に表示された技能の名前を教えてもらえるかな?」
「はい。……《目印》、です」
少年が小さな声で答えた。
「目印、か。頭の中にはどんな使い方の説明が浮かんだ?」
「えっと、触った場所に目印をつけて、それがどこにあるか分かる、みたいな……。でも、戦えるわけでもないし、ただの遊びにしか使えないんじゃないかって」
少年が俯く。トーマは優しく首を振った。
「戦う力だけが価値じゃない。どんな条件で、どう機能するかを一緒に調べてみよう」
トーマは、机の上に用意してあった複数の木片と、聖堂の間取り図を取り出した。
「同意してくれるなら、まずは登録できる数と、この部屋から分かる範囲を試そう。この三つの木片に触れて能力を使ってみて」
少年が木片に触れ、「《目印》」と念じる。
「よし。じゃあ、君にはここで待っていてもらって、僕がこの木片を聖堂のあちこちに隠してくる。君はここから、その木片がどの方向にあるか、分かるかな?」
トーマが部屋を出て、五分後に戻ってきた。
少年は目を閉じ、少し考えてから目を開けた。
「……分かります。一つ目はあっちの方向で、だいたい三十メートルくらい先。二つ目はもっと遠くて、あの壁の向こう。三つ目は……あれ、すぐ下だ」
トーマがにこりと笑って、自分のポケットから三つ目の木片を取り出した。
「正解。一つ目は礼拝堂の裏、二つ目は中庭の倉庫だ。この三か所は、壁を隔てても位置をつかめるみたいだね。距離の精度は、測量した値と比べてみよう」
「すごい……僕、見なくても分かるんだ」
少年の顔に、初めて明るい色が差した。
「でも、限界はあるはずだ。今度は四つ目の木片に触れてみて」
少年が四つ目に触れた瞬間、「あっ」と声を上げた。
「一番最初に触ったやつの感覚が、消えました」
「なるほど。容量の上限は『最大三点』。四点目を登録すると、最古のものが上書きされて消えるんだね」
トーマは素早くペンを走らせる。
「聞き取りでは、家の近くで一キロほど先まで分かった、翌日には消えた、とのことでしたね。ここは本人の報告と書いて、継続して測りましょう」
トーマは、手元の記録票の項目を一つずつ埋めていく。
「ヨハン様、仮説が固まりました」
トーマが自信に満ちた顔でヨハンを振り返った。
「対象は、今のところ木片の表面。方向と距離を感じ、四点目で最古の登録が消えました。広さと時間は未確認です。荷物の所在確認に使う案を、次の試験にしたいと思います」
少年と両親の顔にも、安堵と希望の笑みが浮かんでいた。
だが、ヨハンは記録票を受け取ると、静かに首を横に振った。
「……確認した範囲は、よく分けられている。では、試していない対象に広げないための注意は、どこへ書こうか」
「試していない対象への注意、ですか」
トーマが怪訝な顔をする。
ヨハンは少年に向き直り、照合してよいかを尋ねた。同意を得て、新しい木片へ《目印》を発動してもらい、《注釈》で構造を読んだ。
ヨハンの脳裏に、少年の技能の構造情報が文字となって浮かび上がる。
『触れた非生体表面を最大三点登録し、一キロ以内なら方向・距離を感知。二十四時間。四点目で最古が消える。人物への付与は不可』
ヨハンは、静かにその一文を読み上げた。
「『人物には付けられない』。……ここは、構造の照合で補える制限だ」
トーマは自分の記録を開き、対象の欄に指を置いた。
「対象は、あくまで『非生体表面』だ。腕そのものへ付けることと、服へ付けることは違う。服に付けられたとしても、脱いだら追えるのは服だ。人を必ず見つけられると説明してはいけないね」
目印のある物と、それを持っている人を同じだと思い込めば、見当違いの場所を探すかもしれない。
戦闘力のない技能であっても、条件の誤認は命に関わる重大な事故を引き起こすのだ。
「荷物を探せる、と説明したら、人も探せると思われるかもしれませんね」
トーマは余白に『人への使用は未試験』と書き、照合で得た情報を別に添えた。
「今日は照合で気づけた。でも、私がいなくても『確認した物だけに使う』という制限は書ける。それが、新しい対象を調べるまでの安全策になる」
トーマは記録へ目を戻した。先生が最後に全部見つけてくれる。それを前提にした書き方では、先生のいない場所へ持っていけない。
少年の記録票の最後に、ヨハンの手によって「※生体(人物)への付与不可」という一文が赤字で書き加えられ、初回の解析記録が綴じられた。距離と持続時間の試験日は、別に予約した。
少年と両親が、涙ぐみながら何度も礼を言って帰っていった後。
ヨハンは誰もいなくなった部屋で、新しい記録簿の分厚いバインダーを開いた。
「さて、トーマ。この解析室の『公開記録の最初のページ』には、彼ではなく、私自身の技能を登録する」
「ヨハン様の、《注釈》ですか?」
「ああ。教える側の人間が、自分の能力を中身の見えない箱にしていては筋が通らないからね」
ヨハンはペンを取り、自らの技能の構造と制約――同意が必要であること、用途までは出ないこと、そして語義の誤読があり得ることなどを、包み隠さず『公開記録一号』として書き込んだ。
ヨハンは、同意の欄でペンを止めた。
「授与の儀礼に同意した人の技能は、私には読めた。でも、何をどこまで読めるのか、本人に説明していなかった」
あの二十三通の宛名を思い出した。
「読める条件がそろったことと、相手が読み取りを理解して選べたことは、同じではない。ここも、私の記録に残します」
トーマは、解析の前に説明する事項の欄を開いた。それから、記録簿の表紙裏へ目を移す。
「ヨハン様。なぜ、ご自身の記録が『一号(一番)』なのですか? 表紙裏に『〇番予約』とあるのは、どなたの分でしょうか」
ヨハンは、ペンを止めた。
その視線は、記録簿の余白を超えて、はるか遠い八年前の、雪の降る冬の街道を見つめているようだった。
「〇番は、空けておくんだ」
ヨハンは理由を説明せず、深い郷愁を込めた声でそれだけを答えた。
いつか、あの冬の日に渡せなかった少年への手紙を、最も正しい形で書き上げるその日のために。
ヨハンは記録簿をパタンと閉じ、トーマに向き直った。
「さて、次の相談者が来る時間だ。……トーマ。次の研修からは、私は答えを先に見ない」
「えっ?」
「先に安全な範囲の試験計画を作り、危険を増やさずに何が分かるかを考えてもらう。必要なら照合も使う。でも、照合なしでは何も決められない記録にはしない」
トーマは次の試験用紙を、自分の席へ持っていった。
ヨハンは向かいの椅子を空け、相談者を迎える支度をした。




