第4話 神官は戦えない
二週間後、地方聖堂の記録室は、監査用の書類で埋まっていた。
記録室の長机には、過去数年分の『授与記録』および『技能支援登録簿』が山のように積まれている。その書類の山を、一枚ずつめくり、別の帳面の同じ日付と照らし合わせている男がいた。
漆黒の外套に、異端審問官の銀の徽章。マティアス・ロウである。
技能支援登録の担当として同席を命じられたヨハンは、無表情を保ちながらも、内心で冷や汗を流していた。
「……ヨハン・エーベル神官」
マティアスが、書類から目を離さずに声をかけた。
「はい」
「あなたの記録の付け方は、非常に特徴的ですね」
マティアスは、七年前から現在に至るまでの第五等級者の登録簿を指先で叩いた。
「通常、地方聖堂における第五等級者の記録は『実用性なし』『用途不明』といった定型文で処理されます。しかし、あなたが担当した記録には、奇妙な注記が散見される。例えばこの三年前の者の技能。単に『無価値』とするのではなく、『非生体物への限定的な作用の可能性を残すため、経過観察とする』と書かれている。……まるで、その技能の背後にある『詳細な条件』を、予め知っていたかのような整理の仕方だ」
マティアスの氷のような視線が、ヨハンを射抜く。
二週間前の夜、セラから知らされた『教会が手紙を調べ始めている』という警告。それが目の前のこの男なのだと、ヨハンは理解した。
「私は技能支援の担当です。将来、彼らが徒弟契約などを結ぶ際、少しでも不利にならないよう、書類上は可能性を残す書き方をしているだけです。下級神官の、ささやかな事務的配慮に過ぎません」
「ささやかな配慮、ですか」
マティアスは探るように目を細めた。ヨハンは書類へ視線を戻した。この男がどこまで掴んでいるのか、まだわからない。
「教会の秩序を乱す『異端の書』の出所は、必ず突き止めます。……それが誰の親切心から出たものであろうとも」
マティアスがそう言い放った時だった。
聖堂の外から、人々の悲鳴と、轟音が響いてきた。
「なんだ!?」
ヨハンが窓の外を見ると、聖堂前の急な坂道で大事故が起きていた。
城壁の補修に使うための鉄骨や巨石を山積みにした大型の荷車が、車輪を破損して横転したのだ。莫大な質量の建築資材が、坂道を転げ落ち、周囲を歩いていた通行人や作業員たちを巻き込もうとしている。
ヨハンは記録室を飛び出し、現場へと走った。マティアスもその後を追う。
現場は阿鼻叫喚の様相を呈していた。横転した荷車の下敷きになり、逃げ遅れた作業員が数名、資材と壁の間に挟まれている。
「そこの三人、荷を引き受ける! いいね!」
現場を通りかかったセラが、挟まれた作業員へ声をかけた。返事を確かめてから、《重荷》を使う。圧迫を一部引き受け、その間だけ増した力で鉄骨を押し上げた。
だが、荷車の軸が沈んだ。上の石材まで動き始める。
「追加は無理だ。支えがいる!」
セラが叫ぶ。ヨハンは横倒しの荷車と、壁の間を見た。残った車輪に鉄骨を預ければ、全重量を人が支える必要はない。
「車止めを二つ持ってきてください。マティアスさん、あの車輪が回らないように!」
審問官は返事の代わりに、腰の短剣で荷縄を切った。御者と二人で車軸を縛り、壁へ固定する。
「ヨハンさん、これを下へ入れれば?」
ルカが角材を抱えてきた。右腕はようやく添え木が外れたところだ。
「置くだけでいい。中へは入るな」
ヨハンが言い終える前に、鉄骨の端が滑った。角材を差し込んでいたルカの左肩へ、鈍い衝撃が落ちる。
「……延期しました」
少年の声が細くなった。セラと車輪が大半を受けているが、このまま荷重が増せば、打撲では済まない。
ヨハンは傍らにしゃがんだ。《注釈》を使っても、未来の怪我の大きさや正確な残り時間が見えるわけではない。
「肩だけか。息はできるか」
「できます。でも、重くなってきてます」
「なら今すぐ減らす。セラ、左へ半歩。車輪に鉄骨を載せられる?」
「固定は?」
「済んだ」とマティアスが答える。
「三人とも、挟まった脚を引く準備を。ルカは私の方へ出る。せーの――」
セラが鉄骨をずらし、車輪が軋んだ。
ヨハンはルカの襟を掴んで引いた。入れ替わりに御者が角材を差し込み、作業員たちが一人ずつ這い出す。
最後の靴が抜けたのを見届けてから、セラも手を放した。
鉄骨が角材を押し割った。積み荷が崩れる音に、ヨハンは思わず目を閉じた。
歓声が上がる前に、彼はルカの肩を確かめた。
「戻してから、今日の救助は終わりだ。治療室へ行こう」
「はい」
セラが少年の無事な側へ回る。
「次は、私の声も聞きなよ。ひとり増えれば助かるとは限らない」
ルカは頷いた。ヨハンにも、その言葉は痛かった。
治療室でルカが解除すると、肩に広い内出血が現れた。骨は無事だったが、腕を上げようとして顔をしかめる。ヨハンは冷やした布を当て、当番の治療師へ引き継いだ。
セラは戸口でマティアスに礼を言った。
「あんたもよく動くね」
「見ているだけでは、監督になりませんから」
マティアスはヨハンへ向き直った。
「今の指示は、何を根拠に?」
「昨日までに本人たちから聞いた範囲と、目の前の荷重です。残り時間は断定できませんでした」
審問官は手帳を開いた。何を書かれたか、ヨハンには見えなかった。
*
午後。
事故の処理とルカの治療を終え、ようやく一息ついたヨハンは、上司であるラウル司祭の執務室に呼び出されていた。
ラウル司祭は穏健で事なかれ主義な初老の男だ。彼は額の汗を拭いながら、一枚の羊皮紙をヨハンに差し出した。
「ヨハン君。急で申し訳ないのだが、明日から数日、王都へ出張してくれないか」
「王都へ、ですか? 私は技能支援の事務がありますが」
「中央授能審査局からの要請でね。明日の王都での大授与式に、地方聖堂の代表として『記録係』を一人派遣しろと言ってきたのだ」
ヨハンは微かに眉をひそめた。ただの記録係のために、わざわざ地方の神官を呼ぶのは不自然だ。
「明日の対象者に、何か特別な事情でも?」
「ああ」
ラウル司祭は声を潜め、周囲を気にするように言った。
「明日の授与式には、国王陛下の御息女、第三王女リアーネ殿下が含まれている。王族の儀式ゆえ、各地方の代表を立ち会わせ、権威を示したいのだろう」
王族の授与式。
それは、教会の等級制度が最も重い意味を持つ場所だ。
「承知しました。夕方の乗合馬車なら、今夜のうちには着けます」
ヨハンは一礼して部屋を辞した。
招集状の末尾には、王族の判定も例外なく現行表に従うこと、とあった。ヨハンはその一行を読んでから、書類を鞄へしまった。




