第3話 先生と呼ぶのはやめてください
「二十三人。数は、合ってるね」
薄暗い執務室の中、机に叩きつけられた封筒と、目の前に立つS級救助冒険者の女性。
ヨハンは心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。息が詰まる。あの数を知る人間が、目の前にいる。
「……人違いではありませんか。私はしがない下級神官です。冒険者の方に探されるような覚えは――」
「セラ・ノルン」
ヨハンの言い訳を遮るように、女性は自身の名を名乗った。
「七年前の春。この地方聖堂で『授与の儀』を受けた。授能板に浮かんだ技能は《重荷》。等級は第五。親にはその日のうちに家を追い出され、泣きながら街道をとぼとぼ歩いてた時だ。……ポケットの中に、見覚えのない羊皮紙が入っていることに気づいたのは」
セラという名と、《重荷》という技能。
ヨハンの脳裏に、七年前の記憶が鮮明に蘇った。
あの年の春、二十歳のヨハンは、震える手で初めてあの手紙を書いたのだ。
『同意した相手の物理的な負荷を一部引き受ける能力です。引き受けている間だけ身体の力も増しますが、引受量には上限があります。精神的な罪などは対象外です。重い荷物を持つ商人や、怪我人を運ぶ人を助ける仕事を探しなさい』
それは、外れスキルと宣告され、絶望のどん底に落とされる若者をこれ以上見過ごせなかったヨハンが犯した、最初の『規則違反』だった。
「……君、なのか」
ヨハンの声は掠れていた。七年前の、ひどく怯えていた小柄な少女の面影を探す。目の前にいるのは、数多の死線を越えてきたであろう堂々たるS級冒険者だ。
「ああ。あんたの手紙のおかげで、私は自分の能力の『条件』を知った。荷運びから始めて、今じゃ遭難者や怪我人の負荷を肩代わりして運ぶ救助隊の隊長だ。……ずっと会いたかった。ありがとう、先生」
セラは真っ直ぐにヨハンを見つめ、深く頭を下げた。
しかし、ヨハンはその言葉に激しく首を振った。彼は慌てて執務室の扉が閉まっていることを確認し、声を落とす。
「先生と呼ぶのはやめてください。私はただの神官です。それに、私があの手紙を書いたという証拠はどこにもないはずだ」
「授与で札を渡した神官なんて、忘れないさ。ただ、しばらくすると出張担当の名簿まで調べる余裕はなくなった。暮らすので精いっぱいでね。あんたが今もここにいて、同じことを続けてると確かめたのは最近だよ」
セラは呆れたように肩をすくめ、胸当ての内側から革表紙の古い手帳を取り出した。
「警戒するのはわかる。教会にバレれば、あんたはただじゃ済まないからね。でも、安心しな。私が各地を回れるようになってから、同じ紙を持つ奴を探した。多くは、あんたのことを察してたよ。公言は待ってくれと頼んだ。名前が広がれば、手紙が途切れると思ってね」
「全員の……行方?」
「昨日の夜、手紙に書いただろ。あんたが七年で手紙を忍ばせた二十三人は、全員生きている」
その言葉を聞いた瞬間、ヨハンは膝から崩れ落ちそうになった。
机に手をつき、必死に体を支える。視界が滲んだ。
彼にとって、手紙を渡す行為は決して自己満足や正義感などという美しいものではなかった。能力の片鱗だけを教えて社会に放り出す無責任な行為ではないか。自分が書いた『使い方』のせいで、かえって彼らを危険な目に遭わせているのではないか。
その恐怖と罪悪感を、七年間、誰にも言えず一人で抱え込み続けてきたのだ。
「全員……生きているんだな。本当か」
「ああ、私がこの足で確かめた。だから、自分を責めるような顔をするな」
セラは優しく微笑みかけたが、すぐにその表情を引き締めた。
「ただ、勘違いはしないでほしい。あんたは恩人だが、あんたの方法は神様でも魔法でもないってことだ」
「どういうことですか」
「全員生きている。だが、全員が私のような冒険者や、成功者になったわけじゃないってことさ」
セラは手帳のページを捲り、冷徹な事実を告げ始めた。
「二十三人のうち、私を含む三人は上級の冒険者級になった。六人は測量士や仕立て屋といった専門職に就いて、それなりに稼いでる。あとの十四人は、農家で働いたり、宿駅に勤めたり、まだ勉強していたり。それぞれだ。技能を仕事に使っていない奴もいる」
「そうか……」
セラはページの角を押さえた。
「一人、手紙の意味を広げすぎて大怪我をした奴もいる。生きているから、全部うまくいったという話じゃない」
ヨハンは手帳へ手を伸ばしかけ、止めた。
「会えますか。その人に」
「連絡はする。何を話すかは本人が決めることだ」
「……ええ」
セラは手帳を閉じず、別の一行を指した。娘の生まれた受取人から、名付けに迷っているという便りが来ていた。
ヨハンはその行を、二度読んだ。
「この子は、授与の時、ろくに顔を上げなかった」
「今は抱っこを代われって、奥さんに叱られてるよ」
笑おうとしたのに、うまく息が出なかった。ヨハンは両手で顔を覆った。
セラは急かさなかった。机の端へ水の杯を置き、その手が下りるのを待った。
「昨日、ルカが紙を握って聖堂へ戻るのを見た。今日は治療室で、また怪我をしたと聞いたよ」
セラは杯の縁を指で弾いた。
「あの子は、使い方を知ったばかりだ。ひとりで加減を覚えろってのは、きつい」
「庇うようには、教えていません」
「うん。でも、しないようにも教えきれなかった。次から私も手を貸す。それを言いに来た」
ヨハンは初めて、セラを正面から見た。
「調査が来てる。先生、一人で続けられる時期は終わりだよ」
「教会が?」
「ああ。記録を調べてるらしい。今夜の話も、誰に何を伝えたかは控えておこう」
ヨハンは手帳を開いた。セラは、受取人が公開を望んでいない箇所を指で押さえた。
*
ヨハンがセラから情報の共有を受けていたのと同じ頃。
春の夜風が吹き抜ける地方聖堂の正門を、一人の男が静かにくぐり抜けていた。
教会の標準的な神官服の上から、漆黒の外套を羽織った長身の男。彼の襟元には、神の教えに反する者を裁く『異端審問官』の銀の徽章が鈍く光っていた。
男の名はマティアス・ロウ。
「……ここが、噂の発生源か」
マティアスは冷徹な眼差しで、そびえ立つ聖堂の尖塔を見上げた。彼の手には、羊皮紙の束が握られている。それは各地で密かに回収された、第五等級者に向けられた『匿名の技能文書』の写しだった。
神の奇跡である技能を、一個人が勝手に解釈し、標準化等級の秩序を乱している。これは教会に対する重大な規律違反だ。
「筆跡の主は、必ずこの中にいる。……事故が起きる前に、私が止める」
手続と規則を何よりも重んじる審問官の靴音が、静かな聖堂の石畳に冷酷に響き渡った。




