第2話 戻るかどうかは、僕が決めます
翌朝、ヨハンが治療室へ入ると、ルカは椅子の上に外套と銀の指輪を並べていた。
左腕の包帯はきれいなままだ。裂傷は塞がったが、触れればまだ痛む。ヨハンはそれを確かめてから、扉の外に待たせた客を招き入れた。
ヴァルト侯爵家の家令、ダリウスである。
「ダリウス……」
ルカが名前を呼ぶと、ヴァルト侯爵家の家令であるダリウスは、感情のない声で一礼した。
「ルカ様。いえ、今日からはルカ殿とお呼びすべきですね。当主様からの命により、侯爵家の財産である装備と家印を回収に参りました」
家令の言葉に、ルカは唇を噛みしめた。彼は無言のまま、椅子に並べた侯爵家特注の外套と、身分を証明する銀の指輪を差し出した。ダリウスはそれらを麻袋に放り込むと、ヨハンに向き直った。
「神官殿。こちらが当主からの廃嫡証書の写しです。教会の技能支援登録簿への反映をお願いしたい」
「拝見します」
ヨハンは事務的な手つきで証書を受け取り、目を通し始めた。
「当主様はひどく落胆しておられましたよ。長男レオン様は、既に第一等級の標準技能班で小隊長として責務を果たしておられるというのに。ヴァルト家の血筋から、まさか第五などという使えない能力が出るとは」
兄の名が出ると、ルカは包帯の端を握った。ヨハンは家令の説明を遮り、証書の末尾を指で押さえた。
「確認しました」
ヨハンが顔を上げ、証書の一部を指差した。
「技能支援登録の担当として一つ確認事項があります。この証書の第七項、『技能再評価による撤回条項』が『なし』と明記されていますね。技能の評価が変わっても、家の一存では呼び戻せないという意味です。本人の同意と、新たな手続きが必要になる。それでよろしいですね?」
「ええ、当然です」
ダリウスは鼻で笑った。
「第五等級の能力に、後から価値が見出されることなどあり得ない。当主様は、一刻も早く家系の汚点を消し去りたいとお考えなのです」
ヨハンはルカにも、証書を読み上げた。
「この写しを受け取ったことを記録する。家へ戻れという命令ではなく、自分で徒弟先を選ぶための支援に切り替えられる。そうしていいか」
ルカはしばらく黙り、やがて頷いた。
「……お願いします」
「承知しました。廃嫡証書を受理し、本人の希望により聖堂の支援枠へ登録します」
ヨハンは羊皮紙に聖堂の受理印を押し、淡々と告げた。
家令は満足げに頷くと、「では、私はこれで」と足早に治療室を出て行った。
静寂が戻った部屋で、ルカは俯いたまま拳を握りしめていた。
「悔しいか」
ヨハンが書類を整理しながら問う。
「……当たり前です。使えない能力だからって、昨日まで家族だったのに」
「使えないかどうかは、名前だけで決まるものじゃない。昨日、君自身が証明したはずだ」
ヨハンがそう言った直後だった。
聖堂の外、街道の方角から「ドォン!」という地響きを伴う轟音が鳴り響いた。続いて、馬のいななきと人々の悲鳴が聞こえてくる。
「何事だ!?」
ヨハンとルカが聖堂の外へ飛び出すと、すぐ近くの崖沿いの道で土煙が上がっていた。春の雪解け水で地盤が緩んでいたところに、大規模な落石が発生したらしい。
砕けた岩の間に、見覚えのある馬車の残骸があった。先ほど聖堂を出たばかりの、ヴァルト侯爵家の馬車だ。
「ダリウス!」
ルカが駆け寄る。馬車は横転し、ダリウスは投げ出されて倒れていた。足を瓦礫に挟まれ、身動きが取れない状態だ。
「ル、ルカ様……お助けを……」
「今、どかすから……!」
ルカは、倒れた御者の肩を支えて路肩へ引いた。ヨハンが近くの荷運び人を呼ぶ。
「そこの棒を! 車軸を浮かせる。ルカは脇へ――」
崖から、小石が降った。
ルカはダリウスの頭を庇って腕を伸ばした。拳より大きな石が、その右腕を打つ。骨の折れる嫌な音がしたのに、少年は悲鳴を上げなかった。
「延期、しました。右腕だけです」
その声を聞いたヨハンの喉が詰まった。だが、今は叱るより先に、全員を崖から離さなければならない。
荷運び人が棒を差し込み、ヨハンと二人で車軸を持ち上げる。ルカは無事な左手でダリウスの襟を掴み、ほんの数歩、引きずった。
三人が路肩へ出た途端、二つ目の石が馬車の屋根を抜いた。
「腕は動かすな」
ヨハンは上着を裂いて右腕を吊った。
「今は痛くなくても、折れた結果を抱えている。昨日の浅い傷よりずっと重い。何日も待てない、長くても数時間だ」
「昨日も、すぐ治療したじゃないですか」
「昨日は自分で解除した。今日も期限を待たずに治す。間に合ったから、次も大丈夫とは思わないでくれ」
ルカの頬から、ようやく血の気が引いた。
ヨハンは荷運び人に礼を言い、怪我人たちを聖堂へ運ぶ手配をした。
治療室では、当番の治療師がルカの腕を固定して待った。
解除した瞬間、ルカが呻き、指先が震えた。治療師が骨の位置を整え、治癒術を施す。その間、ヨハンは少年の左手を握っていた。
すぐ逃げ出せる場所まで来た。治療する人が待っていた。それでやっと、骨折を安全に引き受けられたのだ。
「消えないんですね、本当に」
「ああ」
ヨハンは答えた。ルカが握る力は、なかなか緩まなかった。
*
数時間後。聖堂の治療室に、侯爵家の立派な馬車が乗り付けてきた。
降りてきたのは、当主であるヴァルト侯爵本人だった。
家令のダリウスから報告を受けたのだ。落石を受けても動き、家令を助けたと。清算の痛みは、その報告から抜けていたらしい。
「ルカ! 無事か!」
治療室の扉を荒々しく開けた侯爵は、ベッドで横になっている息子を見て目を輝かせた。ルカの右腕には添え木が残っていた。治癒術で骨がつながっても、しばらくは安静が必要だ。
「ルカ、ダリウスから聞いたぞ。お前の《後回し》とは、致命傷を無効化し、前線で盾として立ち回れる能力なのだな! これなら我が軍の先陣として大いに役立つ!」
侯爵は興奮気味に語る。第五等級の無価値な能力ではなく、最前線で命を張れる有用な能力だと勘違いしたのだ。
「さあ、家に戻ろう。お前の勘当は取り消しだ。お前はやはり我が誇り高きヴァルト家の――」
「お待ちください、侯爵閣下」
ベッドの前に立ちはだかったのは、ヨハンだった。彼の手には、今朝受理したばかりの分厚い公的記録簿が握られている。
「神官、どけ。我が家の問題だ」
「いいえ、もはや貴族家の問題ではありません」
ヨハンは記録簿を開き、該当する条文を読み上げた。
「『技能再評価による撤回条項なし』。今朝、ご自身の家令を通じて提出された廃嫡証書です。教会は既にこれを受理し、ルカは平民として技能支援の対象となりました。教会の公文書は、貴族の都合で即日反故にできるものではありません」
「なっ……! たかが下級神官が、私に盾突くというのか! あの書類は間違いだったのだ。今すぐ破棄しろ!」
「できません。手続きは完了しています」
「家へ戻すには、本人が望むことが必要です。閣下は今朝、その子を家の命令から外された。技能が役に立ったからと、なかったことにはできません」
記録簿を持つ手が震えた。ヨハンは机の縁へ押しつけ、侯爵の返答を待った。
「それに、父上」
ベッドの上から、ルカが静かな声で言った。
「僕の能力は、致命傷を無効化するような便利なものじゃありません。結果を少し先送りするだけです。致命傷なら、数分しか待てないかもしれません。治療できなければ、そのまま死にます。……第一等級の兄上のように、家の役には立てません」
「ルカ、お前……」
ルカは、父の差し出した手を見た。家の食卓も、使い慣れた寝台も思い出せる。伸ばしかけた指を、膝の上で握った。
「僕は家には戻りません。ヨハンさんに紹介状を書いてもらって、技能記録士の徒弟先を探すつもりです。自分の能力の『本当の形』を、もっとちゃんと知りたいから」
ルカは父親を見続けられず、一度、目を伏せた。それでも「戻りません」という言葉は取り消さなかった。
侯爵はギリッと奥歯を噛み鳴らしたが、教会の制度を曲げることも、本人の意志を覆すこともできないと悟ると、「勝手にしろ!」と吐き捨て、嵐のように去っていった。
治療室に、再び静寂が戻る。
「今日は、よく言えたな」
「……あとで、後悔するかもしれません」
ルカは戸口を見たまま答えた。
「それでも、僕が決めたことにしたいです」
ヨハンは頷き、紹介状を書くためにペンを取った。
*
夕刻。
ヨハンが執務机で本日の騒動の記録をまとめていると、聖堂の扉が開く音がした。
「今日はもう閉館時間ですが」
ヨハンが顔を上げると、そこに立っていたのは大柄な女性だった。
使い込まれた上質な革鎧。腰には無骨な長剣。その佇まいは、数々の死線を潜り抜けてきた凄腕の冒険者であることを示している。胸元には、冒険者ギルドの最高位を示す『S級救助冒険者』の証が輝いていた。
女性――セラは、無言のままヨハンの机の前に歩み寄ると、懐から一通の封筒を取り出し、バンッ! と音を立てて机に叩きつけた。
「……これは?」
ヨハンが尋ねるより早く、セラは射抜くような目でヨハンを見据えた。
「昨日、侍祭に手紙を預けただろ。返事を待てなくて、来ちまった」
ヨハンの心臓が跳ねた。
封筒の宛名は、昨夜読んだ手紙と同じ筆跡だった。




