第1話 外れと告げる日
「第五等級です」
ヨハンが告げると、少年の父親は、もう息子を見なかった。
ほんの少し前まで、男は祭壇の前で胸を張っていた。
春の大授与期。十五歳の誕生月を迎えた若者と家族が、地方聖堂の礼拝堂を埋めている。学院へ進む者、徒弟先を決める者。彼らの行き先を左右する技能を告げるのが、下級神官ヨハン・エーベルの仕事だった。
二十七歳のヨハンの襟元でも、第五と刻まれた銅札が揺れていた。固有技能は《注釈》。彼もまた、外れと呼ばれた一人だ。
「次。ルカ・ヴァルト」
名前を呼ばれ、一人の少年が一歩前に出た。
上等な仕立ての服を着た、育ちの良さが窺える少年だった。ヴァルト侯爵家の次男。その後ろには、厳しい顔つきをした父親の侯爵が腕を組んで控えている。
「祭壇へ。授与の儀礼に同意し、神に心を開きなさい」
ヨハンが事務的な声で促すと、ルカは緊張した面持ちで頷き、祭壇の『授能板』に手を触れた。
淡い光が溢れ、板の上に文字が浮かび上がる。板に現れるのは技能の名称と大まかな系統まで。等級は、それを教会の判定表と照合して定める。
固有技能:《後回し》
系統:自己作用
ヨハンは判定表と照合し、第五等級を告げた。
侯爵の指が、腰の家印から離れた。
第五は学院の推薦からも、就職の優先枠からも外れる。侯爵が見ているのは、銅札に刻むたった一つの数字だった。
「……第五、だと?」
沈黙を破ったのは、ルカの父親だった。その声には、怒りよりも深い失望が込められていた。
「《後回し》などという、意味すら不明な能力が。我がヴァルト家の血筋から、第五等級の欠陥品が出るとは」
「父上、これは、その……」
「黙れ」
すがるように振り返ったルカを、父親は冷酷な目で見下ろした。
「お前は今日から、侯爵家の継承候補から外す。家に残ることは許さん。適当な徒弟先でも探すことだな」
それは事実上の廃嫡宣言だった。ルカの顔から血の気が引く。
「神官殿、ご苦労だった。見苦しいものを引き当てたな」
侯爵はそれだけを言い捨て、足早に礼拝堂から出て行った。取り残されたルカは、震える手で自身の技能が刻まれた銅の札を握りしめている。
後ろの列で、母親が子の肩を抱き寄せた。誰もルカに近づこうとしない。追い出せと教会が命じたわけではない。それでも第五という判定は、父親が息子を捨てる口実になった。
だが、ヨハンだけは違った。
ルカが儀礼に同意し、技能を顕現させたこの瞬間。ヨハンの第五等級の技能《注釈》は、すでに静かに発動していた。
彼の能力は、本人の同意下においてのみ、技能の背後にある「構造情報」を読み取ることができる。それは神の言葉そのものではなく、ヨハンの頭の中で、彼自身の語彙に変換された補足文として知覚される。
ヨハンの脳裏に、《後回し》の本当の意味が浮かび上がった。
『自分に生じた一つの結果を一時延期できる。ただし結果は消去・軽減されず、解除時または限界時に必ず清算される。規模が大きい結果ほど、保持時間は短い』
なるほど、とヨハンは内心で合点がいった。
無効化ではなく、支払日の変更。たしかに直感的には使いにくい。逃げてから手当てを受ける時間を作れるかもしれない。ただし、戻ってきた傷に耐えられることが前提だ。
しかし、神官である彼が判定を覆すことはできない。独自の解釈だけで等級を変えたり、教会公認の使い方として教えたりすることは許されない。
「ルカ・ヴァルト。判定は出た」
ヨハンは証明書を整えるふりをして、机の陰で紙片にペンを走らせた。乾ききらない文字を内側に折る。銅札と重ね、少年の掌へ押し付けた。
「教会は君の道を定めない。だが、君の技能は君自身のものだ。帰り道、決して自暴自棄にならないように」
ヨハンは声のトーンを落とし、ルカにしか聞こえない声で囁いた。
「……え?」
「早く行きなさい。次の者が待っている」
呆然とするルカを冷たく追い払う。周囲の目には、冷淡な神官があっさりと少年を見限ったようにしか映らなかっただろう。
*
ルカは自分がどうやって聖堂を出たのか、よく覚えていなかった。
手には、ヨハンから握らされた小さな羊皮紙がある。そこには見慣れない整った字で、こう書かれていた。
『自分に起きた一つの結果を、一時的に先送りできます。傷は消えません。重い傷ほど早く戻ります。限界まで待たず、自分で解除できます。怪我をして試してはいけません。使ってしまったら、何も追加せず、すぐ聖堂裏の治療室へ』
意味がわからなかった。先送り? 傷が消えない?
頭が混乱したまま、ルカは郊外の街道を歩いていた。家に帰ることはできない。かといって、行くあてもない。十五歳にして、自分の人生は終わってしまったのだという絶望だけが支配していた。
その隙を突かれた。
ガサリ、と茂みが揺れたかと思うと、飢えた野犬のような姿をした魔獣が飛び出してきた。春先は魔獣も気が立っている。
「うわっ!」
ルカは反射的に腕を交差させて顔を庇った。
鋭い牙が、外套ごとルカの左腕に食い込む。牙が皮膚を裂く感触があった。ルカはとっさに、腕を引いた。
激痛が走る――はずだった。
だが、何も感じなかった。
外套には牙の穴があるのに、腕には痛みも血もない。まるで現実感が抜け落ちたような奇妙な感覚。
(なんだ、これ……結果を、先送り?)
ルカは神官から渡された手紙の一文を思い出した。
これが《後回し》の力。負傷という「結果」が、今は保留されているのだ。
『重い傷ほど早く戻ります』
ルカは魔獣の鼻先を蹴り上げると、無傷のように動く左腕を振って、全力で走り出した。向かう先は一つしかない。
聖堂の裏口に飛び込むと、そこには既に止血帯や治癒薬をテーブルに並べたヨハンが待っていた。
「何を延期した? 腕だけか」
ヨハンは椅子を引き寄せた。魔獣と聞くと外套の裂け目を確かめ、ルカの腕を清潔な布の上へ置く。
「まだ痛くないです。このままなら――」
「消えたわけではない。治療の準備ができた今、解除しよう。できるか」
ルカは紙片を握りしめ、頷いた。
「……戻れ」
左腕に二本の裂傷が現れた。鋭い痛みに息が詰まり、布へ血が落ちる。
ヨハンはすぐに傷を押さえた。深さを確かめ、洗い、聖堂で習った応急の治癒術を重ねる。骨には届いていない。
「よく戻った。ここなら、血を止められる」
治癒の術式がかけられ、痛みが徐々に引いていく。荒い息を吐きながら、ルカは自分の腕と、目の前の下級神官を交互に見つめた。
「あなたは……僕の能力が、わかっていたんですか」
「授与の時、君が同意して技能を顕したから、補足が読めた。どんな怪我をするかまでは、わからない」
ヨハンは包帯を巻き終えると、小さく息をついた。
「勘違いしないでほしい。君の能力は万能じゃないし、傷を無かったことにはできない。だが、使い所を間違えなければ、それは決して『無価値』ではない。使うかどうかの判断は、君自身がこれから学ぶんだ」
ルカは、血に濡れた自分の掌を見つめた。
第五等級。外れスキル。父は見捨てた。だが、目の前の神官は、能力の「本当の形」を教えてくれた。
「僕は……」
「今日はここで休むといい。明日のことは、明日考えればいいさ」
*
その夜。自室に戻ったヨハンは、ランプの火を灯し、大きく伸びをした。
また一人、規則の隙間で救ってしまった。これが明るみに出れば、神官としての地位など一瞬で吹き飛ぶだろう。
ふと、机の上に視線を落としたヨハンの動きが止まった。
そこには、見覚えのない封筒がぽつんと置かれていた。封筒には宛名だけがある。夕刻に侍祭が届けた私信だろう。差出人はない。
ペーパーナイフで封を切り、中の便箋を取り出す。
そこには、短くこう書かれていた。
『七年前の一枚目を覚えていますか。
二十三人は、全員生きています。今日の子で、二十四人目ですね。
気をつけて。教会が、手紙を調べ始めました』
ヨハンの背筋に冷たいものが走った。
表立っては、誰も口にしなかった秘密。追放される子供たちへ、使い方を忍ばせ続けてきた七年間。
ヨハンの指は「全員生きています」の一行に留まった。
数え直さなくても二十三という数は知っている。その前に、渡せなかった一枚があることも。
その足跡を、誰かが見ている。
ヨハンはもう一度、二十三人という数字を読んだ。
安堵で震えているのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。




