第38話 あと一回だけ動く機械
巻上機は、止まる時より動く時の方が怖い音を立てた。
鉱石を載せた台車が、斜面のレールを上ってくる。引き上げる綱の一本が、ほぐれた糸のように揺れていた。
王都から北西へ半日。鉱山工房への立入検査に、ヨハンとガイは技術確認の協力者として同行した。ルカは安全区域内で記録を補助する。マティアスは入口で令状の対象と帳簿を確認していた。
「補修の継ぎ目が多すぎる」
ガイが言った。右脚の補助具を止め、遮蔽壁の内側から機械を見る。
錆だけで耐用限界とは決められない。だが、歯車の欠け、綱の素線切れ、点検札の日付は別だった。
操作盤の前には、二十歳ほどの青年がいた。
「さっさと次を動かせ。午前の分が残ってる」
監督者がせかすと、青年は隣の駆動機へ手を伸ばした。
「やめとけ!」
ガイの声で、その手が止まる。
「検査中だ。動かすな。あの綱の検査記録を見せろ」
「技能で動くんだ。部外者が口を出すな」
「動くことと、荷を支えられることは別だろうが!」
監督者の顔つきが変わった。同行の設備検査官が近づき、停止を命じる。
青年が、ようやく操作盤から離れた。
「俺のは、《あと一回》です。限界の機械を、一度だけ動かせます。でも、終わったら、もう戻せない」
丸ごと一台へ使うと動かなくなる。そこで監督者は、交換した駆動機を次々に動かさせていたという。残された綱やレールまで新品になるわけではない。
ルカは青年の言葉を、聞き取りとして書いた。まだ全容が分かったとは書かない。
乾いた音がした。
斜面の途中で止めていた台車が、指一本分だけ後ろへ動いた。
「制動器が滑っています!」
設備検査官が警鐘を鳴らした。
綱は台車を支えきれない。下方の積込場には、まだ作業員がいる。停止しても、傷んだ部品から荷重が消えるわけではなかった。
「下へ退避の鐘を! レールへ入るな!」
ガイは叫び、壁に掛かった設備図を引き寄せた。図の線を指でたどる。
斜面の下に、無人の砂受け場へ分かれる非常退避線がある。分岐器は独立していた。
「非常分岐は使えるか」
青年は唇を震わせた。
「切替機が壊れて、ずっと……」
「じゃあ、手動は」
「軸が固着してる。俺の力で一度だけなら、たぶん」
たぶん。その言葉を、ガイは聞き落とさなかった。
「保証はできねえ。下の退避を先にする。あんた、砂受け場を確認してくれ!」
検査官が係員へ指示する。ルカは警鐘の綱を引き続けた。
ヨハンは青年の前へ立った。
「切替機なら、ここから手が届きますか。動かす前に、私の技能で条件を読むことを許してくれますか」
青年がうなずき、壁の切替機へ掌を置いた。
「《あと一回》」
発動をヨハンが読む。設計上の通常動作を一回。設計出力は超えない。終われば対象は不可逆に破損する。
「押し戻す力はありません。分岐を切り替える一動作だけです」
「それでいい。台車を受け止めるのは、退避線の仕事だ」
ガイは図から顔を上げた。
砂受け場の無人を知らせる旗が上がる。最後の作業員が積込場の柵を越えた。
青年がレバーを引いた。
切替機の軸が、長い悲鳴を上げながら回る。レールの先端が、退避線側へ寄った。
その直後、綱が切れた。
台車が斜面を滑り落ちる。鉄の車輪が継ぎ目を叩き、分岐で大きく跳ねた。
誰も声を出せなかった。
台車は砂受け場へ突っ込み、鉱石を撒き散らして止まった。粉塵が柵を越える。切替機は内部で折れ、青年の手元から動作の感触が消えた。
「……動いた」
青年は、壊れた機械ではなく、自分の掌を見ていた。
ガイは隣の壁へ背を預けた。右脚が震えている。走らずに済んだのに、汗が止まらなかった。
「人数は」
「全員確認。負傷者の確認を続けています」
検査官の返事を聞いて、ようやく息を吐く。
「俺、次も……」
青年が言いかけると、ガイは首を振った。
「次は機械を直す。この技能で毎日をつなぐんじゃねえ」
青年は黙ってうなずいた。
ヨハンも、よくやったという言葉だけで終えなかった。危険の中で発動させた判断と、確認しきれなかった条件を、記録に残す。事故を防げたことは、その手順を通常業務にしてよい理由ではない。
マティアスは現場の保全を指示し、共同調査の担当者が設備と帳簿の差押えを進めた。労働者の聞き取りは、雇い主のいない別室で行う。
日が傾く頃、ガイがヨハンへ言った。
「昔の俺なら、あいつに『絶対できる』って言ったかもしれない」
「今日は、言わなかった」
「怖かったからな。何が壊れたままなのか、分かってた」
彼は右脚の留め具を締め直した。
その傷を経験と呼ぶことはできる。だが、傷を負ってよかったと、他人が言うことではなかった。
王都へ戻ると、公聴会へ提出する証言の、聴取通知が届いていた。鉱山の件だけでなく、五年前の負傷についてもガイへ質問するという。
「話すかどうか、希望を聞かせてくれ」
ヨハンが尋ねた。
ガイは通知を読み、折り目をつけずに机へ置いた。
「話す。あんたを助けるための証言には、しねえぞ」
「ああ」
「俺の怪我は、誰にも美談にさせねえ」




