第37話 読めるなら、これを読んでみなさい
王都大聖堂の中央講堂。そこは数百人の高位神官と魔導官吏を収容できる、教会内で最も権威ある議場だった。
円形のすり鉢状になった議席の最下層、証言台の前にヨハン・エーベルは一人立っていた。
彼を見下ろす議長席には、中央授能審査局長である枢機卿デルムントが座している。
デルムントの合図とともに、審査局の書記官たちが数十冊に及ぶ古い記録の束をヨハンの前の机にドサリと積み上げた。
「事前に提示された事故記録ですね」
ヨハンが尋ねると、デルムントは冷え切った琥珀色の瞳で彼を見据えた。
「過去数十年間に、第五等級の条件型技能の暴走、あるいは条件の誤認によって発生した、死亡事故の記録だ」
講堂内がざわめく。
デルムントは手元の書類を一枚手に取り、淡々と読み上げ始めた。
「二十年前、西部の村。第五等級《増幅》の持ち主が、自身の能力が炉のどこまで作用するかを確認せず、圧力を設備の限界以上に高め、村の半分を吹き飛ばして死亡。……十六年前、南部の街。第五等級《癒着》の持ち主が、自身の肉体と魔獣の肉体を切り離せなくなり、激痛の中で絶命」
次々と読み上げられる凄惨な事故の記録。
「ヨハン・エーベル。君は第五等級を無価値ではないと主張し、本人も説明を受け、監督の下で使い方を検証できるようにすべきだと唱えている。だが、非標準技能とはこれほどまでに危険で、予測不能なものなのだ。一つ条件を見落とせば、当事者だけでなく周囲の無関係な命まで巻き込む」
デルムントの言葉は、圧倒的な事実として聴衆の神官たちの間に恐怖と共感を呼び起こしていた。
「君の提唱する九十日の試験とやらで、本当にこの悲劇をゼロにできるのか? 個人の知恵や注意力に依存する部分を、君はまだ減らしきれていない」
デルムントは立ち上がり、机の上に積み上げられた死者の記録を指差した。
「君には、他者の技能の構造を読み解く《注釈》という特別な目があるそうだな。ならば、その力で今ここで証明してみせたまえ。ここにある死者たちが、一体どのような制約を見落とし、どうすれば死なずに済んだのかを。……読めるなら、これを読んでみなさい」
それは、究極の挑発だった。
過去の死者の能力を解き明かすことができなければ、ヨハンの手法は過去の悲劇を救えない不完全なものだと印象づけることができる。
講堂中の視線が、ヨハンの一挙手一投足に突き刺さる。
だが、ヨハンは積み上げられた記録の束を一瞥し、一切の動揺を見せずに即答した。
「不可能です」
その言葉に、講堂のあちこちから失笑が漏れた。
「不可能なのだな」とデルムントが確認するように言う。「君のその力は、死者の記録の前では無力だということだ。ならば――」
「ええ。記録の紙束をいくら見つめても、私の《注釈》は一切発動しません」
ヨハンは議長席を真っ直ぐに見上げた。
「私の技能は、全知全能の神の眼ではありません。対象となる人物が『本人の同意』を示し、かつ私の目の前で『技能を顕現』させなければ、構造情報を読み取ることはできないという、厳格な制約があるからです。死者や、紙に書かれた文字からは何も読めません」
「つまり、君の能力は極めて限定的で、万能ではないということだ。そのような属人的で欠陥のある能力を前提とした制度など、到底受け入れられるものではない」
デルムントの冷酷な断定。議席にはうなずく者も、首を傾げる者もいた。
しかし、ヨハンは怯むことなく、むしろさらに一歩前へ出た。
「その通りです。私の能力は限定的で、欠陥がある。……だからこそ、制度が必要なのです」
「何?」
「猊下の仰る通り、記録の文字だけでは、私にも、あなた方にも、そして本人にすら、正しい使い方は分かりません。条件を見落とせば命を落とす。だからこそ、当事者が生きているうちに、彼らの同意を得て、安全な環境で試験と検証を重ねるための『五項目記録』が必要なのです」
ヨハンの言葉が、講堂の空気を鋭く切り裂いた。
「危険な技能があることは否定しません。試験を受ければ彼ら全員が助かったとも言えません。ただ、記録の中には、相談先を見つけられず、無防備な場所で試した事例があります。危険を理由に窓口まで閉じれば、その危険はなくなるのでしょうか」
能力の制約を言い訳にするのではなく、制約があるからこそ本人と一緒に確認する手順(制度)が不可欠なのだと、論理を反転させたのだ。
「私一人の眼で過去の死者を救うことはできません。ですが、私たちが作った記録の手順を残せば、同じ見落としを減らせる可能性がある。その効果も、事故の件数だけでなく使用人数や作業量と合わせて調べます」
ヨハンの揺るぎない反論に、講堂内のざわめきがピタリと止んだ。
デルムントはしばらくの間、無言でヨハンを見下ろしていた。
やがて彼は、小さく息を吐いた。怒りや焦燥ではなく、純粋な計算を終えたような、冷徹な表情だった。
「……見事な詭弁だ。だが、一理ある」
デルムントは再び椅子に腰を下ろした。
「君たちは二百八十年前の原本を見つけ、第一から第五という等級が、強さではなく『標準化難度』であったという事実を突き止めたようだな」
その言葉に、ヨハンの眉が動いた。中央局の長が、あっさりと歴史の隠蔽を認めたのだ。
「私がその事実に気づいたのは、今から十年前のことだ」
デルムントの告白に、今度は議場の神官たちからどよめきが起きた。
「では、なぜ……」
「なぜ公表しなかったのか、と言いたいのか。簡単なことだ」
デルムントは冷え切った目で議場全体を見渡した。
「等級の意味を本来の『標準化難度』に戻せば、当然、全国に散らばる無数の第五等級者たちから、『自分にも有用な使い道があるはずだ、再鑑定をしろ』という要求が殺到する」
技能記録会にも、すでに百件を超える申請が届いていた。その懸念は、ヨハンにも分かる。
「王国中の第五等級者を安全に個別解析するための施設、人材、そして莫大な予算。教会にそれらを負担する余力はない。さらに、君も認めた通り、条件型技能の検証には常に事故のリスクが伴う。もし公式の解析中に死者が出れば、その責任は全て我々審査局が負うことになるのだ」
デルムントは自らの手を広げて見せた。
「私は、再評価の体制が整うまで表記の変更を見送った。用途が見つかるかもしれない、と知らせた後で、試験も生活も支えられない方が無責任だと考えた」
「では、成功の報告を統計から外したのも、そのためですか」
ヨハンが問うた。
「共通の運用にできない事例は、別区分とした。それを標準技能と同じ表へ入れれば、比較を誤る」
別の区分に置くことと、その存在が見えない集計にすることは違う。ヨハンは手元の写しを開いたが、議長席の時計が審議時間の終わりを告げた。
「ヨハン・エーベル。君の提唱する制度は、確かに理念としては美しい。だが、現実の費用とリスクという壁を越えられない限り、私は決して君の改革を承認しない」
公開討論は、双方の主張が平行線を辿ったまま、一旦の休廷が宣言された。
勝敗はつかなかった。だが、ヨハンが敵の土俵で一歩も引かずに論理を通したことは、確かな爪痕を残していた。
*
大聖堂の控室に戻ったヨハンは、冷たい水で顔を洗い、小さく息をついた。
「お疲れ様です、ヨハン殿」
背後から声をかけてきたのは、マティアス・ロウだった。
彼は本日の公聴会には監査官としての立場で同席していたが、直接発言することはなかった。
「マティアス監査官。……デルムント猊下の壁は、想像以上に高いですね」
「ええ。彼を論破するには、言葉だけでは足りない。費用と事故について、どこまで確認でき、どこが不明かを数字で示す必要があります」
マティアスはそう言いながら、手にした黒革の鞄から分厚い帳簿の束を取り出した。
「ですが、彼が守ろうとしている組織の安定には、すでに致命的な『腐敗』が混じっています。共同調査で、保護施設の契約書と支出先の照合が進みました」
マティアスが机の上に広げたのは、複雑な数字と暗号のような記号が羅列された、複数の施設の出納帳の写しだった。
「保護施設が、第五等級者を長期の債務契約で縛り付け、特定の組織へ斡旋して利益を得ていたという件ですね」
「はい。当初は単なる労働力の搾取かと思っていましたが……あっせん先のデータを照合した結果、極めて異常な偏りを発見しました」
マティアスは、帳簿の一点を指で強く叩いた。
「王国の北西部にある、とある『特定鉱山工房』。この一つの工房に向けてのみ、過去数年間で数十人もの第五等級者が集中的に送り込まれています」
「単なる人員不足の補充ではないのですか?」
「ええ。送られた者たちの技能記録を調べると、彼らは皆、戦闘力はないものの『非生体物の性質を局所的に変化させる』ような、一見使い道のない特殊な条件型技能の持ち主ばかりでした。しかも……」
マティアスの目が、冷たく細められた。
「その鉱山工房から上がってくる『設備修繕費』や『安全対策費』の額が、他の同規模の鉱山に比べて異常なほど少ない。にもかかわらず、彼らは古い設備を使い続け、危険な採掘量を維持している」
ヨハンの背筋に、嫌な汗が流れた。
「まさか……」
「そのまさかです。彼らは第五等級者たちを、老朽化した設備の『使い捨ての延命部品』として利用している可能性が高い。そして、その不当な斡旋によって得た利益の一部が、保護施設を通じて審査局の一部の役人へと還流している痕跡があります」
マティアスは帳簿を閉じ、ヨハンを見た。
「デルムント猊下自身がこの横領に関与している証拠はありません。しかし、彼が第五等級の再評価を怠り、例外処理として闇に葬り続けた結果が、この悪辣な利権構造を見えにくくした疑いがあります。ただし、監督責任と金銭的な関与は分けて調べます」
「現場確認に、協力できますか」
ヨハンは聞いた。
「正式な立入検査の同行者として申請します。設備の技術者も必要です。あなた方だけで踏み込まないように」
机の上には、まだ確かめていない数字が並んでいた。その数字の向こうで、いま機械を動かしている人がいる。




