第35話 二百八十年前の等級表
冷たい石と、古い羊皮紙の匂いが立ち込める空間。
王都大聖堂の地下深く、一般の立ち入りが厳しく制限された『封印書庫』の最奥で、ルカの手が微かに震えていた。
「ヨハンさん……これ、間違いありません」
カンテラの淡い灯りの下、ルカが分厚い皮張りの書物のページを開いたまま、ヨハンを振り返った。
表紙には『第一版 標準化等級表 ~および個別試験の推奨について~』と記されている。およそ二百八十年前、教会の『技能院』が創設された当初に編纂された、等級制度の真の原典だ。
ヨハンは静かに歩み寄り、そのページに目を落とした。
そこには、現在の教本へ受け継がれた分類の基準と、表記の古い技能の例が並んでいた。だが、表の最上部、最も重要な見出しには、確かにこう書かれていたのだ。
『第一等級:標準化が極めて容易であり、即時の実務配備が可能』
『第五等級:発動条件・対象の個人差が大きく、標準化が困難。個別試験を推奨』
ヨハンは深く息を吐き出した。
「……やはり、第五は『弱い』という意味ではなかったんだ。当時の技能院は、第一等級を『強い能力』ではなく、『共通の訓練手順を作りやすい能力』として分類していた。そして第五は、条件が複雑すぎてマニュアル化できないものだと」
「ええ」
現役の神官であるトーマが、隣で大きく頷いた。
「二百八十年前の教会は、第五等級を無価値だなんて一言も言っていません。むしろ、『標準化できないからこそ、一人一人個別に試験をして用途を探りなさい』と、公式に推奨していたんです」
それが、失われた制度の真実だった。
個別に調べるという考え方は、ヨハンだけのものではなかった。
ただし、古い推奨文が、今の無許可の行為をすべて正当化するわけではない。指導者や設備の基準も、当時と現在では違う。その留保ごと、トーマは写しに記した。
「じゃあ、なんで今の教本からは『標準化難度』って言葉が消えちまったんだ?」
扉の付近で見張りに立っていたセラが、首を傾げる。
「回覧先から届いた受領簿の番号と、一致しました」
トーマが別の棚から引っ張り出してきた、少し紙質の荒いバインダーを開いた。
「約八十年前。王国が周辺国との大規模な戦争状態にあった時期の、中央授能審査局からの内部通達です」
トーマが読み上げたその文書には、冷酷なまでの合理主義が記されていた。
『戦時下における人員の迅速な配置のため、個別試験の実施を無期限で凍結する。また、煩雑な手続を省くため、今後の通達および教本においては「標準化難度」の表記を省略し、単に「等級」とする。第一等級から順に軍事および生産の要職へ充てること』
戦争という非常事態。
一刻も早く兵士や生産者を前線に送らなければならない状況下で、一人一人に時間をかける『個別試験』は真っ先に切り捨てられた。そして、選別を速めるために『標準化難度』という言葉は削られ、単なる数字の序列へとすり替えられた。
「戦争が終わった後も、その簡略化された数字だけの序列は残った」
ヨハンが、苦渋に満ちた声で引き継いだ。
「管理する側からすれば、これほど便利な定規はないからだ。学院の選抜、補助金の支給、就職の斡旋。人間を第一から第五までの数字で輪切りにしてしまえば、書類の審査は一瞬で終わる」
ルカが悔しそうに下唇を噛んだ。
その便宜的な流用のせいで、ルカ自身も『第五等級の無能』として家を追い出されたのだ。
八十年前の合理化が、いつしか社会の絶対的な価値観として固定化され、今の「第一が優秀、第五が外れ」という常識を作り上げてしまった。
「でもヨハンさん」
ルカが、ふと疑問を口にした。
「八十年もの間、誰一人としてこの間違いに気づかなかったんですか? 先生みたいに、第五等級でも役に立つって気づいた地方の神官が、一人くらいいてもおかしくないはずじゃ……」
「良い質問です、ルカくん。その答えも、ここにあるわ」
書庫の入り口から、事前に合流の手筈を整えていた測量士のエルサが、分厚い統計資料の束を抱えて入ってきた。
彼女は几帳面な手つきで、その資料を机に広げた。
「過去にも、地方の神官たちから『第五等級の再評価』を求める提案は何度も中央に上がっていたようです。ですが、それらの報告書はすべて、この『例外処理一覧』という箱に入れられていました」
エルサが指差した書類には、過去の地方神官たちが書き送った「第五等級者の成功事例」が並んでいた。確認した綴りの書類の隅には、中央授能審査局の赤いスタンプが押されている。
『特殊な本人固有の技能につき、一般化不能。例外として処理』
「例外……」
ヨハンが呟く。
「そうです。中央局は、第五等級者が社会で役立ったという報告が上がってくるたびに、それを『たまたま彼個人の運と能力が特殊だっただけの例外』として、教会の公式な統計データから意図的に除外していたんです」
エルサの声が、冷たい怒りを帯びる。
「統計から外されれば、集計表だけを読む人には、その成功が見えなくなります。だから、いくら地方で成功例が出ても、制度を改革しようという論調が中央に蓄積することはなかった」
「なんて陰湿なやり方だ」
セラが握った拳を、机の下へ下ろす。
「なぜ、そこまでして……」
トーマが呻くように言った。
「デルムント枢機卿の言葉を借りるなら、『費用と事故を恐れたから』だ」
ヨハンは、王都の最上階で聞いた冷徹な男の声を思い出した。
「再開する費用も、事故が起きた時の責任も重い。それは猊下から直接聞いた。だが、過去八十年の担当者全員が同じ理由だったかは、別に調べなければならない」
ヨハンは統計と元の報告を並べた。
「まず確かめられるのは、記録が届いていたのに、集計へ入っていないことだ。誰が、どの規程で除外したのか。そこまでつなげよう」
係員の許可を取り、文書番号と年代を添えて写す。腹立たしさのまま告発すれば、肝心の違いが曖昧になる。
「……ヨハン様」
エルサが、例外処理一覧の束の中から、比較的新しい一枚の羊皮紙を抜き出してヨハンに見せた。
「この例外処理のリストの中に、興味深い名前があります」
ヨハンがそれを受け取る。
そこには、数年前に地方から王都へ移り住み、現在も王都の片隅で働いているという、ある第五等級の職人の名前と技能が記されていた。
「彼の技能は、地方の神官が有用だと報告したにもかかわらず、中央によって『例外』として統計から外され、価値なしとされました。……ですが彼は今も、その技能を使って王都の工房で生きているようです」
過去の歴史の記録ではない。
今現在進行形で、正当な評価を中央に奪われ、存在しないものとして扱われている人の仕事だった。会いに行く前から、都合のよい証言者と決めてはいけない。
「……会いに行こう」
ヨハンは、その羊皮紙を力強く握りしめた。
「二百八十年前の書物だけでは、巨大な制度の壁は崩せない。中央が『例外』として隠蔽した彼らの技術が、今の社会にどれほど不可欠なものか。……制度の嘘を、現場で動いている事実で突き崩す」
ルカは最後に、原本の返却時刻を記した。確かめたことを、後から別の人も確かめられるようにする。その仕事から始める。




