第33話 奪われる前に写す
「記録まで手放すのか」
工房の二階で、ガイが杖の握りを強くつかんだ。
ヨハンは提出一覧を机へ広げた。
「原本は提出する。だが、認証した控えは残せる。みんなの手紙を勝手に出すわけでもない」
「それなら、今まで通り調べられるんですか」
ルカの問いには、すぐにうなずけなかった。
九十日試験は終わった。新たな解析の許可も、記録の利用範囲も、これから審査される。すべてが中央の承認待ちになれば、相談者はまた机の前で待ち続ける。
「だから、個人の記録とは別に、残せるものを考えたい」
ヨハンは白紙の記録票を置いた。
「五項目と、連携欄。結果を急いで断定しないこと。中止の条件を先に決めること。これは、一人の秘密を知らなくても共有できる」
トーマが、教会の実務回覧規程を開いた。
中央の許可を要しない事務改善の提案はある。しかし、名前を消せば何でも自由に配れるわけではなかった。珍しい技能と居住地の組合せだけで、本人が分かることもある。
エルサは事例を入れる案を取り下げた。今回は、空欄の書式と記入上の注意だけにする。
マティアスにも対象文書を示し、回覧できる範囲を確認した。
「技能の使用許可ではないと明記してください。書式を受け取っただけで、無許可の人体試験をしてよいと読める文は削る」
「組合側も、安全研修の資料として審査に回します」
エルサが言った。
誰か一人が抜け道を見つけたわけではない。文を削り、注記を足し、それぞれの仕事の範囲で出せる形にしていった。
三日間、写本係は交代で机についた。
ルカが夜まで残ろうとすると、ガイが椅子を引いた。
「疲れて数字を写し間違えたら、誰が困る」
「……読む人です」
「だったら寝ろ。俺も次の鐘で帰る」
余裕のない時ほど手順を捨てない。安全基準を写しながら、それを破るわけにはいかなかった。
完成した書式の末尾には、受付先と版の日付、訂正が見つかった場合の連絡先を入れた。空欄を埋めるためだけの紙ではなく、分からない欄を残してよい紙にする。
三日目、審査局の担当者が来た。
ヨハンとエルサは一点ずつ資料を読み合わせ、控えと枚数を照合した。担当者が木箱を封印し、受領証へ署名する。
過去の記録は、ただの紙ではない。誰が何を見て、何を誤ったかをたどる証拠だ。それを失わせないために、控えと移管の記録を残した。
箱を積んだ馬車を見送ってから、ルカは空いた机を拭いた。
その机へトーマが、別の封筒を置いた。
「最初の回覧先は、近隣の三聖堂です。先方で確認してから、次へ回してもらいます」
エルサも組合の配送便へ、研修資料を預けてきたという。
いきなり国じゅうへ届くわけではない。読まれずに棚へ置かれる紙もあるだろう。
それでも、次に技能を告げる神官の手元へ、別の書き方が届く。
返事が来るまでに、何週間かかかった。
最初の封筒には、空欄をもう少し広くしてほしいとあった。二通目には、試験前の相談だけなら自分の聖堂でも受けたいと書かれていた。
三通目を読んでいたトーマが、途中でヨハンを呼んだ。
「古い教本が差し替えられた時の、受領簿が残っていたそうです」
同封された写しには、八十年前の日付と、差し替えの根拠となった通達の番号があった。教本の見出しは既に知っている。だが、誰の指示で変わったかをたどれる記録は、初めてだった。
「本文は、こちらには残っていないそうです」
トーマは受領簿の端を指した。送付元は中央授能審査局。原本の保管先として、王都大聖堂の封印書庫の区画番号が記されていた。
ヨハンはその番号を、書庫の照会書へ写した。
「この通達と、それ以前の等級表を請求しましょう」
何が書かれているかは、まだ分からない。トーマは請求する二冊の欄を分け、閲覧許可を求める理由を添えた。
写した紙は、知識を送り出しただけではなかった。ヨハンたちの知らない場所から、知識を連れ帰り始めていた。




