第28話 全部は救えない
百十件。
申請書を数え終えたエルサは、机の上の砂時計を裏返すのも忘れていた。
王女の第二鑑定の噂は、試験の承認より早く広がった。技能記録会へ届く手紙には、技能名だけでなく、寝る場所を失った日まで書かれていた。
「全部は救えない」
ヨハンが言うと、ルカのペンが止まった。
「七年で二十三通。この春に君と殿下へ渡して二十五通だ。それでも、私は危険を書き落とした。人数だけ増やせば、同じことを繰り返す」
「じゃあ、返事は……」
「返す。解析を待ってもらうことと、何もせず帰すことは違う」
危険が差し迫る相談は、まず技能を使わせず、医療や避難の担当へつなぐ。住む場所を失った者には組合の相談窓口を紹介する。未成年の相談は、本人が頼れる大人がいるかも確かめる。
解析の順番は、困窮や危険の程度に加え、必要な設備と指導者を用意できるかで決めた。急ぐから危険な実験を先にする、という意味ではない。
「待ち順と理由も本人に知らせましょう。名簿の下へ入れたまま忘れないように」
所属聖堂から期間を区切った研修許可を得て来ていたトーマが、受付台帳に再連絡日を加えた。
九十日試験は続いている。ヨハンの神官資格停止後も、許可された試験についてはマティアスの監督と成人指導者の下で行える。ただし、新しい案件には追加承認が必要だった。
「ルカ。今日承認が下りた相談を、一緒に担当してほしい。聞き取りと記録は君に任せる。試験を始めるかどうかは、私と監督者が確認する」
全部を一人で抱えない。それは、子ども一人に預け直すことでもなかった。
午後、木工所の徒弟がやって来た。
「《順番待ち》です。三つまで、待たせられるんですけど……親方に、仕事まで待たせる気かって」
少年は笑おうとして、うまく笑えなかった。
ルカは技能名を記入した後で尋ねた。
「今日、試したくないことはある?」
「刃物は、怖いです」
「使わない。途中で嫌になったら、それも言って」
用意したのは、小さな木玉を低い受け皿へ送る三本の溝だった。玉は手で一つずつ入れる。落差は指二本分しかなく、周囲には布を敷いてある。
少年が順に溝の出口へ触れた。
「一番、二番、三番。……進行」
玉が一つ落ちた。次に二番、最後に三番。いっぺんに入れたはずの三つが、順番通りに受け皿へ収まった。
「止めたものを、自分で動かすわけじゃないんだね」
「はい。動かす力は要ります。じっと置いた道具に使っても、何もしてくれません」
ルカは『工程の自動化』と書きかけた文字を消した。
次の試験では、三番の出口を待たせたまま、同じ溝へもう一つ玉を入れた。二つ目が先の玉へ当たり、横の受け皿へこぼれた。
ルカが手を上げた。
「止めます。予定した待機位置から外れました」
少年はすぐに解除した。
「待たせている間も、後ろから物は来る」
今度は消せない線で書いた。
熱い炉も、力の強い万力も試していない。この小さな玉の挙動だけで、それらがどうなるかまでは分からない。だが、危険な外部入力まで止められると考えてはいけない。その注意は書ける。
「荷造りには使えませんか」
少年が聞いた。
「品物を三列から順番に送るような場所なら、候補になる。でも箱を閉じたり紐を結んだりしてくれる力じゃない。詰まった時に全部止められる装置も要る」
ルカは親方へ渡す欄に『次回、実際の作業を見学して判断』と記した。
「今日、採用を約束することはできないけど」
「いいです。親方の仕事を、見に来てくれるんですね」
少年は、そこで初めて少し笑った。
照合のために《注釈》を使ってよいか、ヨハンが尋ねた。少年の同意を得て、もう一度、一つの玉を待たせてもらう。
読み取れた構造を、自分の言葉へ直す。
触れた同系統の非生体工程を最大三件。指定した順に一件ずつ進める。ただし、待機中も外部入力は止まらない。
「『同系統』が残っている。違う種類の作業を混ぜられるとは、まだ言えないね」
ルカはうなずき、未確認欄へ書き足した。
「照合すれば、全部、実証済みになるわけじゃないんですね」
「私の読み方が間違うこともある。今日確かめたのは、この装置で、この玉を、この順で送った範囲だ」
狭い記録だった。けれど、その狭さを二人とも説明できた。
少年が帰った後、ルカは百十件の申請書を見上げた。
「減らないですね」
「一件分の返事は、進んだよ」
机の端には、試験結果と、見学予定日を書いた控えが一枚残っていた。
夕刻、中央授能審査局の使者が来た。
枢機卿デルムントからの招聘状だった。面会の用件は、九十日試験の最終評価。
ヨハンは封を開いた。残りは十二日だった。




