第23話 余白を集める
「六分半。ルカ、息が苦しくなったら、すぐ言ってくれ」
ヨハンは時計を開いたまま、設備主任に渡した。
自分の声が震えていないことに驚く。怖くないのではない。今は、指示を一つでも間違える方が怖かった。
ニアは結界柱の破片を拾い集めていた。
「青い石だけじゃ、足りない。少し削ってもいいですか」
「使っていない側の導通部なら」と主任が答える。
大人の作業員が鑿で余りを落とした。ニアはその欠片を秤に載せ、黒い絶縁石を指で弾いて除く。
無からは作れない。違う材質も混ぜられない。いつも工房で確かめていた二つの条件を、この場所でも省かなかった。
「形をください」
主任が簡単な円筒の寸法を描いた。複雑な術式そのものを作るのではない。切れた流路を繋ぐ、短い継手だ。
ニアが《余りもの》を使うと、青い欠片が寄り合った。
できた部品を主任が当てる。縁が少し厚い。
「ここだけ、もう一度」
ニアは頷き、余った分を小さく残して成形し直した。
ヨハンは先を急がせなかった。はまらない部品を押し込めば、残っている柱まで壊す。
主任が供給弁の閉鎖を確かめてから、部品を差し込む。今度は収まった。
「四分半です」
マティアスの声がした。保守口の手動巻上げは噛み込み、まだ上がらない。
ルカの膝が震えた。ミラも息を詰め、手を離さずにいる。
リアーネは予備炉の前で首を振った。
「昇降機の方は駄目。光系へ流せない」
「こちらは?」
ヨハンが指したのは、使われていない治療灯の枝回路だった。別炉からの供給は生きている。治療灯が止まっているぶんだけ、出力が逃がされていた。
「光系。でも、保持術式も同じとは限らないわ」
以前の王宮では、主結界と治療灯が同系統だった。ここもそうだと決めつければ、あの《遠回り》の試験と同じことになる。
ヨハンは回路図の印を追った。外周の防衛術式ではない。今必要なのは、この区画の石材を支える小さな保持術式だ。
「ここです。導通部の符号が同じ。主任、光系で間違いありませんか」
「はい。医療用の安定術式を転用したものです」
リアーネが頷く。ヨハンは供給量を指した。
「全部を戻す必要はない。梁を固定して、保守口を一度開ける分だけ」
「それなら、三十秒」
王女は試験端子へ触れた。主任が計器を見守る中、未使用の出力が彼女の内へ移る。
その三十秒が、ひどく長かった。
ヨハンはルカから目を離せなかった。少年は視線が合うと、まだ大丈夫と言うように頷いた。ヨハンは頷き返したが、それを新たな保証にはしなかった。
「移します」
リアーネが直した柱へ手を置いた。
青い導通部に、細い光が通る。天井全体が元どおりになるわけではない。傾いた梁の周囲だけが淡く縁取られ、石の軋みが止まった。
主任が制御桿を押す。保守口の歯車が一度、鈍く回った。
「まだ足りない。開けきる分は――」
「今、手でいける」
セラが巻上げの柄を掴んだ。そばで力を尽くしていた作業員たちへ、同意を求める。
「腕の負荷を一部預かる。いいかい」
返事を確かめ、引受量を絞った《重荷》を使う。全員の疲れを消すのではない。持ち上げる間に必要な力を、自分へ集める。
歯車が動いた。マティアスが留め具を入れ、開いた扉を物理的に固定した。
「ノル、外の通路を確認できるか」
ヨハンが灯を渡す。ノルは戸口から先を見た。
「正面は塞がっています。右の保守通路なら、朝の下見で広場まで歩きました。でも、今も通れるかは――」
「私が先に見る。君は後ろから分岐を教えてください」
マティアスが灯を掲げて先行する。ノルは《遠回り》で、知っている別の道を選んだ。曲がり角ごとに、足元と壁を目で確かめる。見えない瓦礫を技能が避けてくれるとは、もう誰も考えていない。
治療師が、成人二人に支えられて続いた。
やがて、通路の向こうから声が届く。
「広場へ通じています! 担架を呼びました!」
主任が梁の光を見た。
「今なら、身体を抜けます。ただし支えは長くもちません」
「セラ、ルカを。ミラは、梁が固定されている間に手を離す。順番に」
ヨハンはミラの肩へ手を添えた。
「まず、荷重の分配を止めてください」
光の支えが残りの荷重を受ける。ルカの背が、わずかに自由になった。
セラが少年を横へ引き抜く。
解除はまださせない。先送りした胸の傷は、梁から離れても残っている。
ヨハンはミラを立たせ、ニアとリアーネを前へ出した。主任も制御桿を離れて続く。
「五分四十秒!」
時計を受け取ったヨハンは、最後尾で保守口をくぐった。
背後で保持術式の光が細り、梁が落ちた。石が扉の向こうを塞ぐ。振り返る時間はなかった。
通路の広い踊り場に、治療師が布を敷いて待っていた。
セラがルカを横たえる。ヨハンは少年の手を取った。
「ここで戻そう。準備ができた」
ルカは治療師を見て、それからヨハンを見た。
「……お願いします」
解除の瞬間、呼吸が詰まった。
肩から胸へ痣が広がり、肋骨の傷に身体が強張る。治療師がすぐに呼吸を支え、出血へ術を重ねた。ヨハンは指示された姿勢を保ち、動かないように支えた。
傷は軽くなっていなかった。ミラが最初に分けた後の圧迫が、そのまま戻った。手当てが遅れれば命を落としかねない傷だった。
一度、浅い息が出る。
次に、もう少し深い息。
ヨハンはそこでやっと、自分も息を止めていたと気づいた。
広場へ出た時には、標準技能班が周囲の火と魔力の流れを抑えていた。彼らの作った通路を、担架が進む。
「第三待機区域、退避完了。重傷者一名、治療継続中!」
マティアスの報告に、救護係が走ってきた。
避難した老人が、担架のそばへ駆け寄ろうとして止められた。
「あの子が、わしを引いてくれたんだ」
その声が隣の人へ伝わる。第五の班が出てきた、と誰かが言った。
歓声の中で、ルカが薄く目を開けた。
「全員……?」
ヨハンは人数を確かめた紙を見せた。
「いる。君も、ここにいる」
少年の指から力が抜けた。眠りに落ちただけだと治療師に言われても、ヨハンはしばらく、その手を離せなかった。




