第19話 読めても、分からない
ヨハンは壊れた留め具を机に置いた。
ノルは椅子に座り、自分が選んだ道を指でなぞっていた。さっきまで通れた所へ布が移ったことを、技能は知らせなかった。
失敗だ。
ヨハンは《注釈》で読み取った『到達対象へ直線以外の経路を選ぶ』という補足文を、頭の中で反芻した。
彼はこの一文を、「目的地までの最短経路上に未知の障害物や危険があった場合、それを自動で察知して回避できる能力」だと解釈していた。だから、ノルに見せずに布の位置を変えた。
だが、選ばれた道は新しい仕切りを横切った。ノルの能力は、見えない壁を透過することも、未知の障害物を事前に察知することもできなかった。
「……ヨハン神官。どうやら、あなたの『眼』も万能の神託というわけではないようですね」
少し離れた場所から、異端審問官のマティアスが歩み寄り、冷徹な声で指摘した。
「未知の障害を回避するという仮説は、この条件では成立しませんでした。留め具の破損も記録してください。安全対策が働いたことと、推測が正しかったかは別です」
マティアスの厳しい言葉に、ヨハンは反論できなかった。
その通りだ。ヨハンは自分の《注釈》を過信していた。
第五等級《注釈》は、技能の構造情報を読み取ることができる。だが、その見え方は「神が直接正解を教えてくれる」ようなものではない。技能の複雑な構造が、ヨハンの頭の中にある『既存の語彙』に変換され、補足文として知覚されているに過ぎないのだ。
文字の並び自体は正しくとも、その「語義」や「対象範囲」の解釈を、ヨハン自身の思い込みで誤読する可能性がある。
「……私のミスです。私の解釈が間違っていました」
ヨハンは全員の前で頭を下げ、ルカの方を振り返った。
「ルカ。先ほどの仮説は取り消しだ。五項目記録票には、ごまかさずに【失敗】として記録を残してくれ。『未知の障害物は回避できない。物理的な壁や閉鎖空間を無視することは不可能』と」
「は、はい。わかりました」
ルカはヨハンの真摯な態度に少し驚きながらも、ペンを走らせ、失敗の事実を克明に記録した。
ヨハンは顔を上げ、ノルに向き直った。
「ノルさん、説明を先走りました。今日はここでやめても構いません。もう一度試すなら、次は目を開けたまま行いましょう」
「続けたいです。僕の頭に浮かぶ道と、目で見える道が、どう違うか知りたいから」
ノルは立ち上がり、力強く頷いた。
「ありがとう。ルカ、仮説の修正だ。ノルの《遠回り》の対象条件は、『既知の到達対象』だけでなく、『経路上の地形も既知であること』だ」
「既知の地形……つまり、ノルが知っている場所じゃないとダメってことですか?」
「そうだ。ルカ、仕切りを直してくれ。ノルさんは新しい道を確認してから歩いてください。閉じた道を見た時に、どう選び直すかも確かめましょう」
「はい! 頭の中に地図を描くのは得意です」
数分後。
低い布の仕切りを組み直し、曲がり角の多いルートを作った。ノルはその全てを歩いて記憶した。
新しい配置を確認したノルに対し、ヨハンがゴール地点から声をかける。
「では、修正試験を開始します。《遠回り》、発動」
ノルが一歩を踏み出す。
今度は違った。彼は迷路の中で一切立ち止まることなく、道の状態を目でも確かめながら、複雑な障害物を次々と迂回していく。
直線距離では絶対に辿り着けない配置。だがノルは、自らの頭の中にある「既知の地形」と照らし合わせ、自動的に『既知の迂回路』を選択し続けているのだ。
そして三十秒後。ノルは仕切りに一度も触れることなく、見事にヨハンの立つゴール地点へと到達した。
「着きました……!」
ノルがゴールの椅子に触れ、声を上げる。
「見事です。距離そのものが短縮されるわけではありませんが、複雑な地形や入り組んだ場所で、知っている迂回路を選び直せる。ただし、道が今も通れるかは、目で確認しなければいけない。……これは、伝令や避難誘導において、非常に強力な技能だ」
ルカは今回の配置と所要時間を【実証済み】の欄へ書いた。伝令や避難への応用案は、その下の仮説欄に分けて残した。
それを見ていたマティアスが、ふっと息を吐き出した。
「……なるほど。読めても、分からない。だからこそ、検証するのですね」
「ええ」
ヨハンはマティアスに向き直った。
「私の《注釈》は絶対の正解ではありません。私自身が間違えることもあれば、思い込みで子どもを危険に晒すこともある。……だからこそ、この記録票と、安全な環境での実証試験が必要なんです。個人の直感や秘密の手紙に頼るのではなく、誰がやっても同じ結果が出る『手順』を残すために」
マティアスは腕を組み、小さく頷いた。
「第五等級を無価値とする現行の教会の制度は、確かに間違っているのかもしれない。だが、能力の制約を無視して個人の判断だけで運用することも、同じくらい危険だ。……あなたの言う通り、だからこそ『制度』が要る。今日の修正試験は、この条件で継続を認めます」
ヨハンの能力の限界。それが、皮肉にも「安全な試験制度が必要である」という最大の根拠となり、厳格なマティアスを納得させたのだ。
訓練場に、安堵と達成感の空気が広がった。
端材の再成形を実証したニア。荷重の分割を実証したミラ。そして、迂回路の選択を実証したノル。
彼らは全員、第五等級という社会からの烙印を押された子どもたちだ。だが今、彼らの顔には絶望はなく、自分の能力を正しく理解した誇りが宿っていた。
「先生。これ、いつも同じ四人で記録し合った方がよくないか」
セラが紙を覗き込んだ。
「本人だけじゃ、できたことも、できなかったことも見落とす。さっきはルカが止め具の位置を測り直してただろ」
ルカは少し照れながら、破損の時刻を書き込んだ。
「僕、最初の仮説まで正解みたいに思ってました。記録を見たら、まだ一回も確かめてなかったんですよね」
ヨハンは紙を受け取り、自分の名を仮説の提案者欄へ記した。失敗した予測の横に、消さずに残す。
その時、ラウルが訓練場へ入ってきた。
「大祭の設備班から、相談が来ている。ただ、子どもたちの参加条件を先に確かめたいそうだ」
ヨハンは承認書を開いた。今度は、できることの話より先に、させてはいけないことを確認しようと思った。




