第18話 五つの欄
九十日試験の初日、ヨハンは承認書と、中央からの停止命令を並べて机に置いた。解除されたのは、登録した協力者に対する、承認範囲内の実測だけだった。
「信じられません。あの絶対的な中央の命令が、特例とはいえ覆るなんて」
初夏を思わせる日差しが差し込む訓練場の片隅で、ルカが興奮気味に言った。彼は真新しい羊皮紙の束とインク壺を抱え、技能記録士見習いとしての誇りを胸に背筋を伸ばしている。
「覆ったわけじゃない。九十日間の猶予をもらっただけだ」
ヨハンは、訓練場に運び込まれた安全用のクッションや、消火用の砂袋などの設備を一つ一つ点検しながら、冷静に答えた。
「この九十日で、第五等級の技能が安全に運用可能であり、社会の役に立つということを公に証明できなければ、私たちは再び沈黙を強いられる。……ルカ。先日作った記録票のフォーマットはできているか?」
「はい! ばっちりです!」
ルカは自信に満ちた手つきで、一枚の羊皮紙をヨハンに提示した。
そこには、太い線で明確に区切られた五つの欄が引かれていた。
『発動条件』『対象』『効果』『代償』『上限・例外』。
そして、それぞれの情報を書き込むための広い余白と、推論と事実を明確に分けるための『仮説』『実証済み』『禁止』のチェックボックスが設けられている。
手紙を読み違えて重傷を負ったガイの事故。その悲劇を二度と繰り返さないために生み出された、安全と論理の結晶とも言えるフォーマットだった。
「この形で始めよう。いいかルカ、私の《注釈》は神が直接下す絶対の神託じゃない。技能の背後にある構造を、私の頭の中にある既存の語彙に変換して読んでいるだけだ。だから、最善の用途や将来の成長までは絶対にわからないし、私自身の思い込みで解釈を間違える可能性だってある」
ヨハンはしゃがみ込み、ルカの目を真剣に見つめた。
「私の言葉を鵜呑みにして、最初から【実証済み】の欄に書き込んではいけない。まずは【仮説】として立て、安全試験を経て間違いなく結果が出たものだけを確定させるんだ。君が、その情報の門番になる」
「情報の門番……。はい、わかりました!」
ルカは力強く頷いた。
かつて、自身の能力を『外れ』だと呪い、家の評価に怯えていた少年の顔つきはもうない。今や彼は、未知の技能を解き明かすための一つの専門職を志す者としての顔をしていた。
「準備は整ったようですね」
訓練場の入り口から、足音もなく現れたのは異端審問官のマティアスだった。
彼は本日の試験の『監督者』として、教会上層部から派遣されている。ヨハンたちが危険な真似をしないか、事故を起こさないかを監視するためだ。
「マティアス監査官。安全対策は指示通りに」
「確認しました」
マティアスは漆黒の外套を揺らしながら訓練場を素早く見渡し、手元の書類に目を落とした。
「本試験のルールを再確認します。被験者は未成年を含むため、いかなる場合でも魔獣を相手にした戦闘環境での試験は禁止。重傷を負うリスクのある物理的負荷の実験も禁止。万が一、被験者に事故の兆候が見られた場合は、私の権限において即座に試験を凍結します。……異存は?」
「ありません。安全の担保こそが、この試験の最大の目的ですから」
ヨハンが即答すると、マティアスは微かに頷き、「では、始めなさい」と短く指示を出した。
本日の実証協力者として集められた第五等級者は三名。
職人組合の工房で働き始めたニア、治療院で見習いとして居場所を見つけたミラ、そして今回新たに選ばれた十五歳の少年、ノルである。
「じゃあ、まずは私からですね!」
ニアが元気よく前に出た。彼女の前には、木工所から大量に持ち込まれた同種の木材の端材が積まれている。
「ニアさんの《余りもの》については、すでに実務での有用性が確認されていますが、改めて公式のフォーマットに落とし込みます」
ヨハンが合図をすると、ニアは技能を発動させ、見事に木屑や端材を一つの規格品の木材へと再成形した。
ルカがすかさずペンを走らせる。
「今回は同じ板から出た木片、合計五百グラム。再成形の前後で重さは同じ。別の樹種は、まだ未試験……これを実証欄に書きます」
続いて、ミラが前に出た。
彼女は水や薬液の入ったビーカーを前に、自身の《半分》の技能を使って、寸分の狂いもなく液体を二つの容器に分割してみせた。
「水を二つに分けました。二百ミリリットルを、百ずつ。濃度も総量も変わりません。荷重の分割は、別の試験として記録します」
ルカのペン捌きは驚くほど滑らかだった。
ただヨハンの言葉を書き写す代筆屋ではない。目の前で起きている現象と、ヨハンの推論を自らの頭で噛み砕き、最も誤解を生みにくい簡潔な文章へと変換して書き込んでいるのだ。情報を整理し、制約を発見する能力。それはまさに、記録士としての才能の開花だった。
マティアスも、その記録の正確さに異議を挟むことなく、静かに見守っていた。
「さて。それでは三人目ですね」
ヨハンは、少し離れた場所で緊張した面持ちで立っている少年、ノルに声をかけた。
「ノルさん。あなたの番です」
「は、はい……」
ノルは小柄で、いつも周りの様子を窺うようにキョロキョロと視線を動かす、ひどく慎重な性格の少年だった。彼の趣味は、各地の地図を眺め、頭の中で道を辿ることだと聞いている。
「授与式では、あなたの技能は《遠回り》と告げられましたね」
「はい。逃げる時に遠回りしちゃうような、呪いの技能だって……父さんに言われました。だから、家を出ていけって」
ノルが悲しげに俯く。
ヨハンは彼の肩に優しく手を置いた。
「私があなたの技能の構造を読みます。同意してもらえますか?」
「……はい。お願いします」
ノルは同意し、目の前の椅子を行き先として技能を顕した。ヨハンの《注釈》が発動した。
彼の脳裏に、ノルの持つ《遠回り》の構造情報が、ヨハン自身の持つ語彙に変換された補足文として展開される。
『既知の到達対象へ、直線以外の物理的経路を自動選択する』
(既知の到達対象へ、直線以外の経路を選ぶ……)
ヨハンは情報を反芻した。
直線以外の経路。つまり、最短距離を通らないということだ。だが、わざわざ遠回りをする意味とは何か。
「……ルカ。まずは仮説として、こう記録してくれ」
ヨハンはルカに向かって言った。
「対象は『自分が知っている目的地』。効果は『直線以外の迂回路の自動選択』。……おそらくこれは、目的地までの最短経路上に通行不可能な障害物や未知の危険がある場合、それを避けるための安全な迂回路を自動で見つけ出せる能力だ」
「知らない障害も、ですか?」
ルカの問いに、ヨハンは頷きかけた。
「そこを試したい。今は仮説にしておこう」
訓練場の一角に、低い布の仕切りを並べた。木箱や壁は置かない。ノルが歩く範囲は平らにし、ヨハンとマティアスが両側につく。
最初は仕切りの位置を見てもらい、視線を落としたままゆっくり歩いてもらった。ノルは曲がり角を迷わず選び、向かいの椅子へ着いた。
次の試験では、ノルが背を向けている間に、一枚だけ布をずらす。
「身体を勝手に運ぶ力では、ないんですね」
「はい。こっちへ回ればいい、とわかるだけです」
「なら、止まってと言ったら止まってください」
ノルが頷いて歩き出す。曲がる場所は、さっきと同じだった。
ヨハンの胸に期待が浮かぶ。だが、少年は新しい仕切りへ向かって、そのまま進んだ。
「止まって」
マティアスの声と同時に、ノルの手が布へ触れた。軽い留め木が外れ、布が床へ落ちる。
少年は足を止めていた。怪我はない。壊れたのは仕切りの留め具だけだった。
「こっちが、道だと思ったんですけど」
ノルが困った顔でヨハンを見た。
ヨハンは落ちた布を拾った。『既知』という二文字を、自分はどこへかけて読んでいたのか。
読めたことと、わかったことは、同じではなかった。




