第16話 消えた見出し
深夜の地方聖堂、地下記録室。
分厚い石壁に囲まれたその部屋に、数個のランプが灯されていた。
長机の上には、二冊の書物が開かれた状態で並べられている。一つは、ヨハンが日々の業務で使用している最新の『技能支援教本』。そしてもう一つは、若き神官トーマが遠方の聖堂の書庫から見つけ出してきた、およそ八十年前、戦時改訂前の教本だった。
「……信じられません。こんなことが」
ヨハンは二つのページを見比べながら、震える声で呟いた。
測量士であるエルサが、持参した定規のような金属片を使い、二つの表の行と列を几帳面に追っていく。
「第一から第五までの枠組み、試験手順を分ける基準、そして代表的な技能の例示。……一字一句、全く同じです。改訂された形跡すらありません」
エルサの冷徹な分析が、その場にいる全員の耳に届く。
中身は完全に同じだ。しかし、最も重要な『表のタイトル』だけが異なっていた。
最新の教本には『技能等級』と大書されている。世間一般で使われている、人の価値を決める絶対的な序列の名称だ。
だが、八十年前の教本には、色褪せたインクでこう記されていた。
『標準化難度一覧』
「標準化、難度……。つまり、マニュアル化のしやすさってことか?」
装具職人のガイが、自作の杖をつきながら身を乗り出した。
「ええ、その通りです」
エルサが眼鏡の奥の目を光らせて頷く。
「第一に分類される技能は、誰が使っても同じ結果が出やすく、訓練の手順を『標準化』しやすい。対して第五に分類される技能は、発動条件や対象が複雑で個人差が大きく、統一されたマニュアルを作ることが極めて難しい。……本来の等級制度は、決して『能力の強さ』や『人間の価値』をランク付けしたものではなかったんです」
ヨハンの脳裏に、先日悪徳保護施設で見つけた古い台帳の記述がフラッシュバックした。
『第五等級=個別検証要』
点と点が、明確な線として繋がった。
「マニュアルが作れないからこそ、かつての教会は第五等級者を無価値と切り捨てず、一人一人『個別に検証する』仕組みを持っていた」
ヨハンが絞り出すように言うと、S級冒険者のセラが舌打ちをした。
「それが、なんで今みたいな『第五は外れ』って制度になっちまったんだよ」
「この教本が使われたのは、八十年前の戦争の頃です」
ヨハンは奥付を確かめた。
「けれど、いつ、誰が、何のために変えたかは、この二冊だけではわからない。中央に改訂記録を照会しましょう」
エルサは頷き、照合した箇所と、まだ確かめていない箇所を別々に控えた。
翌朝。
ヨハンはこの歴史的な事実と古い教本を抱え、直属の上司であるラウル司祭の執務室を訪れた。
事なかれ主義のラウル司祭も、決定的な物証を前にしては顔色を変えた。
「なんということだ……。私自身、神官として三十年以上生きてきたが、等級制度の真実がそのようなものだったとは」
「司祭様。これは明らかな誤用です。今すぐ中央の授能審査局へ、この古い教本との差異について照会をかけるべきです。本来の運用方針に戻せば、追放される子どもたちは救われます」
ヨハンの必死の訴えに、ラウル司祭は深く頷いた。
「わかった。私から、地方聖堂の責任者として正式に照会状を送ろう。いくら中央でも、自らの過去の教本を否定することはできまい」
その日のうちに、早馬が王都へと放たれた。
ヨハンは微かな希望を抱いた。制度の根幹にある誤りを正せば、こっそりと手紙を渡すような危ない橋を渡る必要はなくなる。堂々と、全ての子どもたちを導くことができる。
しかし、その希望は数日後に脆くも打ち砕かれた。
王都から返ってきたのは、たった一枚の冷酷な回答書だった。
『過去の様式に意味はない。現行の技能等級制度こそが教会の絶対の指針である。地方聖堂は不要な詮索を慎み、現行法に従い速やかに業務を遂行せよ』
それを読んだヨハンの全身から、すっと温度が引いていった。
「……意味はない、だと?」
「ヨハン君。これ以上は危険だ」
ラウル司祭が、すっかり生気を失った顔で首を振った。
「改訂の理由を尋ねたのに、答えがない。現行制度を変える気がないことだけはわかる。だが、それ以上を決めつければ、こちらの照会まで憶測として退けられる」
そして、絶望はそれだけでは終わらなかった。
中央からの回答書が届いた三日後。事態は最悪の方向へ急転した。
先日、異端審問官マティアスが上層部へ上げた『匿名文書の発信者の候補あり・監督中』という正式報告。それが、ついに中央の重い腰を本格的に上げさせたのだ。
地方聖堂に、仰々しい封蝋が施された分厚い命令書が届いた。
宛先はヨハン個人ではなく、ラウル司祭をはじめとする『地方聖堂の全職員』。
『当該聖堂における独自再評価および技能指導を、監督者付きの実測を含めて停止する。例外実施には中央局の書面承認を要する。施設責任者は停止措置を報告すること』
「連帯責任……」
ヨハンは命令書を読み、愕然とした。
特定個人を名指しで断罪するのではなく、組織全体を人質に取る。ヨハンがこれ以上動けば、ラウル司祭や他の神官たちまで巻き添えになる。極めて合理的で、逃げ場のない圧力だった。
その命令書の末尾には、流麗な筆記体でこう署名されていた。
『中央授能審査局長 枢機卿デルムント』
ヨハンの手が震えた。
ヨハンは署名を見直した。照会を退けた担当者の名ではない。中央局長自身が、この聖堂を止めると決めていた。
命令書を見た帰り、ヨハンは回廊でマティアスとすれ違った。
マティアスは足を止めず、すれ違いざまに前を向いたまま低い声で告げた。
「私の監督下で行う実測も、今回は止められました。窓口での生活相談は続けられます。必要なら、例外試験の申請に添える安全条件は私が作成します」
冷徹な監査官の言葉は、正論ゆえにヨハンの胸を深く抉った。
その夜。
ヨハンの自室には、重苦しい沈黙が満ちていた。
集まった教え子たち――セラ、エルサ、トーマ、ガイ、そしてルカに対し、ヨハンは中央からの全面停止命令と、デルムント枢機卿の名前を伝えた。
「……申し訳ない。私は神官である以上、これ以上表立って動くことはできなくなった。私の手足は、完全に縛られてしまった」
ヨハンが頭を下げると、部屋の中はしんと静まり返った。
巨大な権力。組織の壁。一人の下級神官には、どうすることもできない現実。
だが、その沈黙を破ったのは、一番年下の少年だった。
「僕たちの、今までの仕事の記録は出せますよね」
ルカが言った。
「新しい試験をするんじゃなくて、ニアの工房やミラの治療院で、何ができたか。事故があったか」
「そうだね。私の救助記録も出す」とセラが続けた。
トーマは自分の赴任先へ戻る予定を確かめた。
「所属が違えば命令をごまかせる、という話にはしません。私の司祭にも許可を取り、必要な時だけ研修と記録整理に来ます」
「私は仕事を休み続けられないから、王都から書類を送るわ」
エルサが名を記す。ガイも工房の住所を書き添えた。
全員がここへ住み込み、ヨハンを守り続けるのではない。それぞれの日常から持ち寄る証拠がある。
ヨハンは、申請書の一番上へ『安全管理者』と書いた。
法の外へ逃げる道ではなく、試せる条件を法の中に作る。そのための書類を、今夜から始めることにした。




