第14話 七年半前、渡せなかった一枚
ランプの火が微かに揺れる自室。
椅子に座ったセラが発した『マレク』という名前に、ヨハンはひどく呼吸が苦しくなるのを感じた。
七年半もの間、心の奥底に封じ込めてきた冷たい記憶。絶対に忘れてはならないと自分に呪いをかけながら、同時に思い出すことすら恐ろしかった少年の名前。
「……セラ。どうして、その名前を」
「私が七年前の春、あんたから一枚目の手紙をもらった時だ。あんた、ひどく泣きそうな顔をしてたんだよ。手紙の受取人を探す途中で、街の古い埋葬記録を見た。私が手紙をもらう半年前の秋に追放されて、その冬に死んだガキがいたってね」
セラは静かな声で言った。
「マレク。……先生が規則を破って手紙を配り始めた理由は、そいつだな?」
ヨハンは両手で顔を覆い、深々と息を吐き出した。
もはや、隠す意味はなかった。彼女は最も重い扉をこじ開けたのだ。
「……約七年半前の、秋のことです」
ヨハンの口から、ぽつりぽつりと過去が零れ落ち始めた。
当時、二十歳を迎える前のヨハンは、地方聖堂に配属されたばかりの見習い神官だった。
持ち前の几帳面さと事務処理能力を買われ、授与の儀の記録係を務めていた彼にとって、神殿の規則は絶対だった。
順番を待っていた十五歳のマレクは、記録係の机をのぞき込んだ。
「札の裏に、自分で名前を書いてもいいですか。字、練習してきたんです」
ヨハンがうなずくと、少年は指で宙に名前を書いた。最後の一文字だけ、二度なぞった。
その日、彼に授与された固有技能は、第五等級《鈍足》だった。
『鈍足だと? なんて呪われた技能だ』
『動きが鈍くなるだけの能力なんて、畑仕事にも使い物になりゃしない』
授能板に表示された名前を見て、周囲の大人たちは嘲笑し、マレクの家族も絶望の表情を浮かべた。マレク本人は泣きじゃくりながら、父親に「出て行け」と突き飛ばされていた。
だが、その時。儀礼の同意を得ていた見習い神官ヨハンの頭の中には、《注釈》による補足文がはっきりと展開されていたのだ。
『移動速度が低下している間、体力消耗と体温低下も同率で遅くなる』
ヨハンは驚愕した。
確かに《鈍足》は、戦闘や素早い作業には全く不向きな能力だ。逃げ足も遅くなるため、魔獣と遭遇すれば命はない。
だが、これは極限状態での『生存』に特化した能力だった。食糧がない時、あるいは極寒の環境に置かれた時。この技能を発動してあえて動きを鈍くすれば、体力の消耗と冷えが遅くなる。食事も防寒も不要になるわけではないが、助けを待つ時間を伸ばせたかもしれない。
教えなければ。この能力は、決して呪いなどではないと。
だが、見習い神官だったヨハンの足は、鉛のように重かった。
規則に反して神託の解釈に口出しをすれば、自分はどうなる? せっかく得た神官という居場所を、第五等級である自分はあっさりと追放されてしまうのではないか。
見習いの青年は、震える手を握りしめ、冷や汗を流しながら……結局、何も言えなかった。
何も知らないマレクが、絶望に暮れたまま聖堂から追い出されていく背中を、ただ黙って見送ることしかできなかったのだ。
「その年の冬は、記録的な寒波が来ました」
ヨハンの声が、微かに震える。
「追放されたマレクは、仕事も見つからず、隣街の親戚を頼ろうとして吹雪の街道に出たそうです。……数日後、街道の途中で、丸まって凍死している彼が発見されました」
ヨハンは、荷馬車で運ばれてきた青白い少年の亡骸を、今でも夢に見る。
「……もし、彼が自分の能力の本当の意味を知っていたら。吹雪の中でパニックになって体力をすり減らしながら走るのではなく、あえて《鈍足》を発動させてゆっくりと歩みを進めていれば。体温の低下を遅らせ、助けを待つ余地があったかもしれない。どのくらい保ったかは、もう確かめられません」
ヨハンは強く拳を握りしめ、自らの膝を殴りつけた。
「私には、伝えられることがあった。それを黙っていた。あの子が何をできるかより、自分の席を失うことの方が怖かったんです」
激しい悔恨。
マレクの死は、ヨハンの心を根底から破壊した。
規則を守った結果が、罪のない子どもの死であるならば。そんな規則に何の意味があるのか。
そして翌年の春、授与の儀に立ち会ったヨハンの前に現れたのが、第五等級《重荷》を告げられて絶望する十五歳の少女――セラ・ノルンだった。
「あなたの顔を見た時、マレクの最期が重なりました。また黙って見送れば、今度こそ私は私自身を許せなくなる。……だから、あの一枚目の手紙を書いたんです。もう二度と、私の沈黙で子どもを殺さないために」
それが、ヨハンが七年もの間、たった一人で秘密の指導を続けてきた理由。
贖罪であり、彼自身の魂を救うための、呪いのような善行だった。
「私には、止める資格なんてないんです。マティアス監査官に疑われようと、教会の規則に背こうと、私はこの罪滅ぼしを続けるしかない」
セラは長い間、何も言わなかった。
やがて、机の上にあった古い紙片へ目を落とす。
「私が助かったのは事実だよ。あんたが後悔してるからって、それまで罰にしないでくれ」
ヨハンが顔を上げた。
「でも、マレクが必ず助かったとも、あんたには言えない。会えない人の答えまで、一人で決めるな」
「……はい」
「私たちが聞き返せる場所を作ってよ。わからなくなった時、手紙の主を探さなくても済む場所を」
セラは椅子を引き寄せ、ヨハンの正面に座った。
「読む人が、一人で抱えない仕組みにしろ。あんたも、その中に入るんだ」
ヨハンは手のひらを開いた。握り締めていた爪の跡が、白く残っている。
窓の向こうでは、相談窓口の灯がまだ点いていた。今日、紙を受け取れなかった少年が、そこへ戻ってきた。
「私がいなくても、聞きに行ける場所ですね」
「そういうこと」
セラはようやく笑った。その時だった。
ガヤガヤと、夜の静寂を破る複数の声が、聖堂の表から響いてきた。
「なんだ?」
セラが窓から身を乗り出して外を覗き込む。
「……先生。どうやら、あんたの蒔いた種が芽を出しに来たみたいだぞ」
「種?」
ヨハンも窓辺に寄り、外の様子を見て息を呑んだ。
聖堂の門の前に、数人の若者たちが集まっていたのだ。彼らは皆、かつてヨハンが『本当の使い方』を記した手紙を渡した、第五等級の卒業生たちだった。
中央からの交付停止通達。そしてマティアスによる監視網。
ヨハンの手足が縛られようとしているまさにこの時、かつて救われた者たちが、吸い寄せられるようにこの地方聖堂へと帰還し始めていた。




