第13話 規則を破れない男
翌朝、地方聖堂の空気は鉛のように重かった。
中央授能審査局からの『匿名文書の原作者と流通経路を特定し、資料を提出せよ』という正式命令。それは既に末端の神官たちの間にも知れ渡り、聖堂内には疑心暗鬼の空気が漂っていた。
ヨハンは、直属の上司であるラウル司祭の執務室に呼ばれていた。
ラウル司祭は四十八歳。穏健で波風を立てることを嫌う、典型的な事なかれ主義の男だ。彼は分厚いデスク越しに、疲労の色が濃い顔でヨハンを見つめた。
「ヨハン君。中央からの厳しい通達と、マティアス監査官の動きは君も知っているね」
「はい」
「単刀直入に言う。……今後は、追放される子どもたちに、いかなる説明書も、メモの類も、一切渡してはならない」
それは、明確な業務命令だった。
ラウル司祭の目は、ヨハンを「犯人」だと断定してはいなかったが、彼が何かをしていると確信している目だった。聖堂全体に累が及ぶ前に、火種を消し止めようとしているのだ。
ヨハンは膝の上で拳を握りしめた。
ここで反発すれば、神官の資格を剥奪され、ルカたちとの繋がりも絶たれる。何より、ヨハン・エーベルという男は、本質的に臆病で、規則という枠組みを完全に壊すことのできない男なのだ。
「……承知いたしました。ご命令に従います」
ヨハンは深く頭を下げた。自分自身の弱さに、胸の奥がひどく軋んだ。
その日の午後。
重苦しい空気の中で行われた授与の儀で、一人の少年に第五等級の技能が顕現した。
農家の三男坊だというその少年は、判定役が告げた『第五』という言葉に、顔面を蒼白にさせていた。同伴していた父親は舌打ちをし、「帰るぞ、穀潰しが」と少年の腕を乱暴に引いた。
(……同意は、取れている)
ヨハンの脳裏に、《注釈》による補足文が自動的に展開されていた。
少年の能力は、農作業や土木工事において、限られた条件で劇的な効率化をもたらす実用的なものだった。条件さえ整えれば、彼は立派に稼げる職人になれる。
ヨハンは無意識のうちに、懐に忍ばせていた小さな羊皮紙の切れ端に指をかけていた。
ペンを走らせ、数行の条件を書き込んで、すれ違いざまに少年の掌に押し付ける。七年間、息をするように繰り返してきた、彼なりの救済の儀式。
しかし。
『今後は一切、渡してはならない』というラウル司祭の命令。
『救助の実績とは分けて判断します』というマティアスの冷徹な眼差し。
そして何より、手紙を読み違えて重傷を負った青年ガイの凄惨な過去が、ヨハンの手足を金縛りのように縫い留めた。
(私が渡せば……また、彼を危険に晒すかもしれない。規則を破ってまで、私に彼を導く資格があるのか?)
「神官様……俺、これからどうなるんでしょうか」
怯えた少年の声に、ヨハンはビクッと肩を震わせた。
懐に入れていた指から力が抜け、羊皮紙から手が離れる。
「判定は第五です。……今日は、使い方を約束する紙は渡せません」
ヨハンは冷徹な神官の仮面を被り、事務的に告げた。
だが、絶望して背を向けた少年の背中に向けて、ヨハンは規則の範囲内でできるギリギリの言葉を絞り出した。
「教会の東棟に、技能支援の再相談窓口があります。自分の技能についてもっと知りたいと思うなら、今日の夕方、そこへ行きなさい」
振り返った少年に、ヨハンはそれ以上何も言わず、無言で退出を促した。
夕方。
ヨハンは執務室で、虚無感に囚われながら書類整理をしていた。
手紙を渡せなかった。自分の弱さと臆病さのせいで、一人の子どもを見捨ててしまった。あの少年が自らの意志で窓口に来る保証など、どこにもない。
「ヨハンさん!」
バンッ、と勢いよく扉が開き、ルカが顔を出した。
「来ましたよ! 今日の昼間、第五等級を受けたって子が、再相談窓口に!」
「……本当か?」
「はい! 今、窓口の当番神官が話を聞いています。僕は、今日帰る所があるかを確認してくるように言われました」
ルカの明るい報告に、ヨハンは椅子から立ち上がり、深く安堵の息を吐いた。
秘密の手紙を渡さなくても、正規の案内ルートだけで、子どもが助けを求めてきてくれた。それは、ヨハンにとって暗闇に差し込んだ小さな希望の光だった。
「よかった……」
「お邪魔するよ、ヨハン君」
ルカと入れ替わるように執務室に入ってきたのは、ラウル司祭だった。
彼は扉を閉めると、ヨハンの前の椅子にどっかと腰を下ろした。
「昼間の少年のことだね。君が窓口を案内したと聞いた」
「申し訳ありません。ですが、窓口の案内は教会の規定に違反するものではありません」
「わかっている。咎めに来たわけじゃない」
ラウル司祭は少しだけ自嘲気味に笑い、天井を仰いだ。
「……ヨハン君。私は、七年前から薄々気づいていたんだよ」
「えっ」
「君が、追放される子どもたちに何かをこっそり渡していることにね。君は几帳面だが、隠し事をするには人が良すぎる。……だが、私はそれを見て見ぬふりをした。止めることも、上に報告することもしなかった」
ラウル司祭は真っ直ぐにヨハンを見た。
「子どもたちを見捨てたいわけじゃない。だが、中央の定めた制度に異を唱えれば、自分がどうなるかわかっていたからだ。君の善意に甘え、面倒を押し付けていた私にも、今の事態を招いた責任がある」
穏健で事なかれ主義だと思っていた上司の口から出た自責の言葉に、ヨハンは言葉を失った。
「その責任、しっかりと取っていただきますよ、ラウル司祭」
開いていた扉を、マティアスが二度叩いた。ラウルの招きを受けて入り、机の前へ立つ。
「マティアス監査官……!」
「中央への報告書の第一報が完成しました。お二人にも確認していただこうと思いましてね」
マティアスは懐から封蝋のされた書類の束を取り出し、その一部をヨハンたちの前に差し出した。
そこには、異端審問規程に則った冷徹な文面が並んでいた。
『匿名の技能文書に関して。発信者の候補あり。現在、事故防止のため対象を厳重な監督下に置いている。ただし、現時点では異端審問に足る公的な立証が不十分であるため、実名の断定報告は保留とする』
「これは……」
ヨハンは驚愕してマティアスを見た。
「嘘はついていません。手続に則り、事実を報告したまでです」
マティアスは書類を回収し、淡々と告げた。
「審問規程は、立証前の者を犯人として名指しすることを禁じています。所属聖堂と調査状況は報告する。原本と受取人の証言が揃えば、実名も報告します。事故が起きるまで待つ、という意味ではありません」
敵対者ではなく、職務倫理に忠実な厳しい監督者。
マティアスはそれだけを言い残し、外套を翻して部屋を出て行った。
夜。
様々な出来事に疲労困憊し、自室のベッドに倒れ込もうとしたヨハンの前に、またしても招かれざる客が現れた。
扉を叩いて入ってきたセラである。
「……今日はもう、誰も来ないと思っていたんですが」
「悪いね、先生。どうしても聞いておきたいことがあってさ」
セラはいつもの軽口を叩かず、真剣な目でヨハンを見た。
「先生が七年前に、規則を破ってまで私に手紙を渡し始めた理由。……『マレク』っていう少年のこと、もう私に話してもいいんじゃないか?」
マレク。
その名を聞いた瞬間、ヨハンの心臓が冷たく収縮した。
七年半前、彼が「規則を破れず」に見殺しにしてしまった少年の名前。
ヨハンの原罪が、静かにその蓋を開けようとしていた。




