第12話 説明書は万能ではない
その日の午後、地方聖堂の治療室に、片腕を不自然に押さえた少年が駆け込んできた。
青ざめた顔で痛みに耐えている彼を見て、ヨハンは即座に治癒の準備を整えた。患部を確認すると、前腕の骨にヒビが入っている。幸い複雑骨折ではないため、神官の基本的な治癒術式で塞げる程度だった。
「痛みますか。すぐに楽になりますよ」
ヨハンが淡い光を灯した手を患部にかざすと、少年はホッと息を吐き出した。
「す、すみません。俺、昨日《半分》っていう第五等級をもらったばっかりで……。でも、絶対に安全な『裏技』を知ってるから大丈夫だって、無理をして……」
「裏技、ですか」
ヨハンの手がピタリと止まる。
「はい。街の露店で、第五等級の『本当の使い方』が書かれた紙切れが売られてたんです。日雇い一日分もしましたけど、俺の《半分》のことも書いてあって。そこに『負荷を二つに分けられる』ってあったから、荷下ろし場で落ちてきた木箱の重さを半分にしようとしたんです。でも、全然上手くいかなくて、腕にまともに……」
少年は痛々しく包帯を巻かれた腕を見つめた。
ヨハンは血の気が引くのを感じた。
ミラの実測では、荷重を受ける二つの支持先を確保していた。この少年は、落下する箱を片腕で受けようとした。しかも同じ技能名でも、本人の条件まで一致するとはまだ確かめていない。
「分けた分は、何が受けるつもりでしたか」
「……重さが半分、なくなるんじゃ」
その答えに、ヨハンは目を閉じかけた。だが、手当ての手は止めなかった。
「……その紙には、どんな時に使ってはいけないか、注意書きはありましたか?」
「いえ。ただ効果だけが箇条書きにされてて……。教会の神様がこっそり教えてくれた絶対の魔法だから、信じて使えば大丈夫だって、情報屋のおっさんが」
ヨハンは奥歯を噛み締めた。
先日セラが持ち込んできた、手紙の写本。それが単なる噂ではなく、既に文脈を持たない「神の奇跡の保証書」として街に蔓延し、実害を生み出している。
ヨハンの《注釈》は神託などではない。技能の構造を彼自身の語彙に変換して読んでいるだけであり、当然ながら誤読の余地もあれば、用途までは教えてくれない。
文字だけが一人歩きする恐怖が、現実のものとしてヨハンの喉元に突きつけられていた。
少年を帰した後、ヨハンは執務室の椅子に深く沈み込んでいた。
頭を抱える彼の前に、セラが静かに歩み寄ってきた。彼女は腕を組み、重苦しい沈黙を破った。
「売った奴の責任は、追わせるよ」
セラが机へ写本を置いた。
「ただ、次を防ぐために、こっちで直せる所はある」
「ええ。この紙には、試した条件が残っていない」
「ガイのことも、もう少し話していいと返事が来た」
ヨハンは顔を上げた。先日聞いた、重傷を負った受取人。その名を、今は知らないふりにできなかった。
「五年前、あいつは短い間だけ身体を固くできる技能をもらった。あんたの紙には、限界のことも書いてあった。でも、本人は硬くしている間なら安全だと思った」
セラは自分の膝に手を置いた。
「固くなるのと、衝撃に耐えられるのは違う。脚を壊して、冒険者は続けられなくなった。今の仕事を失敗扱いする気はないよ。ただ、あの怪我をなかったことにはできない」
ヨハンは記録箱から、自分が残した控えを出した。
上限は書いていた。だが、その下にある用途の案は、試していないものまで同じ筆致で並んでいた。
「これでは、どこまで確かか、本人には区別がつきません」
「だったら、区別をつけよう。ガイの話は、会った時に本人から聞きな」
ヨハンは古い控えを捨てず、新しい紙の横へ置いた。
「ルカ!」
ヨハンは勢いよく立ち上がり、物置小屋の方へ向かって声を上げた。
すぐに、記録士見習いとしての作業をしていたルカが飛んでくる。
「はい、ヨハンさん!」
「実測記録の書式を直す。筆記具を持ってきてくれ」
数分後。机の上に羊皮紙を広げたルカの前で、ヨハンは淀みなく指示を出した。
「これまで私は、対象や制約を一つの文章の中にまとめて書いていた。それが誤読を招く最大の原因だ」
ヨハンは、ペンを走らせるルカの手元を覗き込みながら言った。
「まず、書いたことを『仮説』『実証済み』『禁止』に分ける。対象と制約だけでは、確かさが伝わらなかった」
「信頼性、ですか?」
「そうだ。一つ目は【仮説】。文字通り、技能の構造から推測されるだけの、まだ安全が確認されていない理論上の用途だ。二つ目は【実証済み】。これは、保護された環境での安全試験をクリアし、実行できた条件と、試した回数を必ず添える。そして三つ目は……」
ヨハンは言葉を区切り、深く息を吐いた。
「【禁止】だ。これを破れば、本人の命や周囲に重大な危険を及ぼすという明確なレッドライン。……ガイのような犠牲者を二度と出さないために、最も目立つ場所にこの欄を作れ」
「わかりました……!」
ルカは真剣な顔で頷き、素早い手つきで羊皮紙に定規を当て、新たな様式を清書していく。
それはもはや、追放される子どもに渡すための「こっそりとした裏技のメモ」ではなかった。
仮説を立て、試験を行い、実証し、禁止事項を定める。技能という未知の力を、人間が管理し、安全に運用するための『科学的な手順書』への進化だった。
その一部始終を、開け放たれた執務室の入り口から、異端審問官のマティアスが静かに見つめていた。
手続と規則を重んじる彼の目から見ても、ヨハンのこの改善は理にかなっていた。神の奇跡だと盲信して暴走するのではなく、人間の推測と事実を明確に分け、リスクを管理しようとする姿勢。
「……素晴らしい改善です、ヨハン神官」
マティアスはゆっくりと歩み寄り、机の上の新しい記録票を見下ろした。
「仮説と実測を分ける。この改訂は必要です。出回った写本は販売元を調べ、相談窓口には使用を急がないよう掲示を出します」
「評価されるためにやったわけではありません。これ以上の事故を防ぐための、最低限の義務です」
ヨハンが答えると、マティアスは表情を消し、冷徹な監査者の顔に戻った。
「ええ。ですから、私も私の義務を果たさねばなりません」
マティアスは懐から、中央授能審査局の厳重な封蝋がされた文書を取り出した。
「街で出回っている粗悪な写本は、中央の目にも留まりました。教会の秩序を著しく乱す『異端の書』として、上層部はついに正式な命令を下しました」
マティアスの声が、冷たい刃のようにヨハンに突きつけられる。
「匿名文書の原作者と流通経路を特定し、関係資料を提出せよ。身柄措置は立証後に審査する。……これが、私に下された正式命令です」
監視の目は、明確な追及へと変わった。
知っている監督者の前で、どこまでこの救済を続けられるか。ヨハンの静かな闘いは、ついに逃げ場のない局面に立たされていた。




