第11話 本当に小さい技能
地方聖堂の裏手にひっそりと佇む物置小屋。今やルカの技能記録士見習いとしての作業場となったその場所に、一人の少女がうつむき加減で座っていた。
少女の名前はエダ。先日十五歳になり、授与の儀を受けたばかりの平民の娘だ。
「……冒険者になって、魔獣を倒して、家族に楽をさせてあげたかったんです。でも」
エダは膝の上でぎゅっと両手を握りしめ、ポツリとこぼした。
「私に出た技能は《一歩》。等級は第五でした。剣が上手くなるわけでも、魔法の火が出るわけでもありません。名前の通り、ただ一歩踏み出すだけ……。これじゃあ、何の役にも立ちません」
華々しい英雄譚に憧れる若者にとって、戦闘力が全く上がらない技能は絶望に等しい。エダの肩は小刻みに震えていた。
ヨハンは彼女の正面に座り、静かな声で問いかけた。
「エダさん。役立つかどうかは、条件を調べてから決めることです。あなたの技能の『本当の使い方』を調べるために、協力してもらえますか」
エダは同意し、足元に技能を顕した。薄い光を捉えて、ヨハンの《注釈》が発動した。
彼女の《一歩》の構造情報が、ヨハンの脳裏に補足文として浮かび上がる。
『最初の一歩だけ、足場の崩れ・滑りの影響を受けにくくなる。連続使用は不可』
(なるほど。非常に限定的だ)
ヨハンは情報を整理した。この技能は、決して劣勢を覆すような派手なものではない。文字通り「本当に小さい技能」だ。
「ルカ。試験の記録を。最初は平らな所で行おう」
「はい」
聖堂の軒下に、浅い泥を入れた箱を置いた。脇には手すり代わりの丈夫な台がある。エダの腰に補助帯を巻き、セラが端を持った。
「最初の一歩だけです。二歩目は出さず、いったん台につかまってください」
ヨハンの言葉をエダが復唱してから、試験を始めた。
泥の上に下ろした右足が、滑りかけて止まる。
「いつもより、踏めます」
エダは驚いた顔で台につかまった。だが、続けてやり直すと、光が出ない。
「今度は駄目です」
「間を置く必要があるようですね。その長さも確かめましょう」
再使用できるまでの時間を、ルカが計った。別の靴でも試す。一歩が安定しても、その場に立ち続ける間、泥が固まるわけではなかった。
「ずっと支えになるわけじゃ、ないんですね」
エダは泥のついた靴を見た。ヨハンは頷く。派手な反転を期待した顔へ、都合のいいことは言えなかった。
「戦えなくても、外れではありませんよ」
ヨハンは、泣きじゃくるエダに手ぬぐいを差し出した。
「一歩だけでは難しくても、道具や他の人の技術と組み合わせられるかもしれません。……セラ」
「あいよ。補助帯は持ってるから、話を聞いてきな」
セラはエダを台の脇へ誘導してから、木陰で試験を見ていた男へ手を振った。日焼けした屈強な初老の男。地元で長年、山岳案内人を務めているという。
さらに、反対側からは「ヨハンさん、ルカくん!」と手を振りながら、先日救われたばかりのミラが小走りでやってきた。彼女は今、念願叶って治療院で見習いとして働き始めている。
「エダさん。彼らに、さっきの『一歩』を見せてあげてください」
十分な休止を置いてから、エダは泥箱へ右足を踏み出した。セラは補助帯を離さなかった。
それを見た山岳案内人の男は、目を丸くして唸り声を上げた。
「こいつはすげえ。嬢ちゃん、岩場でも同じことができるか?」
「え? あ、はい。足場が崩れにくくなるみたいなので……」
「試した岩場の条件も聞かせてくれ。仕事に結びつくかもしれん」
案内人の男は興奮気味に言った。
「山じゃ、一歩目で足を取られる場所がある。そこに縄を渡す役はいる。ただし、お前の足を支点にするんじゃねえぞ。先の岩や杭に、ちゃんと結ぶんだ」
案内人は、自分の安全帯を見せた。
「二歩目からは普通に歩く。その技術は、これから覚えてもらう。いきなり崖には出さん」
「それでも、雇ってもらえるんですか」
「見習いからならな」
ミラも口を挟んだ。
「治療院でも、濡れた床で患者さんを支えることがあります。でも、エダさんの技能が患者さんの足に移るわけじゃないんですよね」
「ええ。補助する本人が踏み損ねにくくなるだけです」とヨハンは答えた。
「だったら、介助のやり方も一緒に覚えてもらえると嬉しいです。踏み出す時に滑りにくい人が一人いると、助かる時があるから」
エダはすぐには返事をしなかった。やがて、案内人へ向き直った。
「山の方を、見学させてください。魔獣を倒す仕事じゃなくても、外を歩くのは好きなんです」
山岳案内人と治療院。
戦う力はなくても、その「本当に小さい技能」は、確かに誰かの命と希望を支える役割を持っていた。
「私……強くなくても、仕事になるんですね」
エダは泥だらけの顔をくしゃくしゃにして、今度は嬉し泣きをした。
ルカは用途の欄を清書した。『本人が希望した見学先』を、その下に書き足す。
【技能名】《一歩》(第五標準化等級)
【対象】保持者の最初の一歩
【効果】足場の崩れ・滑りの影響を受けにくくなる
【制約】本人の最初の一歩のみ。連続使用不可。静止中の足場や、同行者の足は守らない。滑落を完全に防ぐ保証はない。
【用途】歩行訓練の補助、山岳救助・登攀の初動ルート工作。
「記録、完了しました!」
ルカの声に、ヨハンは深く頷いた。
遠巻きに見ていたマティアスも、微かに目を細め、静かにその場を立ち去っていった。
*
エダが山岳案内人の組合へ向かうのを見送った後。
物置小屋に、温かい余韻が残っていた。誰もが自分の役割を見つけ、前へ進み始めている。
しかし、その平穏は、街へ買い出しに出ていたセラが戻ってきたことで打ち破られた。
「……先生。厄介なことになってる」
セラはひどく険しい顔をして、小屋の机の上に粗悪な羊皮紙の束を放り投げた。
「なんだ、これは……?」
ヨハンがそれを手に取り、文字に目を走らせる。一読して、ヨハンの顔色からサッと血の気が引いた。
古い手紙の断片に、最近の実測記録らしい数値まで継ぎ合わせてある。個人名と試験条件は抜け落ちていた。
「街の露店で、怪しげな情報屋が売り捌いてたんだ。私が七年前にあんたからもらった手紙の内容も、そっくりそのまま書かれてる」
「写本、ですか……!」
「ああ。問題は、内容が本人の意図を離れて勝手に広がり始めていることだ。この紙切れ、街の連中の間じゃ『この条件を満たせば、どんな怪我も無効化できる絶対の安全保証』みたいな、万能の裏技として曲解されて売られてる」
ルカが息を呑む。
第五等級の技能は、条件を知れば便利だが、制約を無視すれば牙を剥く。
マティアスが夜の記録室で放った警告が、ヨハンの脳裏に蘇る。
『救助の実績とは分けて判断します』
ヨハンの「こっそりと渡す手紙」という秘密の方法が、予期せぬ形で社会に拡散し、明確な実害のリスクを孕み始めていた。




