第10話 半分にしても、消えません
地方聖堂の裏手にひっそりと佇む物置小屋は、いつの間にかルカの『技能記録士見習い』としての作業部屋になっていた。
薄暗いランプの光の下、ルカは用意した羊皮紙に羽根ペンを走らせている。
彼らの前に座っているのは、ミラという十五歳の少女だった。彼女は両手を膝の上で固く握りしめ、ひどく緊張した面持ちで俯いている。
「ミラさん、緊張しなくて大丈夫ですよ。僕も少し前まで、自分の第五等級をどうしたらいいかわからなくて、泣きそうになってましたから」
ルカが人の良い笑顔で語りかけると、ミラは少しだけ顔を上げた。
「私の技能は、《半分》という名前です。……子どもの頃からずっと、治療院で働くのが夢でした。でも、授与式でこの技能が出た後、面接で言われてしまったんです」
ミラの声が小さく震える。
「『ものを半分にするだけで、傷を治すことも痛みを消すこともできないなら、治療院では役に立たない』って。……私、外れスキルなんですよね」
痛みを消す奇跡の力など、そう都合よく誰にでも与えられるものではない。深い傷を一度に治せる治癒技能の持ち主は、どの治療院でも不足していた。
ヨハンはミラの正面に座り、静かに首を振った。
「役に立つかどうかを決めるのは、名前ではありません。ミラさん、あなたの技能の『本当の使い方』を調べるために、少しだけ協力してくれませんか」
「あ、はい……」
ミラが同意し、机の水へ技能の光を顕した。ヨハンの第五等級の技能《注釈》が静かに発動した。
彼女の《半分》の背後にある構造情報が、ヨハンの頭の中で補足文となって展開される。
『定量化可能な一つの量・負荷を、二つの等価単位へ分割する。総量は変わらない。対象および時間に厳しい制限がある』
(なるほど。傷や痛みを消去することはできないが、量や負荷を『分ける』ことはできる)
ヨハンは納得し、ルカに視線を送った。
「ルカ。先日決めた書式の準備を」
「はい。対象と効果、制約。それから、今日は何を確かめるか、ですね」
ルカは前の紙を横へ置いた。先日の書式に、まだ何度も線を引き足している。
「ミラさん。まずは、このビーカーに入った水を見てください。正確に二百ミリリットル入っています」
ヨハンは机の上にビーカーと、二つの空のグラスを置いた。
「この水の『量』を、技能で《半分》に分けられますか?」
ミラはおずおずと手をかざした。
淡い光が瞬いたかと思うと、ビーカーの中の水がふわりと宙に浮き、二つのグラスへ正確に分かれて注ぎ込まれた。
ルカが目盛りを確認する。
「すごい……! どちらのグラスも、寸分の狂いもなく百ミリリットルぴったりです」
「同じことをもう一度、できますか」
水で三回試し、ルカが計量した。目盛りで確かめられる範囲では、すべて二等分されている。
次にヨハンは、十キロの石を受け台へ置いた。その下には二つの秤を並べた。
「この荷重を、左右の受け台へ分けてみてください。持ち上げる必要はありません」
ミラが台の両端に触れる。片側へ偏っていた秤の針が、五キロずつの位置へ揃った。手を離すと元へ戻る。
「両方とも、受けるものが要るんですね」
「そうです。重さは消えていない。片方をなくす試験は、今日はしません」
ヨハンは紙へ記した。接触して指定した二つの受け先。そのどちらにも、分けた荷重を支える強さが必要だ。揺れる荷や急な衝撃を同じように扱えるかは、まだわからない。
「これを、治療院で使えますか」
ミラの小さな声に、ヨハンは青く染めた水を用意した。
「まず、薬の代わりにこれで考えましょう。半分に分けると、色はどうなりますか」
ミラは二つの杯を見比べた。
「……同じです。薄くはなりません」
「そう。分けられるのは量です。薬の濃度を半分にするには、別に水などを足さないといけない。そこは薬師の仕事になる」
ミラが俯きかける。ヨハンは、小さな投薬容器を並べた。
「でも、薬師が作った薬を、指示された二つの量に分ける作業は残ります。毎回、最後の一滴まで同じに分けるのは、案外手がかかる」
ミラは空の容器を手に取った。
「治す人には、なれなくても」
「治す人の仕事を支えることは、できるかもしれません。器の形が変わっても精度が保てるか、次に確かめましょう」
戸口で試験を見ていたマティアスが、試験終了の時刻を告げた。ヨハンはもっと試したい気持ちを抑え、道具を片付ける。
ミラは最後まで、自分の計量結果を見ていた。
「この写しを、治療院に持っていってもいいですか」
「実測記録としてなら。採用を保証する紙ではありません」
マティアスの返事に、少女は何度も頷いた。
「はい。まだ見せられるものがあるって、言いたいんです」
*
その日の夜。
ヨハンは地方聖堂の記録室に残り、ランプの灯りの下で一人、中央から届いた通達の整理をしていた。
等級変更は禁止されている。今日の試験も、生活相談に付随する実測という狭い枠の中で認められたものだ。書類の上では許されても、匿名の手紙まで免責されたわけではない。
ふと、背後の扉が開く音がした。
「まだ残っていたのですね、ヨハン神官」
振り返ると、そこに立っていたのは異端審問官のマティアスだった。漆黒の外套が、夜の暗闇に溶け込んでいるように見える。
「……マティアス監査官。本日の監査業務は終了したはずですが」
「ええ。ですから、これは私の個人的な残業です。どうしても、あなたと二人きりで話しておきたいことがありましてね」
マティアスはゆっくりと歩み寄り、ヨハンの机の前に立った。
その顔には、いつもの皮肉めいた笑みはなかった。手続と規則を司る審問官としての、氷のように冷たい眼差しだけがある。
「今日の試験では、禁止すべき対象を、試す前から知っていましたね」
「危険を避けたのです」
「ええ。知っていたこと自体を責めているのではありません。その根拠が、書面にないことを尋ねています」
ヨハンの背筋に冷たい汗が伝う。
マティアスは、ヨハンの目から一切視線を逸らさずに、静かに、だが決定的な一言を放った。
「匿名の手紙を書いたのは、あなたですね」
沈黙が落ちた。
ランプの火が揺れ、二人の影が壁に長く伸びる。
七年間、公には認めずにきた秘密。追放される子どもたちにだけ、『本当の使い方』を記した一枚の紙を忍ばせ続けてきた事実。
ついに、最も知られてはならない相手に到達された。
「……正式な聴取ですか」
ヨハンは必死に感情を押し殺し、平坦な声で答えた。
「今は違います。写本と筆跡だけでは、すべての原本を書いたとまでは立証できない」
マティアスはあっさりと認めた。
「ですが、あなたの記録の書き方、先日の荷車事故での指揮と、今日の試験手順を見れば、私には明らかです。あなたの第五等級《注釈》は、技能の隠された情報を読むことができるのでしょう?」
マティアスは完全に真実に辿り着いていた。異端審問官としての経験と、手続を追う鋭い観察眼が、ヨハンの隠してきたパズルを解き明かしたのだ。
「否定はしないのですね」
「……」
ヨハンは無言を貫いた。ここで肯定すれば、明日には異端審問にかけられ、神官の資格を剥奪されるだろう。だが、嘘をついて逃げ切れる相手でもない。
マティアスは小さく息を吐き、ヨハンの机に両手をついた。
「安心しなさい。私は記録と手続を重んじる人間だ。確たる物証がない以上、現時点であなたを告発するつもりはありません」
その言葉に、ヨハンは微かに目を見開いた。
「では、なぜわざわざこんな夜に?」
「警告するためです」
マティアスの声が、一段と低く、重くなった。
「ヨハン神官。あなたのやっていることは、子どもたちへの救済かもしれない。だが、能力の条件だけを教えて社会に放り出す行為は、極めて危険だ。……もしも、手紙の読み違いで大事故が起きたり、あなたの指導で誰かが死ぬようなことがあれば」
マティアスは身を乗り出し、ヨハンの目を真っ向から見据えた。
「その時は、私は審問官として、規程に従って指導を止めます。救助の実績とは分けて判断します」
それは、単なる敵対宣言ではなかった。
ヨハンの行動を、その危険性を理解した上で、ギリギリの線で見逃し、監視を続けるという『監督者』としての宣言だった。
「……承知しました」
ヨハンはマティアスの視線を受け止め、深く頷いた。
背負うものが一つ増えた。だが、足を止めるつもりはない。第五等級の真の価値を明らかにし、彼らが正当に生きられる場所を作るまでは。




